旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ニン~戴冠の教会と中世の船「コンデゥーラ・クロアティカ」

2018-06-11 12:12:12 | クロアチア

ニンの小さな島から車なら五分も走らない小さな丘に、一度見たら忘れられない小さなロマネスクの聖堂がある↓

以前、道路からその姿を見てはっとしたのだがバスを止められなかった。今回は念願かなって近くに行ける(^.^)

平原の中になぜかぽこんと出た土盛り↑小松には古墳のようにみえるのだけれど、地元ガイドさんは自然のものだという。
だが、教会がつくられる以前からスラヴ民族が埋葬されていた小山だったのだそうだ。やっぱり…人工の古墳じゃないのかしらん。
12世紀の●聖ニコラス教会という表示があるが、実際にはそれだけでは語れない歴史がある建物↓
伝説的に語られる歴史では、ニンに住んだ七人のクロアチア王が人々が見守る中、ニン島からこの小山まで馬をすすめ、丘に登り司教から冠をいただいたのだという。
古い時代のの礼拝堂は上部がこのような砦のかたちではなく、二階建てで小さなドームがあったと推察されている↓

↑ヴェネチア時代に見張り塔に改築された際に上部が砦構造に改築された。

建物の持つ魅力とは、それがオリジナルであるかどうかや大小に左右されない。
周囲の環境、見えてくるプロセスや高さ、いろいろなものが混ざり合って醸し出される。
人が設計して予定して出現させられるものではない。
こんなふうに偶然に、しかし必然に、歴史の片隅に姿を留めている。

**
ニン島の中にある●聖十字架教会も忘れられない小さなロマネスク↓

なんと9世紀からの構造をそのまま残しているという
ここはローマ時代には住居があったエリアで、現在周囲にみられる石の土台はその跡

キリスト教時代になり、この教会が出来てからは墓地となった

内部はとてもシンプル↓


かつてここにあった装飾物はすべて博物館に移された。
子供たちが自国の歴史をまなびにやってくる場所↓

**
●考古学博物館は正面の赤い建物↓

ここに島の入口につないであった黒い小舟の本物がある↓

ニンの港の入口付近の海中から発見された↓下の写真でニン島を守るように伸びている砂州の先端あたりだったそうだ↓

炭素年代測定の結果11世紀ごろ、つまり中世クロアチア王国の時代のものとわかったので
「CONDURRA CROATICA(クロアチアの船)」と名付けられた。
パッと見て、オスロ(ノルウェー)にあるヴァイキング船博物館を思い出した。
遠く離れた北欧の? と、思うなかれ。
ヴァイキングと呼ばれた彼らは木製の船ではるかな距離を南下し、シチリアにノルマン王朝をうちたてたりしていた時代である。
造船の技術というのが伝わるのは案外早かったのではないだろうか。
近づいてよく見るとオリジナルの材料を最大限使って復元してある↓

頑丈な作りで、商品輸送にもはたまた戦闘の際にも使われたと考えられている。
近くの古代ローマの旧港で見つかったより古い船がこれ↓

こちらはローマ人より前にいた先住民族の名前から「SERILIA LIBURNICA(セリーリャ・リブルニッツァ)」と名付けられた。
これら水中から見つかった船はニンの博物館でなければ見られない品である。

考古学博物館にはもちろんローマ時代の解説も多数ある↓こんな巨大神殿があったのか↓

実際の場所に復元されているのは一本の柱だけだが↓

↓中庭に展示された石造物は古代から近代まで多岐にわたる↓


小さな博物館なのでニン島で二十分よけいに時間があれば寄ってみたい。もちろんしっかりした解説付きで。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニン~クロアチア王国発祥の古都

2018-06-11 10:10:10 | クロアチア
ザダルの北15キロほどのところにある古都ニンへ向かう。途中、ザダルの旧市街が見える場所でストップ。
市街地に降りた円盤は何?↓

バスケットボールのスタジアムだそうです

ニンは長さ五百メートルほどの小さな島。周囲が干潟になっていて「運河のない小さなヴェネチア」といったら分かりやすいだろうか。
※ニンのツーリストサイト こちらの空撮写真を見るとよくわかります
古代ローマの時代にはAENONAと呼ばれて巨大な神殿のある整備された街だった。それ以前のイリリア人も住んでいた。
そして、中世クロアチア王国の首都となった。

