旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ベルリンの壁~「チェックポイント・チャーリー」の今

2018-02-11 19:30:23 | ドイツ

現在はベルリンで指折りの観光地である↓

片側にアメリカ兵の顏、逆側にソ連兵の顔が掲げてある。左側のビルに「壁の博物館」があるようだ
右側にはマクドナルド、手前左にKFC

記念写真の場所↓は、いかにもそれらしいが検問所よりもずっと手前


足元に、壁のあった場所の表示↓

これがなければもうどこが壁だったのかさえ判別がつかないほど跡形もない↓


西ベルリンを取り囲んでいた150㎞を超える長さの壁↓下の図の赤い枠↓

いくつもの検問所があったが、もっとも有名なのがここ「チェックポイント・チャーリー」↑
「チャーリー」とは単に「C」の意味↑上図の赤い点。ここは外国人と外交官だけが通過できる検問所として、アメリカ占領地区と東ベルリンの間にあった。

他に「アルファ=A]と「ブラヴォー=B」と呼ばれた検問所もあったし、検問所は他にもたくさんあって↓※下の図で赤い点の場所↓

↑旅行者がこれらを通過して第三国へいくことも可能だった。

●ベルリンの壁の経緯をちょっとふりかえる
敗戦国ドイツを分割統治した戦勝四か国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)は、さらにベルリンも四つに分割した。
四つの地区の間はもともと往来自由だった。
占領している国がちがうだけで同じベルリン市民だったのだ。

これらが別の国家として別れてしまったのは1949年。
1948年にそれぞれの占領エリアで新ドイツマルクを発行することになった時、ソ連とほかの三国が同じ通貨にできなかったのが決定的だった。
そこから社会主義の東側と資本主義の西側で、経済格差がうまれはじめる。
○ベルリン封鎖は、西ベルリンとの往来をはじめて遮断した出来事
1948年7月24日から翌1949年5月12日までの間、電気や水も含めて西ベルリンを兵糧攻めにした。
西側は「ベルリン空輸」でそれをしのいだが、不満を感じた東側の市民が西に移動してしまう事例が続く。
○ベルリン暴動(1953年6月17日)では三十万人が東から西ベルリンへ亡命したといわれる。
当時、東西ドイツ人が「国境」を自由往来することはできなくなっていたが、西ベルリンの中だけは自由に入ることが出来たのである。
東からの「難民」流出は続く、1961年までに二百七十万人。1961年になると週に四千人。
西ドイツには「難民収容施設」が建設されていた。西ドイツを目指す難民のはじめは東側の同胞だったのである。

1961年6月3日、フルシチョフはケネディと会談し、あらためて西側が西ベルリンをあきらめるように促したが、アメリカは西ベルリンへの保護を続ける強い意志を示した。
8月13日日曜日の朝、「起きてみると東西の境界線は通れなくなっていた」市民にとってはこれが実感だったのではないか。
有刺鉄線が張られ兵士が並び、西側に忘れた帽子をとりに戻ることはもうできないのだ。

ここまでに政治的なレベルでのうごきはあったが、実力行使の日時は事前に通告されていなかった。
有刺鉄線はだんだんと強固な壁に換えられ、物理的に移動を不可能にしていった。

と、ここまでは教科書的な理解。
実際にこの場所を訪れて、東ドイツ人だったがカタリナさんの話を聴くと、分断の深まっていった様子がひしひし伝わってくる。
●1961年、最初の壁は人の背丈よりもずっと低かった↓

もともと町の中に無理やり引いた分断線だったのだから、そこを通るなというほうが無理なのである。
「通ってはいけません」を市民に守らせるには銃を向けるしかなかった。
検問所も障害物を置いてあるだけ↓車の上部を切り取って検問バーの下を突破した者もあったときく。


それが、壁はどんどん高くなり・特別性の固いコンクリートでできたモノに換えられた。検問所もきびしくチェックされるようになった↓


それでも壁を越えようとする人は後を絶たず、1961年から1989年までの間におよそ二万人が、なんらかのかたちで壁を越えたとされる。
失敗して命を落とした人136人の名前が年表になっていた↓

