
芭蕉になりえなければ、一茶になれるか?
という書き出しで始まる今日のブログ・・哲学的かも?
金子兜太曰く、求道者であるか存在者であるか?
求道者には人の生き方,存在者には人の生き様があると・・・
(ますます難しくなる


これは例えとしての話、一茶の事を知ったかぶって書いてみたかったのである。
一茶は業俳(専業の誹諧師)であり、それほど大きな範囲ではない
一定の地域を回っていた巡回誹諧師である。
もともと北信濃の農家の出で、町にあってもただの庶民でしかない。
旅といえば、芭蕉のような求道のこころざしを含む精神の旅などとは
程遠く、漂白の心が辛くなり故里への旅となったわけである。
決して一茶を芭蕉と比べて非難しているわけでもなく,生き様と言う点では
我々が仕事をリタイヤした時、故郷を含めどこか静かなところで
小さな畑でも作って老後を過ごそうと言う話に似てくる。
一茶の生き様,考え方こそ都会の現代人の理想となっているのだろう.
俳句を除けば大して変わりなく思え、とても身近に感じている。

火の番も霧の中なる登り窯

とは言っても・・老後に理想を遂げる人も少ない。
お米の国の人間が畑仕事が理想だなんて、おかしなものだ。

脱藩の心地で越ゆる春峠 日下縄文