16世紀の橋で島へ向かう↓入口に立つ銅像はクロアチア公ブラニミル↓

クロアチア公という地位を東のビザンチンの元から西のローマの力を使って独立させたとされる人物。
彼は十字架をローマの方向に掲げている姿なのだそうだ。
銅像は2007年に設置されたばかり↓



重厚な橋は、昨年に洪水で一部が破壊された↓

島に近いあたり↓

↓洪水の時の写真が掲げられていた↓島が半分水没している

橋を渡りきったところに町の入口となる門がある↓中世風に再建されている

ニンの紋章はこんな↓


右手を見ると黒い小舟が浮かんでいる↓知らなければまったく気に留めそうもないこの船があとで博物館で見る「コンドゥーラ・クロアティカ」の復元だった↓


門をくぐると道はY時に分かれていた。左は真っ直ぐ南北になっていてローマ時代からの「カルド」であるのが分かる。

↑右の道を行って門を振り返ったところ
右側にそれていく道は中世にできたもので少し歩くと大きな鐘楼がたっている↓

守護聖人アンセルムの教会は最初六世紀に建造、スラヴ人系のクロアチア人の王ズヴォニミル統治下の1070年に石造りのものに換えられた。現在みられる18世紀の教会の下に11世紀の遺構が少しだけ見られる↓

教会内部↓右奥に11世紀からの礼拝堂が残っているそうだ↓

近づけませんが

ブラニミル公からはじまる独立したクロアチア人の国は百八十年ほど続く。ニンはその最初の首都であり、宮殿はこの教会のすぐとなりにあったとされている。

修復した教会の北側壁↓

あきらかに前の教会に使われていた石像が左右にはめこまれている↓


すぐそばに司教グレゴール・ニンスキーの像↓

これはスプリトで見た巨大な像の人物と同じ
★詳しくはこちらに書きました
彼がトミスラフ王と対立していたのがこのニンにおいてだった↓
今日のガイドのイヴァン(イワン)さんによると、銅像を作成したイヴァン・メシュトロヴィッチは繰り返しグレゴール・ニンスキー司教をつくっていて、彼の信奉するグレゴール文字が生かされていた時代の町には聖書が開かれたヴァージョンが設置されているのだとか。確認できなかったけれど、見てみたい。
スプリトの町にはメシュトロヴィッチのアトリエが美術館記念館になっているそうなので、訪れる機会があればよいなと思います。

近くのチステルンの蓋にグレゴール文字が刻まれていた↓


・・・実はニンにはもっと美しいロマネスク教会が壊されずに残されている…次へ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ザダル~考古学博物館

2018-06-11 08:08:08 | クロアチア
聖ドナート教会がそびえる古代ローマのフォロの目の前にある1974年からの建物がザダル考古学博物館↓下の写真で円筒形の聖ドナート教会の向かい側(右)に写っている横長の白い建物↓

↓パノラマ写真↓右から、聖マリア教会・修道院、考古学博物館、円筒形の聖ドナート教会、一般の建物(第二次大戦での爆撃をまぬかれた)、左端にちいさく古代ローマのフォロの柱「恥の柱」(中世に犯罪人をつないで曝したことにゆらいする)

考古学博物館は現在の建物に移る前、ナポレオンによって教会ではなくなっていた聖ドナート教会だった。
9世紀からの建物に物置のように収蔵品が入っていたということか。

現在の博物館はきれいに整備されている。
最初は二階の●古代ローマの展示から見始めるのがよい。
古代ローマのスタートは「ロムルスとレムス」と狼↓狐ではありません

ローマ兵士の墓碑↓名前の左右に兵士のすね当てが描かれている↓

その近くにすねあてそのモノが展示されていた↓

ローマ軍団の兵士は定められた兵役を終えると土地を与えられて新しい街に揃って入植していた。そうして、ローマ帝国の各地に新しいローマスタイルの町が広がっていったと言ってよい。リタイアしてもローマ軍団の兵士であったことは特権であったし、生涯の誇りであったのだろう。
墓から見つかった「元ローマ軍団兵士証明書」↓

