スイスを構成する州(カントン)の州都でありながら、とても田舎な雰囲気を留めている街、アッペンツェル。アッペンツェル市がつくった説明によると、こういう田舎でも都市でもない街をFLECKENと呼ぶのだそうだ。駅舎もこんなに小さくて静か。
我々が泊まったロマンティックホテル・センティスは、ランツゲマインデ開催される広場に面しているのだが、これがまたこぢんまりした佇まい
目抜き通りの市長舎がこの赤い建物。白地に黒い雄熊のランパント姿勢がアッペンツェルのシンボル。
その熊ちゃん自身がアッペンツェルの紋章を掲げている像。
市長舎の壁にはめこまれた1405年の戦いを記念したプレート
この戦いが実質的にアッペンツェルの独立を可能にした。刻まれたウーリー・ロータッハという人物は、この戦いで12人の敵を倒したが、「最早武器では倒せない」と思った敵が家に火を放ち殺されたとされる。※WEB辞書Wikiの記述を訳していただきました~1405年6月19日のザンクト・ガレンの記録、1470年のザルネン白書に記載あり。1530年のヴィンタートゥーア年代記にはウエリー・ロータッハの記録はない。
アッペンツェルはもともと近くのザンクト・ガレン修道院の所領であり、その名前の由来もラテン語のabbatis cella=修道院の小部屋または修道院長の部屋、からきている。
★ちょっと歴史の話★
アッペンツェルの農民たちは修道院の支配を嫌い、1377年には南ドイツの反皇帝勢力であるシュワーベン同盟に参加。コンスタンツ市(現ドイツ)や南ドイツの有力な市のバックアップを得て、修道院の要求の多くを拒否するようになっていった。
修道院の派遣した司教が埋葬した遺体の服を剥ぎ取るために墓をあばく行為を強要した事をきっかけに(WEB辞書の記述より)、アッペンツェルはいよいよザンクト・ガレンの司教を追い出しにかかる。
修道院側は対抗してハプスブルグの皇帝に支援を求め、1402年シュワーベン同盟(南ドイツの都市同盟)は皇帝の機嫌を損ねるのを怖れアッペンツェルを同盟から追放、逆に敵対勢力となった。いよいよ戦う他に道がなくなったアッペンツェルははじめてシュヴィーツ(スイス三原州のひとつ)に救援を求め同盟。スイス盟約同盟軍はその時までにハプスブルグの軍隊を打ち破った経験(ゼンパッハの戦い)を持っていた。隣接するグラールス(現スイス)もまた義勇兵を送ってくる。
1403年5月15日トローゲン(現スイスのアッペンツェル・アウサーローテン)を目指して進軍してきた司教とシュヴァーベン同盟の軍隊は、シュパイヒャー(現スイス領)への峠でアッペンツェル軍と遭遇。丘のうえから攻撃してくる百名足らずの少数のアッペンツェル勢を甘く見た彼ら騎兵は丘を登ったところで待ち構えた二千のアッペンツェル軍に遭って驚き退却をはじめた。包囲する三百のシュヴィーツ軍と二百のグラールスからの援軍。司教と同盟軍は六百の騎兵と五千の歩兵を失って大敗を喫したとされる。
1405年再び皇帝軍がアッペンツェルへ侵攻。6月17日には首都アッペンツェルへの入口となるシュトス峠にて激戦となる。アッペンツェルの援軍が現れた事をきっかけに皇帝軍は敗走をはじめたが、この援軍は実はアッペンツェルの女性たちが偽装した集団だったのだそうだ。
二度の勝利の後、アッペンツェルはザンクト・ガレンの市と同盟し(※修道院とではない)、現南ドイツ領にまでいたる六十の城を支配した。これが、歴史上もっともアッペンツェルの支配地域が拡大した時期であった。
**
センティスホテルから十分も歩いたところを流れている川に、屋根付きの古い橋がかかっているのを見つけてきた方があって、みんなで見に行った。
説明版によると、1401に最初の橋がかけられたがそれ以降なんども流されてはかけ直されてきた。最終的に1750年にハンス・ウルリッヒ・グルーベンマンというマイスターによってこの橋が建造されたとあった。
***アッペンツェルで一番有名なもの★ランツゲマインデ★
これは有権者全員が広場に集まり様々な議題に挙手で賛否を表し議決する昔ながらの直接民主主義政治である。実際の様子が市立博物館のフィルムで見られる。
スイスでは19世紀半ばまで多くのカントン(州)がこのスタイルをとっていたが、現在ではこのアッペンツェルと・インナーローテンとグラールスだけになってしまった。
広場に手を上げる人物の像
張られたロープの中に、有権者の男子は伝来の刀を下げて、1991年以来やっと参政権を得た女性はその証明証を手に、登場する。民族衣装を着てそれは実際には儀礼的な祭りにすぎない…今日市の公認ガイドコルネリアさんの話を聞くまではそう思っていた。
