
義父が帰ってきたのは,今朝6時過ぎ・・怪我も無くなにより。
本人の記憶の曖昧のまま,一日眠りこけている。

仕事場なり,友人からリタイヤ後の過ごし方など羨まれる事があるが、
まだ俳句というものに少し煙ったさがあるようだ。
「私にはそう言う才能も無いし・・定年したら田舎で野菜作り
でもして・・」そう言う答えが多い、何でもそうだが野菜作りが
それほど甘いものだと思わない。都会の区民農園みたいなものとは
違うはず。
姉に出した絵手紙を店に飾っているらし・・何とも

姉からもっと絵を描いて欲しいと言われた。
そして,絵に文字も書いて欲しいと・・
俳句と書と絵 それが1枚の葉書に揃うことなど100枚描いても1枚
有るか無か、なのに。
いい絵が描けた日に書を乗せないと,なんとも落ち着きの無いものになる
俳句は自然と詠むことが出来るが、絵と書の関係はそうはいかない。
例えば純白の絹地の上に墨で書くような,失敗は許されない緊張がある。
同じ滲み,彩の絵は二度と描けないし、同じ書は二度と書けない。
また、絵も書も揃ったところで今度は真剣に考えると俳句が無い。
絵も書も揃っているから、尚更拙句ばかりで気に掛かる。
まあ、それほど大したことないのだが・・・
小心者がやることだから。とりあえず姉には断ることとなる。

桃井かおりは斜めのをんな烏瓜

俳句も絵も書も一生懸命。そのエネルギーを
仕事に生かせないのが最大の欠点かも・・・
日雇いの列の最後の懐手 なんてことも

往診の大き鞄や夏終わる みつこ