いや、これは少なすぎる。誰にでも見える形で殺された人の数だけだ。
今回調べていて、1962年8月ピーター・フェヒターのケースが壁の悲劇を象徴していると感じた。
彼は壁を越えようとした瞬間に撃たれ、不幸にも東側の壁際に落ちた。
西側から救護箱が投げ入れられたが、誰も助けに降りることなどできず、東西がにらみ合う場所で一時間苦しんだ末に絶命した。
ジャーナリストがすぐ近くから虫の息の彼を撮影した写真まで残されている。

こういう事例の、実際の数は分かっていない。
東ドイツ人が突然行方不明になった未解決の事例が今も調査されている。

これらの写真は、壁のすぐ横にある博物館に展示されていたもの↓



これらの博物館、実はみな個人がやっている。
公立のものは近くないのだ、びっくり。

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ベルリン市内をバスで巡る~ブランデンブルグ門ちかく

2018-02-10 21:09:18 | ドイツ

クーダム地区の中心にあるホテルを出発。すぐに動物園の入口を右にみる↓

1844年、ドイツで最初の動物園として開園。現在でもヨーロッパ屈指の大きさと入場者数を誇るそうな。
「エレファント・ゲート」夜にもどって撮影↓


第二次大戦で破壊された姿で遺された1890年建設の「カイザー・ウィルヘルム記念教会」↓

↑「虫歯」というあだ名がある。
となりに1960年代に建設された新教会がある。塔の部分は修復中だが、今日の午後にホテルにもどったら行ってみよう。


近くにある二つのリングが結びあう「ベルリン」というモニュメントは、分断下の1987年に設置された。東西ドイツの融和を願っている↓


ベルリンの象徴・かつてのベルリン街への正門だった「ブランデンブルグ門」が見えてきた↓

中世のベルリンもまた城壁に囲まれた古い街で、ここにはブランデンブルグ(ベルリンに遷都する1417年以前の首都)の方向へ通じる門があった。
古い城壁にあった本当に扉のある門は、城壁を壊した時に失われた。現在のものは1791年完成の象徴的な門なので扉は、ない↓

↑ギリシャ神殿の前門をイメージしているというと納得するデザイン↓
この、すぐ前に分断の壁があり、地面にここで演説したアメリカ大統領の記念プレートがはまっていた↓

これは旧西側から見たところ。つまり、この場所と門の間に壁が設けられていて近づくことはできなかった↓

1987年↓ロナルド・レーガンが「ゴルバチョフ書記長、壁を開けてくさだい!」と呼びかけた↓




かつては入れなかった東側がベルリンの旧市街だった↓今はひろびろとしたウンター・デン・リンデン通り↓下の写真の一番左に見えているのが2008年にオープンした新アメリカ大使館↓

アメリカはずいぶん手回しよくこんな場所に土地を買ったんだ、と思ったが、調べてみると第一次大戦後の1920年代すでにこの場所に大使館を持っていた。元の場所にもどっただけだったのか。


ブランデンブルグ門の上にある女神の乗る四頭立ての馬車↓四頭立ての馬車のことを「クアドリガ」と呼び、ローマ時代からの定番。
※かつてコンスタンチノープル(イスタンブル)にあり、現在ヴェネチアにあるものが有名だが、このブロンズ像もあの四頭を意識しているように見える。

↑ナポレオンは1806年にプロイセンを破り、ベルリンで勝利記念パレードを行い、この「クアドリガ」をパリに持ち去った。
凱旋門の上に飾ろうと思っていたのかもしれないが、この時はまだパリの凱旋門が完成していなかった。

「クアドリガ」がパリの凱旋門に飾られる日は幸か不幸かやって来ず、1815年にナポレオンが失脚するとすぐにベルリンに戻された。
その時まで女神が手に持っていたオリーブの葉の冠は、現在の鉄十字に取り換えられた。
ナポレオンの戦勝を祝うことになってしまったオリーブ冠をそのままはしたくなかったのかもしれない。

鉄十字はしかし「帝国主義的である」として東ベルリン時代には取り外されしまっていた。1990年になってやっと現在の位置にもどされた。


鉄十字というとナチスを思い浮かべるかもしれないが、もともとそれ以前のプロイセンから勲章のデザインに使われていた。ドイツに古くからある十字なのだ。
ヒトラーが第一次大戦に従軍した際に授与され、生涯唯一胸に付けて誇りにしていたからといって、鉄十字自体が否定されるべきものではない。

