旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

秋田・角館でおいしく食べる

2011-11-18 15:47:29 | 国内
朝8時半、澄み渡った秋田の空。「きのうまで寒くて寒くて『しっかり着込んできてください』と電話しようかとおもっていたんですよ」ということはを聞いても、全く実感がわかない。

昼前には角館へと着いた。城下町としてきれいに区画整理され、幅の広い整った道の両側に樹齢やいかにと思わせる木々が高々と枝ぶりを競っている。
葉は落ちて明るく光が差し込む。紅葉の葉が光りを透かせて紅さをましている。

さっそく昼食。武家屋敷の途切れたところにある旧家を料理屋にしてある「じんべい」という店へ。
やはりここは「きりたんぽ」をいただきたい。比内地鶏、ごぼう、まいたけを先に入れてしばらく出汁の味に生かされるのを待つ。「きりたんぽ」は最後に入れて、けっしてぐだぐだに煮込んでしまわないように。
そうすれば、「きりたんぽ」のおいしさは、おいしい米の味だと気付くに違いない。いぶりがっこもかりっとおいしい。さいごに右上に見える薄緑色の緑豆稲庭うどんを入れて〆。

「さくら」地ビールはエールに近い味わい

秋田の漬物はしっかり漬かっていて比較的濃いめの味わい。そのなかでひかくてきさらっと食べられると感じたのが、この「なた漬け」

http://www.akitafan.com/cooking/58.html

秋田と角館のあいだにある物産館では「しょうゆソフトクリーム」もおいしかった



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北条早雲の墓、幻の六代目

2011-11-18 05:05:02 | 国内
箱根湯本の早雲寺へ。

戦国時代の嚆矢となった北条早雲(彼自身は一度も「北条」と名乗りはしなかったが)をはじめ、五代の墓所がここにある。

冬の始まりが感じられる空気だけれど、木漏れ日がきもちよい。禅宗らしく簡素で清潔な境内へ入る。と、ぱらぱらと木立を打つ音がまわりで聞こえる。それがどんぐりが落ちる音だとやがて分った。

それほど大きくない敷地、看板を追って墓地横の短い階段をあがっていくと、北条五代の墓碑が並んだ場所に出る。
このうち、どれが初代早雲のものか。近づいて刻まれた文字を読んでいくと、右端に下のように刻まれていた。「伊勢新九郎」が彼の俗名である。

はじめはやってきた感慨だけを感じていたのだが、しばらくするとこの場所にどうも納まりの悪さを感じるようになってきた。この墓碑の置き方は五基の墓が置かれることしか想定していない。

これは北条氏は五代で終わったことが分かってから設計された墓陵なのだ。
六代目七代目の墓がここに置かれることは考えられていない。
それはなぜか?説明書きをゆっくり読んでだんだんと分ってきた。

早雲寺は豊臣秀吉が北条攻めをする際に陣を置いた場所。陣を小田原城へより近い場所へ移動する際に、北条五代が守ってきた伽藍をことごとく焼き払ったと伝えられている(寺の説明書きより)。当然、その時にオリジナルの北条氏の墓も破壊されたことは間違いない。

では、今、目の前にある墓碑はいつ、誰が建立したものなのか?
小田原城落城の際、五代目氏直は徳川家康の娘と結婚していた事もあり助命され高野山へ蟄居、翌年には赦されて河内へ所領を与えられている。敗軍の一族であったにもかかわらず、才に恵まれ秀吉の覚えも良かったのだが、三十歳の若さで病没。叔父の氏規が後を継ぎ、これが狭山北条氏として幕末まで続く藩の祖となった。

この墓碑はその狭山北条氏第五代氏盛が寛文十二年(1672年)8月15日、初代早雲の命日に建立。小田原城落城から八十二年後の事になる(墓碑の説明版より)。なるほど、すでに無くなってしまった宗家五代を弔うための墓碑だったのである。

ふと、すぐ左に形の違う墓碑があることに気付いた。
はて、これは誰のものなのか?こちらには全く説明版などが付けられていない。

薄れている文字をじっくり読み取っていく。
本人の名前は戒名が大きく刻まれているだけで、俗名はない。しかし、左の二行に父母の名前があった。左行上のほうに「徳川家康女(とくがわいえやすのむすめ)」、その右の行一番下に北条氏直と読める。
そして、戒名の右の行には没年とその年齢として「寛文十二年六月四日八十八歳卒」と書かれていた。

五代目氏直(三十歳で病没した前出の人物)の息子、そして徳川家康の孫にあたる人物のようだ。
…その場で名前はわからなかったが、その後調べてみると、北条氏次という名前にいきあたった。氏直の遺児で小田原城落城の際にかつての家臣に託され、匿われて仙台に暮らしたとされる。

その存在を疑問視する記載もあったが、次のような経緯を書いた資料もあった。
小田原落城の際六歳であった氏次は、桑島万機斎という者に匿われた。 桑島は、北条氏照(氏直の叔父の一人、氏次にとっては大叔父、落城時に切腹)に仕えた馬医である。小田原落城の際には仙台の伊達正宗に仕えていたので氏次もそこで育てられ、匿われた「氏次」も桑島孫六と名乗った。 北条の直系として最後の最後の名前「氏次」はやがて幻となり、次の代からは桑島姓だけを名乗るようになっていったというのである。

奇しくも北条五代の墓碑が狭山北条氏によって建立されたと同じ年に、その「北条氏次」は没していた。しかし、同年にこの碑が建てられたと考えるのは無理がある。では、いつ?誰が?これを建てたのか。裏面の文字からその経緯が多少よみとれてく。

写真左に「明治二十三年」の文字が読める。
ふうむ、そんなに新しいものだったのだ。では、誰がこれを?
「桑島孟謹建」という文字が読める
この桑島という人物は幕末期の志士の一人だそうで、岡山大学付属図書館池田文庫には彼が編纂した「尊王事績」という一書が所蔵されているようだ。http://www.lib.okayama-u.ac.jp/ikeda/mdetail.php?nm=28709&title=&cat=&author=桑島&grp=&bunrui=&reel=&koma=&page_num=

どのような経緯になるかは不明だが、長い徳川の世を経ても、桑島家は北条宗家の血筋であるという意識を持ち続けていたのだろう。その祖であり、幻の北条六代目であった「北条氏次」の墓碑をここに建てたのは、まぎれもないその表れである。

余談ながら墓碑裏面には、この文字を刻んだ石工・菊川某の名前も刻まれている。「箱根湯本石工 菊川…」
この墓の近くにはいくつかの菊川姓の墓標があった。
コメント (2)
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