四月の最終日曜日に行われるランツゲマインではたった半日で終わる。そんな時間で有効な議決などできるはずもないではないか。しかし、実際はその場へ至るまえにこの分厚い議案書を読んでくることになっていて、挙手はその最後の意志表明ということになっている。「この本がそれ」と、ガイドのコルネリアさんが見せてくれた。
提案者の思うように結果が行くとは限らない。挙手してみて賛否どちらが多いか判別がつかない時には全員を一度広場の外に出し、YES門とNO門それぞれから入場する数を数えて賛否を決するという方法をとる。
少数による寡占政治を許さないためのこの直接民主主義だが、円滑に行われるには人々がかなりの程度成熟した「大人」であることが必要。匿名投票ができないのだから、毅然と自分の意志を貫く態度。そして、自分と反対の意見を持った人への寛容。さらに衆愚政治に陥らないために、(たとえば増税や福祉カットといった)苦い法案へも賛成出来る公共感覚、これらが必要なのである。
****
ガイドのコルネリアさんのバッチはアッペンツェルらしいデザイン。
「私はこの街の出身だけれど、夫はアウサーローテンの出身でプロテスタント。名前を見ればこの街のひとは外から来た人なのだとすぐにわかるわ」
へぇ、今でも名前だけでそんな区別が可能な状況があるのだろうか。それにしても、カソリックとプロテスタントの入り組んで共存している様は、現代でもちょっと想像しにくい。博物館にあった18世紀頃とおぼしきアッペンツェルの地図をみるとそれがわかる。赤がカソリックノインナーローテン、緑がプロテスタントのアウサーローテンである。
「牛追い」はアッペンツェルのひとつの名物。
きれいに飾られた家々の装飾。これは薬局なので薬草がたくさん描かれている。掲げられた言葉はこうだ「病に効く薬はたくさんあるが、死に効く薬はひとつもない」こんな言葉を掲げた薬局なら信じたくなるかもしれない(笑)
女性の民族衣装は、この地方の有名なレース刺繍をうつくしくあしらったもの。
ホテルで置いてあったお菓子はまるで「アッペンツェル饅頭」。食べてみるとあんこではなく(あたりまえか)、ジンジャークッキーのような味だった。
博物館で目にとまったコイン。18世紀半ばに発行されたアッペンツェル独自のドュカート金貨である
独自の硬貨を発行できるというのはそれだけ経済的な基盤がしっかりしていたという証である。スイス全体で共通のスイスフランを使い始めたのは19世紀になってからのこと。それまでは各カントン(州)でこのような通貨を発行していたのであります。
我々が泊まったロマンティックホテル・センティスは、ランツゲマインデ開催される広場に面しているのだが、これがまたこぢんまりした佇まい
目抜き通りの市長舎がこの赤い建物。白地に黒い雄熊のランパント姿勢がアッペンツェルのシンボル。
その熊ちゃん自身がアッペンツェルの紋章を掲げている像。
市長舎の壁にはめこまれた1405年の戦いを記念したプレート
この戦いが実質的にアッペンツェルの独立を可能にした。刻まれたウーリー・ロータッハという人物は、この戦いで12人の敵を倒したが、「最早武器では倒せない」と思った敵が家に火を放ち殺されたとされる。※WEB辞書Wikiの記述を訳していただきました~1405年6月19日のザンクト・ガレンの記録、1470年のザルネン白書に記載あり。1530年のヴィンタートゥーア年代記にはウエリー・ロータッハの記録はない。
アッペンツェルはもともと近くのザンクト・ガレン修道院の所領であり、その名前の由来もラテン語のabbatis cella=修道院の小部屋または修道院長の部屋、からきている。
★ちょっと歴史の話★
アッペンツェルの農民たちは修道院の支配を嫌い、1377年には南ドイツの反皇帝勢力であるシュワーベン同盟に参加。コンスタンツ市(現ドイツ)や南ドイツの有力な市のバックアップを得て、修道院の要求の多くを拒否するようになっていった。
修道院の派遣した司教が埋葬した遺体の服を剥ぎ取るために墓をあばく行為を強要した事をきっかけに(WEB辞書の記述より)、アッペンツェルはいよいよザンクト・ガレンの司教を追い出しにかかる。
修道院側は対抗してハプスブルグの皇帝に支援を求め、1402年シュワーベン同盟(南ドイツの都市同盟)は皇帝の機嫌を損ねるのを怖れアッペンツェルを同盟から追放、逆に敵対勢力となった。いよいよ戦う他に道がなくなったアッペンツェルははじめてシュヴィーツ(スイス三原州のひとつ)に救援を求め同盟。スイス盟約同盟軍はその時までにハプスブルグの軍隊を打ち破った経験(ゼンパッハの戦い)を持っていた。隣接するグラールス(現スイス)もまた義勇兵を送ってくる。
