一茶を身近に感じる時

2005-09-26 21:54:41 | Weblog
      秋を感じる朝でした。

   芭蕉になりえなければ、一茶になれるか?
   という書き出しで始まる今日のブログ・・哲学的かも?
   
   金子兜太曰く、求道者であるか存在者であるか?
   求道者には人の生き方,存在者には人の生き様があると・・・
   (ますます難しくなる

   これは例えとしての話、一茶の事を知ったかぶって書いてみたかったのである。
   
   一茶は業俳(専業の誹諧師)であり、それほど大きな範囲ではない
   一定の地域を回っていた巡回誹諧師である。
   もともと北信濃の農家の出で、町にあってもただの庶民でしかない。
  
   旅といえば、芭蕉のような求道のこころざしを含む精神の旅などとは
   程遠く、漂白の心が辛くなり故里への旅となったわけである。

   決して一茶を芭蕉と比べて非難しているわけでもなく,生き様と言う点では
   我々が仕事をリタイヤした時、故郷を含めどこか静かなところで
   小さな畑でも作って老後を過ごそうと言う話に似てくる。

   一茶の生き様,考え方こそ都会の現代人の理想となっているのだろう.
   俳句を除けば大して変わりなく思え、とても身近に感じている。


        ころころの今日の俳句

    
         火の番も霧の中なる登り窯


        ころころの独り言

       
      とは言っても・・老後に理想を遂げる人も少ない。
      お米の国の人間が畑仕事が理想だなんて、おかしなものだ。

   
        ころころのお気に入り


        脱藩の心地で越ゆる春峠   日下縄文


      いい句だなぁ・・・  
   
    
コメント (2)
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