***
ウンター・デン・リンデン通りを旧市街と逆に進むと広い公園の中をすすんでゆく。途中にあるソ連の解放記念像↓第二次大戦の最後の局面でベルリンにいち早く侵入したT34型戦車が横に置かれている↓


高さ六十七メートルの巨大な「ドイツ戦勝記念塔」↓1864年~1872年にかけて建設された↓この時期、ドイツ民族の統一国家をつくるべく周辺諸国の干渉をはねのけるために多くの戦争をしたから↓

団体観光だとどうしても車窓になってしまうが、ここも是非あとで訪れたい。訪れよう。

議会のガラスのドームが見えてくる↓

ここはかつても議会だったが、火事で内部が破壊され廃墟になっていた。
まだ廃墟だった時代に歩いたことを覚えている。1999年から統一ドイツの正式議場となった。

大学の前庭では、ナチス時代に「有害図書」を集めて焼いた穴が残されているのだそうだ↓この奥にあるという

本を焼くという行為は、どんな理由をつけても正当化できない蛮行である。
その場所、間近にみておきたいと思ったが…バスの中からではちと遠かった。
***
ベルリンに富士山?↓

1996年に建設がはじまった、ポツダム広場にある「ソニー・シティ」のシンボルがこのテントである。
観光後に歩いてみた。
入口に目立つキリンちゃん↓ここには「レゴランド」も入っているのだ↓

さっき富士山のように見えていたテントを下から見上げる↓

半分屋外。今は寒いが、夏場には日陰になって過ごしやすいスペースになるのだろう↓


となりには「ダイムラー・シティ」もある。

★ポツダム広場は、ヒトラーがベルリン陥落を前に籠り、自殺した地下壕があった場所とされている↓ただし、正確な場所は意図的に公表されていない。ヒトラーを礼賛する人々を集める可能性があるから↓※映画「ヒトラー最後の十二日間」は、ここでなにがあったのかをよく理解させてくれる

1990年代はじめ、このあたりは時間が止まったような荒涼とした雰囲気の空き地だった記憶がある。

ポツダム広場は、忌まわしい記憶を払拭しようとするようにどんどん開発が進んだ。
ベルリンの壁は、もうどこにあったのかほとんど分からない↓この石の線でわずかに記憶されるだけ↓

逆に、ナチス以前のベルリンの記憶は、残す努力が行われている。

↓ソニーシティの一角に保存されている、1907年に建設されたかつての「グランド・エスペラナード・ホテル」の記憶↓

ネオロココといった雰囲気で、当時のドイツ皇帝もやってきていた。カイザールーム(皇帝の部屋)のとなりにあった「ブレークファーストルーム」の一部がこの断片だ↓

もともとの場所から西に七十五メートル移動させて、このようなかたちで保存している。

すぐちかくにこんなくまちゃん↓

あ、これはリッツ・カールトン・ホテルの入口か↓


マリオットにはこれ↓


ポツダム広場は19世紀から第二次大戦・壁の崩壊までの記憶を消し去るように再開発されたが、ブランデンブルグ門の近くには新たに歴史を記憶するための巨大なモニュメントが出現していた↓知らずに突然目にすると「なんだこれは?!」と思うだろう↓

⇒※こちらに別に書きました


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ドレスデン② アルテマイスター絵画館と周辺

2018-01-20 17:46:14 | ドイツ

絵画館はアウグスト一世(ポーランド王としてはアウグスト二世)が建設したツヴィンがー宮殿の一角にある。「ツヴィンガー」とは「空堀」を意味するのだそうだ。かつてこの場所は空堀だった。ちょうど四角になっているのはそれで、か↓ゼンパーオペラハウス(焼失前の先代)を設計したゴットフリート・ゼンパー(つまりお父さんの方です)による↓

この四角い宮殿の一番目立つ位置に王冠の形が見える↓

ポーランド王となったことを見せつけるための装飾なのだそうだ、なるほど。

どんな強気な王様だったのだろう?
歴代ザクセン候が描かれた、「君主たちの行列」と呼ばれる長さ百メートルのマイセンタイル壁↓ここに描かれている↓




馬を後ろ足で立たせていちばん威勢がよいのが彼↓

馬の足元を見ると、プロテスタントのシンボルである白いバラを踏みつけているのだそうだ
どれどれ↓

ルターを庇護したプロテスタント諸侯のリーダーだったはずのザクセン候がなぜ?
彼は伝統的にカトリックでなければならないとされるポーランド王に立候補するために、カトリックに改宗してしまったのだった。
当時のザクセンは公爵の国で、王国よりは下。なのでここに記された名前はポーランド王としてのアウグスト二世なのであります。

