慶応4年(1868)2月15日、旧堺港で土佐藩士がフランス兵十一名を殺傷した事件があった。
↓現地を訪れると、ちいさな運河沿いに記念碑がたっている↓

埋め立てられていった海ははるか遠い。※このエリアを歩いたブログにリンク、元の場所にある最古の木造灯台もありました
★森鴎外が「堺事件」を短編小説にした全文。こちら「青空文庫」で読むことができます
鴎外が書いたすべてを信じることはできないが、堺の治安維持を担っていた土佐藩士が堺港に上陸しようとしたフランス兵士十一人を殺してしまったことは事実。
フランス側は土佐藩に実行者二十人(この数がどうして出てきたのかわからない)の死罪を求めた。土佐藩は申し出た者が二十九人だったので神前籤引きで二十人を選んだ。
事件の一週間後2月23日、堺でいちばん大きな妙國寺にて、フランスから代表立ち合いのもと、切腹がおこなわれることになった。

「土佐十一烈士の墓所」の案内↓

↑となりの「そてつ」の文字は↓信長が無理やり持ち出そうとしたソテツの木のこと↓

※堺市HPの解説にリンクします
寺の資料館には切腹した十一人の遺品が展示されていた。
辞世の句をしたためる姿を画いた掛け軸に目が留まった。
※「堺事件」資料本より
十二人画かれているのはなぜ?
よく見ると左下の一人だけが老齢である。
添えられた字を読んでいくと、この軸を奉納した土居八之助という切腹する筈だった二十名のうちの一人だとわかった。
生き残っていたのである。
十一人目の切腹が終ったあと、フランス側は同席していた五代友厚(外国事務局判事)に中止を申し入れ、あとの九名は死ぬことができなかった。※五代友厚のことを調べておられる方が書いておられました
森鴎外が小説で書いているようにフランス側が切腹の光景に臆したのではなく、フランス側の犠牲者と同じ十一名でよしとした結果だった。
生きのびることになった九名は終生この場所に関わり続けた。
掛け軸を画いた土居は他にも切腹の一人一人の顛末を絵入りで示した文を残している。
※堺市立図書館のデジタルアーカイブで見ることができます
特に、十二番目だった橋詰愛平は自らの墓を隣にしてくれるよう遺言している。

↑6月の雨の土曜日、妙國寺のガイドさんはわざわざ十一烈士の墓に案内してくださった↓

扉を開けてすぐ、墓石とたくさんの碑がひしめいていた。
十二番目だった橋詰の墓は↓

↑左端に一段さげておかれている↑

↑大正6年(1917)に設置されたフランス側の犠牲者を哀悼する「仏蘭西兵士の碑」↑写真右↑
この場所はしかし、実際に十一人を埋葬したにしては手狭に思える。

明治36年癸卯(1903)に谷干城が建立した「嗚呼忠烈」↑
彼がこのタイミングで、荒廃していた寺を近くの金光寺と統合して整備しなおしたようである。
その後も何度か整理されていったにちがいない。
切腹の後、十一人の遺体は予め用意されていた甕の中に入れて埋葬された。
※森鴎外の小説に土居がふざけてその中に入るシーンがでてくる
用意されていたが使われなかった九つの甕はその後長く宝珠院の床下に置かれていた。
日清、日露、から太平洋戦争に至る時代、兵士を送り出した家族が「生運様(いきうんさま)」としてお参りしていたそうである。
今、それらの甕がどこにいってしまたのか、わからない。
↓現地を訪れると、ちいさな運河沿いに記念碑がたっている↓

埋め立てられていった海ははるか遠い。※このエリアを歩いたブログにリンク、元の場所にある最古の木造灯台もありました
★森鴎外が「堺事件」を短編小説にした全文。こちら「青空文庫」で読むことができます
鴎外が書いたすべてを信じることはできないが、堺の治安維持を担っていた土佐藩士が堺港に上陸しようとしたフランス兵士十一人を殺してしまったことは事実。
フランス側は土佐藩に実行者二十人(この数がどうして出てきたのかわからない)の死罪を求めた。土佐藩は申し出た者が二十九人だったので神前籤引きで二十人を選んだ。
事件の一週間後2月23日、堺でいちばん大きな妙國寺にて、フランスから代表立ち合いのもと、切腹がおこなわれることになった。

「土佐十一烈士の墓所」の案内↓

↑となりの「そてつ」の文字は↓信長が無理やり持ち出そうとしたソテツの木のこと↓

※堺市HPの解説にリンクします
寺の資料館には切腹した十一人の遺品が展示されていた。
辞世の句をしたためる姿を画いた掛け軸に目が留まった。

十二人画かれているのはなぜ?
よく見ると左下の一人だけが老齢である。
添えられた字を読んでいくと、この軸を奉納した土居八之助という切腹する筈だった二十名のうちの一人だとわかった。
生き残っていたのである。
十一人目の切腹が終ったあと、フランス側は同席していた五代友厚(外国事務局判事)に中止を申し入れ、あとの九名は死ぬことができなかった。※五代友厚のことを調べておられる方が書いておられました
森鴎外が小説で書いているようにフランス側が切腹の光景に臆したのではなく、フランス側の犠牲者と同じ十一名でよしとした結果だった。
生きのびることになった九名は終生この場所に関わり続けた。
掛け軸を画いた土居は他にも切腹の一人一人の顛末を絵入りで示した文を残している。
※堺市立図書館のデジタルアーカイブで見ることができます
特に、十二番目だった橋詰愛平は自らの墓を隣にしてくれるよう遺言している。

↑6月の雨の土曜日、妙國寺のガイドさんはわざわざ十一烈士の墓に案内してくださった↓

扉を開けてすぐ、墓石とたくさんの碑がひしめいていた。
十二番目だった橋詰の墓は↓

↑左端に一段さげておかれている↑

↑大正6年(1917)に設置されたフランス側の犠牲者を哀悼する「仏蘭西兵士の碑」↑写真右↑
この場所はしかし、実際に十一人を埋葬したにしては手狭に思える。

明治36年癸卯(1903)に谷干城が建立した「嗚呼忠烈」↑
彼がこのタイミングで、荒廃していた寺を近くの金光寺と統合して整備しなおしたようである。
その後も何度か整理されていったにちがいない。
切腹の後、十一人の遺体は予め用意されていた甕の中に入れて埋葬された。
※森鴎外の小説に土居がふざけてその中に入るシーンがでてくる
用意されていたが使われなかった九つの甕はその後長く宝珠院の床下に置かれていた。
日清、日露、から太平洋戦争に至る時代、兵士を送り出した家族が「生運様(いきうんさま)」としてお参りしていたそうである。
今、それらの甕がどこにいってしまたのか、わからない。