1403年5月15日トローゲン(現スイスのアッペンツェル・アウサーローテン)を目指して進軍してきた司教とシュヴァーベン同盟の軍隊は、シュパイヒャー(現スイス領)への峠でアッペンツェル軍と遭遇。丘のうえから攻撃してくる百名足らずの少数のアッペンツェル勢を甘く見た彼ら騎兵は丘を登ったところで待ち構えた二千のアッペンツェル軍に遭って驚き退却をはじめた。包囲する三百のシュヴィーツ軍と二百のグラールスからの援軍。司教と同盟軍は六百の騎兵と五千の歩兵を失って大敗を喫したとされる。
1405年再び皇帝軍がアッペンツェルへ侵攻。6月17日には首都アッペンツェルへの入口となるシュトス峠にて激戦となる。アッペンツェルの援軍が現れた事をきっかけに皇帝軍は敗走をはじめたが、この援軍は実はアッペンツェルの女性たちが偽装した集団だったのだそうだ。
二度の勝利の後、アッペンツェルはザンクト・ガレンの市と同盟し(※修道院とではない)、現南ドイツ領にまでいたる六十の城を支配した。これが、歴史上もっともアッペンツェルの支配地域が拡大した時期であった。
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センティスホテルから十分も歩いたところを流れている川に、屋根付きの古い橋がかかっているのを見つけてきた方があって、みんなで見に行った。
説明版によると、1401に最初の橋がかけられたがそれ以降なんども流されてはかけ直されてきた。最終的に1750年にハンス・ウルリッヒ・グルーベンマンというマイスターによってこの橋が建造されたとあった。
***アッペンツェルで一番有名なもの★ランツゲマインデ★
これは有権者全員が広場に集まり様々な議題に挙手で賛否を表し議決する昔ながらの直接民主主義政治である。実際の様子が市立博物館のフィルムで見られる。
スイスでは19世紀半ばまで多くのカントン(州)がこのスタイルをとっていたが、現在ではこのアッペンツェルと・インナーローテンとグラールスだけになってしまった。
広場に手を上げる人物の像
張られたロープの中に、有権者の男子は伝来の刀を下げて、1991年以来やっと参政権を得た女性はその証明証を手に、登場する。民族衣装を着てそれは実際には儀礼的な祭りにすぎない…今日市の公認ガイドコルネリアさんの話を聞くまではそう思っていた。
四月の最終日曜日に行われるランツゲマインではたった半日で終わる。そんな時間で有効な議決などできるはずもないではないか。しかし、実際はその場へ至るまえにこの分厚い議案書を読んでくることになっていて、挙手はその最後の意志表明ということになっている。「この本がそれ」と、ガイドのコルネリアさんが見せてくれた。
提案者の思うように結果が行くとは限らない。挙手してみて賛否どちらが多いか判別がつかない時には全員を一度広場の外に出し、YES門とNO門それぞれから入場する数を数えて賛否を決するという方法をとる。
少数による寡占政治を許さないためのこの直接民主主義だが、円滑に行われるには人々がかなりの程度成熟した「大人」であることが必要。匿名投票ができないのだから、毅然と自分の意志を貫く態度。そして、自分と反対の意見を持った人への寛容。さらに衆愚政治に陥らないために、(たとえば増税や福祉カットといった)苦い法案へも賛成出来る公共感覚、これらが必要なのである。
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ガイドのコルネリアさんのバッチはアッペンツェルらしいデザイン。
「私はこの街の出身だけれど、夫はアウサーローテンの出身でプロテスタント。名前を見ればこの街のひとは外から来た人なのだとすぐにわかるわ」
へぇ、今でも名前だけでそんな区別が可能な状況があるのだろうか。それにしても、カソリックとプロテスタントの入り組んで共存している様は、現代でもちょっと想像しにくい。博物館にあった18世紀頃とおぼしきアッペンツェルの地図をみるとそれがわかる。赤がカソリックノインナーローテン、緑がプロテスタントのアウサーローテンである。
「牛追い」はアッペンツェルのひとつの名物。
きれいに飾られた家々の装飾。これは薬局なので薬草がたくさん描かれている。掲げられた言葉はこうだ「病に効く薬はたくさんあるが、死に効く薬はひとつもない」こんな言葉を掲げた薬局なら信じたくなるかもしれない(笑)
女性の民族衣装は、この地方の有名なレース刺繍をうつくしくあしらったもの。
ホテルで置いてあったお菓子はまるで「アッペンツェル饅頭」。食べてみるとあんこではなく(あたりまえか)、ジンジャークッキーのような味だった。
博物館で目にとまったコイン。18世紀半ばに発行されたアッペンツェル独自のドュカート金貨である
独自の硬貨を発行できるというのはそれだけ経済的な基盤がしっかりしていたという証である。スイス全体で共通のスイスフランを使い始めたのは19世紀になってからのこと。それまでは各カントン(州)でこのような通貨を発行していたのであります。