今よりもずっと宗教と政治が密接だった時代に、おもいきったことをします。

**アルテマイスター絵画館には数多の名品があるけれど、有名作品をちょこっと紹介。
いちばん有名なのは
●ラファエロの「システィーナの聖母」だろうか↓

一見よくある聖母子像に見えますが・・・一番下のところに描かれた二人の天使だけが、いろんなモチーフに使われて大人気になってしまった↓

実際に目にしておもったのは、後ろの聖母がふわふわした雲の上に乗っている表現があるからこそ、前景の二人の天使が際立っているということ。
人気が出たの、分かりますね(^.^)
●ジョルジョーネとティチアーノの共作したヴィーナス↓

ジョルジョーネは後に巨匠と呼ばれることになるティチアーノと同じ時期にヴェネチアで画家になった。十歳ほど年長でベッリーニ工房での兄弟子との説もある。長生きして巨匠となるティチアーノと比肩される名手だったが三十代前半で没した。このヴィーナスは1510年頃、ジョルジョーネが未完で遺したものをティチアーノが完成させたとされているのだ。
秀でた兄弟子からの影響は大きかったのだろうなぁ、後にティチアーノが描く「ウルビーノのヴィーナス(フィレンツェのウフィッツィ美術館所蔵)1538年」の原型のようではないかしらん。

☆余談☆
ジョルジョーネの数少ない作品からは、ティチアーノにはないメランコリックと表現したい憂鬱さが感じられる。それが彼の個性であり魅力になっている。
個人的に、ジョルジョーネ作品にうたれたのは「カステルフランコの聖母」に出会った日。ヴェネチアから日帰りでカステルフランコまで行ったのにそこにはコピーが飾られていた(それでも行っただけの価値はあったのだが)。
ちょっとがっかりしてヴェネチアへもどってアカデミア美術館に入ったら、最後の暗い部屋にびっくりするほど鮮やかな「カステルフランコの聖母」のホンモノが待っていたのだった。わざわざ行かなくても滞在していたヴェネチアにあったのか。どこの案内にもちっともそんなことは載せられていなかったのに?
※理由はあるのです。この日の日記ももう見られなくなっているようなので、復刻させたいと思っております

●フェルメール二点のうち、今日は一点だけが展示してあった。フェルメールらしい構図とはちがう、若い頃のもののようだ↓


●カナレット1720-1780の筆になるドレスデンの風景↓
※ヴェネチアの有名なカナレットの甥(母が有名なカナレットの妹だった)で、27歳でアウグスト強王に招かれた

今回の旅で訪れた三つの都市(ヴィーン、ドレスデン、ベルリン)の美術館すべてで、カナレットの作品を見た。
写真の無かった時代、風景を描く絵はどうしても誇張した美しさで描かれがちである。
カナレットは「嘘」にはならない程度に美しくその町を描いて、その町を知らない人にも・よく知った人にも、好評を博していた。
数百年後の我々にもそれは伝わってくる。

ザクセン候のコレクションのうち彫刻は別の美術館に所蔵されているのだそうな、いつか見てみたい(いつ?)。
***
美術館を出ると夕景↓




バスで走り出してすぐに巨大なモスクがそびえていた↓

※訂正!2020年再訪時、これは旧たばこ工場の建物でモスクに似せて建築された1908年の建築と判明

**二時間半ほど走ってベルリンのホテルに到着↓「ベルリン」とは「小さな熊」という意味です↓
ロビーにこんな装飾が↓




夕食はホテルのダイニング「マレーネ」にて↓

マレーネ・デートリヒはベルリン生まれ。第二次大戦前にアメリカへ渡りハリウッドで活躍していた。ヒトラーはマレーネにドイツにもどってくれるように要請したが、ナチスを嫌った彼女はアメリカ市民権をとり、アメリカ軍兵士を慰問して「リリー・マルレーン」を歌った。
戦後、ナチスから解放されたが分断されてしまったベルリンにはもどらず、パリに住み、1992年にパリで没した。墓はベルリンにあるのだそうだ。
長く長く分断されていたベルリンが1989年に一つになるのを見られて、ほんとうに喜んでいたという。