これはトラヤヌス帝時代のものでダキア(現ブルガリアあたり)を戦った兵士のものだそうな↑

↓ローマの水道管は何十キロも付設されていた↓

↓サイコロってこの時代から現代までまったく変わってないのですね↓

今は消滅してしまったミトラ教の神像↓

↓この石の台は上部にあった石のテーブルで生贄を殺し、その血を下から流したのではないかと推察されている

古代ローマのセクションの最後には、明日我々が訪れる予定のニン島から発掘された皇帝の立像↓

中央には神格化されたアウグストス帝(半分裸体であらわされているので神)、右側は最高神技官の姿をした(トーがを頭にかぶっていることからそれがわかる)二代皇帝ティベリウス。
ニン島は長さ五百メートルの小さな島だが、古代ローマの時代から巨大な神殿が立ち並んでいた。この立像ももともとは八体あったと推察されている。
クロアチア王国発祥の場所として知られている。
**

●初期キリスト教のセクション
十二使徒の姿が描かれた円錐形の容器は遺骨入れ?
右下のガラスのツボはまさにそう。初期のキリスト教徒は古代と同じように火葬して遺灰を骨壺に入れるという方法もとっていたらしい↓

↓奥の四角い箱は、よく見るとプラスチック↓

もともと木製だった部分が失われていたので銅に金銀でめっきした装飾部分だけをあらたにこのような形で復元したのだ。
新しい、分かりやすい展示方法だ。

二階の窓から聖ドナート聖堂がきれいに見えている↓

この丸い聖堂は輪切りにするとこんなふうになっていて↓

天上の木製梁部分だったと思われる木材が、二階の床部分から二本見つかっている↓


●中世クロアチア王国時代のセクション
九世紀にはじめてCROATという部族の名前が刻まれた教会の装飾と思われる部分↓

ブラニミルの名前も見える、彼は初代クロアチア国王となるトミスラフの二代前の支配者。
ニン島の宮殿に住んでいたとされている。
中世クロアチア王国は925年のトミスラフ王の戴冠から1102年のハンガリー王に血縁により吸収されるまでの百八十年ほどとされている。
だが、この時代には確かに独自のクロアチア文化というものがあったのだと感じさせてくれる。
ザダルのストシャ大聖堂にあった棺↓

同じくストシャ大聖堂にあったプロコンスル(総督?)グレゴールのキボリウム↓その一部


いちばん上の部分に刻まれた言葉
「天国のカギを守る者ペテロよ わが捧げものをお受け取りください 取るに足りない小さき者 プロコンスル・グレゴール」
このキボリウム(天蓋)が製作されたとされる1030年ごろはすでに西ローマ帝国は滅んでいる。クロアチア王国下で「プロコンスル」というのが、盛期ローマと同じ「地方総督」をあらわしているのかよくわからない。

↓失われたドメニカ教会にあった石の衝立↓

ルネサンスのような華やかさはないが洗練されたデザインのロマネスク表現である





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ザダルまだまだ見所たくさん

2018-06-10 18:18:18 | クロアチア
ザダルの見所は一日で追いきれないと、地元ガイドさんと一日いっぱいい歩いて気付いた。忘れないようにできるだけ書いておきます
「●聖クルシュヴァン教会の後陣がザダルでいちばん美しいロマネスクだと思います」
と、ガイドのアンナさんの言葉に小松も納得↓

だが、美しい後陣の前の小さな広場にテントを大きく開いたカフェがあるので正面から全体を見る視点がないのが残念。

スラヴ語で「聖クルシュヴァン」はイタリア語で「聖グリゾゴノスGrisogono またはCrisogonus」、英語で「Chrysogonus」という表記になっている場合もある。
ローマの兵士だったがキリスト教徒となりディオクレティアヌス帝によってアクイレイア(ヴェネチアの東に位置する遺跡が残る街)で斬首される。遺体は海に捨てられたがザダルの司教ゾイルスが見つけて埋葬したとされる。
↓こちらがファサード部分。均整のとれたロマネスク↓空白になっている部分にはもともとなにかあったのかしらん…

左に少し写っている銅像はPetar Zoranićという16世紀の詩人
教会内部にはフレスコなど残されているそうだが入れなかった。
**この日のランチ
・タコサラダ

・イカ墨とアーティチョークのリゾット↓


**
19世紀まで住民の半数はイタリア人だったそうだ。イタリア人用のリタイヤ施設↓

近くの民家の壁にかかげられた聖画には↓

↓背景にナポリのヴぇスビオ火山が描かれている↓

***
●フランチェスコ派の修道院は今でも活動している↓なんどもあった大きな地震に耐えてきた中庭↓

墓碑
教会堂内↓

今も使われている庭への入口にはフランチェスコの弟子であるアントニオの姿。百合を持っているのでそうとわかる↓

****
●聖マリア教会と修道院は古代ローマのフォロに面した場所にある↓

「ザダルの金と銀」という博物館には黄長な宗教記念物が収蔵されている。これらは第二次大戦中にドイツの傀儡政権に略奪されそうになったが、付設の塔の基部に隠されていたのだそうだ↓修道士が住むこの壁の向こう側になる↓