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ドレスデン~[エルベ川の真珠]

2018-01-20 13:18:02 | ドイツ

ドレスデンはそのキャッチフレーズ通り、とても美しい街だ↓



***


※世界遺産を取り消されたドレスデンについてちょっと書きました

プラハの朝、昨夜の雨はきれいにあがっていた。ヒルトンの窓から川向うに、朝陽に赤く染まる旧市街広場ティーン教会の塔↓

プラハから北西へ、ドイツの国境を目指す↓

標高が少し上がり、ハイウェイの下の谷に雲がたまっている↓

トイレ休憩をとった直後、車の流れがとつぜん止まった。あきらかに前方でなにかあった模様。やきもきしてもしかたない。
が、だんだん待たされていると、周囲の車から降りて様子を見に行く人も出てくる↓

結局、ちょうど二時間その場で停車。つい二百メートル程先での事故だった↓「あと一分早ければぬけられていたのにねぇ」と言ってみてもしかたありませんよね(^.^)

ドレスデンの町がみえてきた↓

昼食はアルテマイスター美術館付属のカフェにて。お腹へっておいしく食べられます↓

・チーズがたっぷりはいったクリームスープ

・ほどよく焼けたぱさぱさでないチキン↓

・クレメブリュレ↓

ドレスデンに数少ない日本人のライセンスガイドさん、お待たせいたしました。
短い時間ですが、楽しみに見学させていただきます↓
レストランを出たところに立っている銅像は音楽家ウェーバーだった↓

ナポレオン戦争後の1817年、ザクセン国の首都ドレスデンの宮廷音楽長となり、ドイツ語でのオペラをイタリア語とならぶものにしていった功労者。あのワーグナーは二十七歳年下でやはりドレスデンの宮廷音楽長となった経歴を持つ。ウェーバーをとても尊敬していて、ロンドンで亡くなった時に遺骨をウェーバー栄光の地ドレスデンまで戻す労をとった。

さっきバスを降りた広場⇒冒頭の写真の場所

ゼンパーオペラハウスの前にあたる↓

1841年ゴッドフリート・ゼンパーによって完成した最初のものは1869年に焼けてしまい、現在見られるのは息子のマンフレッド・ゼンパーがデザインしなおしたもの。火事以前のものがこれ↓

息子がデザインしたものの方がちょっとゴージャス(^.^)
☆再建されたものも、第二次大戦ではもちろん爆撃された。
内部に爆弾が落ち完全に壊れてしまったが、外側の壁はオリジナルで残ったのそうだ。

冒頭の写真で右側に写っている教会は、なんと王様とその家族が礼拝するためだけに建設されたのだという↓逆側からみたところ↓

北ドイツのザクセンはルター以降プロテスタント勢力の中心国だった。なのにアウグスト二世王はポーランドの王冠を手に入れるためにカトリックに改宗してしまっていた。だから、自分用のカトリック教会が必要になった、というわけ。
カトリックに改宗した王様が王宮から直接教会へ行くことのできる渡り廊下がある↓

きっとおもしろくないプロテスタントの民衆も多かったにちがいない。
権力欲というのは宗教をも超えるのか。

☆余談☆
かつてフランス王アンリ四世もフランス王位を手に入れるためにユグノーを捨ててカトリックに改宗した話を思い出した。
フランス王代々の戴冠が行われていたランスはこの「にわかカトリック」の王様を認めず、
アンリ四世は例外的にシャルトル大聖堂での戴冠をすることになった

エルベ川沿いの散歩道はかつての城壁の上である↓

16世紀はじめに王宮がマイセンからドレスデンに移動。それで高さ六メートルの壁をめぐらしたのであった。
エルベ川が見渡せる↓




旧市街の道をあるいて、フラウエン教会へ向かう↓


威容を誇るこれらの建物も、第二次大戦末期に大被害を受けたあとに修復されたものである。
だが、真っ黒になっているのは、材料のエルベ砂岩が年月を経ると自然にそのようになっていくとのこと。

この教会、小松がはじめて東ドイツ側を旅した1990年には、まったくの瓦礫の山であったのを覚えている↓

上の写真で真っ黒な門の部分だけがあって、あとは本当の瓦礫の山だった。
第二次大戦が終わって四十年以上が経っているのにこんな姿を街のど真ん中に曝しているのにおどろいた。
東ベルリンにある「夏目漱石の家」にも弾丸のあとがたくさん残っていた。
社会主義の約半世紀がどういう時代だったのか、これらを見るだけでよく伝わってきた。

フラウエン教会の再建プロジェクトは1994年にはじまった。ドイツ領だった時代の現ポーランドに生まれて戦後アメリカへ渡ったギュンター・フローベルという人物が財団を設立したのだった。彼は1999年にノーベル生理学・医学賞を受けると、賞金のほとんどをこの教会の再建に寄付したそうである。
彼だけではない、多くの一般の人々の「一灯」があつまって、2009年に爆撃前の姿をとりもどした。
かつてのドームの一部がこんな風に展示してある↓

↑これは、ドームの上部部分である。
これだけの厚みがある石だったのか。
1945年の終戦間近。爆撃に遭っても石自体は焼けなかったが、内部が猛火に包まれた。
猛火がおさまった翌日、殻だけとなっていた大聖堂は崩れ落ちたそうである。

再建は、できるだけ元の石材を再利用した↓


教会内部↓

↓一角に、その時の熱でぐにゃぐにゃに曲がってしまった十字架が展示してある↓


マルティン・ルターの立像↓

ザクセン選帝侯フリードリヒ三世(通称フリードリヒ賢候)は、宗教裁判で有罪となったルターを匿って、その身の安全を保障した。
ルターが「畳の上で死ねた」のはザクセン国のバックアップがあったからである。
そうでなければ、ボヘミアのヤン・フスの様に殺されていたのではないだろうか。
今年はルターの宗教改革のスタートから五百年の年とされている。
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ベルリン「戦勝記念塔」

2018-01-20 07:23:15 | ドイツ
ベルリンを占領したフランス軍はこの塔を倒すことを求めたが、他の連合国によって認められず、幸い今日でもこうしてみることができる↓

高さ47メートル。頂上には8.3メートルのヴィクトリア(勝利の女神)が、栄光の冠を差し出している↓

1873年9月2日に落成式が行われた。ドイツという統一国家がはじめて建設したモニュメントになる。
それまで二十以上の小国が分立していたドイツ民族をまとめるために(ベルリンを首都としていた)プロイセンは、干渉する三国に戦争で打ち勝たなければならなかった。すなわち、1864年対デンマーク、1866年対オーストリア、1870-71年対フランス。

この塔の基部にはそれぞれの戦勝を記念するパネルがはめ込まれている↓材料は敵の大砲を溶かしたブロンズ。
特に隣の大国・フランスに対する戦勝の意味は大きかった↓
パリを占領し凱旋門を更新するプロイセン軍と、ベルリンに凱旋した様子が描かれている↓

なんだかローマにトラヤヌス帝が建てたダキア戦勝記念塔を思い出させる。

敗れたフランスはナポレオン三世が捕虜になり退位。パリは一時「世界最初の社会主義政権」が占拠し、大混乱におちいった。
ドイツ(プロイセン)にとっては戦勝記念でも、フランスにとってこの塔は憎悪の対象だった筈。

第二次大戦末期、陥落寸前のベルリンではこのモニュメントも攻防の場所となった。
ブロンズにはその時の傷跡もたくさん残されている。
注意したいのは、最初このモニュメントはドイツ議会の前にあったということ↓下は1900年ごろの写真↓あ、たしかに↓

現在の位置に移動させたのはヒトラーである。

第二次大戦でベルリンを占領したフランス軍は、にっくき「戦勝記念塔」の上にフランス国旗をひるがえらせた↓


ブロンズレリーフははぎとられ、パリに持ち去られた↓ここに戻されたのは1984年以降、ミッテラン政権の時代。つい最近のことだ↓
下の写真で首がなくなったりしているのは、フランス軍がどのような扱いをしたかのあらわれ↓


***
塔は螺旋階段で登れるそうだが、今日は足元までにしておこう。
地下道を通って・・・

急な幟階段を見上げると、ベルリンの天使が見下ろしていた↓


この記念碑の周囲には、プロイセンからドイツ帝国にかけての軍人・政治家たちの巨像がならぶ↓

↑ビスマルク

↓モルトケ


このあたりをまわるには100番と200番のバスが便利↓

















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