●ナロードニ広場
ローマのフォロが6世紀の地震によって破壊されて以降、中世ザダルの中心はこの広場に移っていた↓

ヴェネチア支配時代の最後にザダルの総督だったアンジェロ・ディエドという人物が自分の名前を刻んだパネル↓
年号は1792年

ヴェネチアの伝統として、個人の業績を記念碑に刻ませないというのがあって、ザダルではその人物が離任すると名前の部分が消されていたのだそうだが、これはそのままになっている。
向かい側の建物にある16世紀のプレートでは確かに名前の部分が削られているのがわかる↓

先のプレートの名前が削られなかったのは、1797年にヴェネチア共和国がナポレオンによって終わってしまったから。

●ザダルの「隠されたカギ」
現地のガイドブックをめくっていて、廃墟になった教会の写真に目が留まった↓

ふくらんだ花びらの形はロマネスク教会の跡にちがいない。
「これって、どこにあるのですか?」とアンナさんに訊ねると、嬉しそうに町の地図に小さく載せられていた印をおしえてくれた↓

ザダル市が「シークレット・ザダル」のシンボルに選んでいたのである。

9世紀のストモリカ礼拝堂跡は海に近い道路際にあった↓ほんとうに小さな、しかし均整のとれた建物だったのが感じられる。

16世紀に海沿の壁を建築する際に壊されて、この基部だけが地下にのこされていたのだが、1967年の発掘によってこのようなかたちが見られるようになった。

●聖シムン教会は、南側の壁はなんと五世紀から残されているという↓

事前に調べていた、内部にある14世紀につくられた聖シムンの棺は見もののようだが、「ほとんど見られない」そうな。
いつか見られる機会があるかしらん。

●五つの井戸の広場はヴェネチア時代にザダルの陸からの入口につくられた。ここはローマ時代から城門のあった。

古代の城門が発掘されている↓

中世よりも古代の門のほうがずっと大きかった

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ザダルの現代アート

2018-06-10 16:16:16 | クロアチア
旧市街のある半島の先端に、2009年に設置された「太陽への招待」という現代アート作品↓

ガラスの下に太陽電池パネルがあって、昼間に逐電して夜光る↓きのうの夕方↓

いちばん大きな円は太陽を表し、小さな円は惑星だったのか

円周上にザダルにある(かつてあったものも含む)教会の聖人の名前が書かれている↓

***
すぐちかくに、同じニコラ・パシッチ氏の作品「海のオルガン」がある↓
この鍵盤には今日になって気が付いた↓

潮の満ち引きで不思議な音を出すしかけ↓

※こちらyoutubeに昨夜の散歩を載せました

ガイドさん曰く、冬場の波が荒い時期にはとても大きな音になるとか。
「近所迷惑じゃないですかね?」と質問すると
「最初設置された時にはあのへんの(と近くの家を示す)住民が怒って、夜の間は止めるように市に求めたよね」
だが、結局は慣れてうやむやになって今日に至っているそうな。
音が聞える近隣の部屋は住民が観光客に貸し出しているのだそうな。
****
今回の旅で、いちばん予想外の光景がこれ↓

9世紀のドナート教会の内部に入って目の前に九メートルの像が見下ろしていたのだから

●アンテ・ラヂッジという現代彫刻作家の作品。それにしても、これは誰?モデルは?
ガイドさんに「LOSINJ APOXIOMENUS」だと書いてもらい、それを検索してやっとわかった。
1998年に、ロヒニ島(ザダルから北へ、イストラ半島への途中)近くの海底からベルギー人のツーリストダイバーが見つけたギリシァ・ローマ時代のオリジナルブロンズ彫刻。
海底から腕が出ていたのをたどっていくと、ほぼ全身が完全な形でみつかり、当時考古学界で大きな話題になっていた。
慎重に修復がすすめられて2006年に一般公開。
2008年に小松がスプリトを訪れた時に展覧会をやっていたのを思い出した↓

このポーズは古代ローマのアスリートが専用の道具で身体を手入れしているところ

身長高195㎝、10㎝のオリジナルの台座に乗っている↓

↑※上の写真は別の都市で巡回公開していた際のものです

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする