本日、5月3日は憲法記念日です。日本国憲法が施行されてから凡そ73年の間、日本国では、一度たりとも憲法を改正することはありませんでした。そして今日、政府が新型コロナウイルス禍への対応に追われる中、憲法改正への機運も萎みがちのように見受けられます。報道によりますと、安倍晋三首相も年内での憲法改正は早々と断念した模様です。その一方で、新型コロナウイルス禍は、憲法改正問題に新たな論点を加えたように思えます。
現行憲法制定以来、改憲と言えば第九条が最大の争点とされてきました。‘九条を護ろう’が左派を中心とした改憲反対勢力のいわば‘合言葉’であり、改憲は第九条の改正と凡そ同義とされてきたのです。日本政治にあって第九条は左右両派が火花を散らす主戦場であり、他の条項については然程には関心を持たれずに今日に至ったと言えましょう。実際に、自民党が作成した憲法改正案は第九に限定されています。
改憲の議論が第九条に集中する一方で、今般、コロナ対策の強化を目的に改正された新型インフルエンザ等対策特別措置法では、感染症の拡大予防に目的を限定して首相に緊急事態宣言を発令する権限を付与することとなりました。同法の施行を受け、安倍首相も法的根拠を以って緊急事態宣言を発しています。同宣言は一か月程の延長が検討されているそうですが、これを機に、首相による緊急事態宣言の発令権限を憲法上の一般的な権限として設けるべきか、否か、という問題が、憲法改正の論点として急浮上してきたのです。
全世界の諸国の憲法を見渡してみますと、緊急事態や非常事態の宣言、あるいは、戒厳令の発令権自体はとりわけ珍しいわけではなく、大統領や首相といった執政機関にあっては一般的な権限の一つとして記されています。何故ならば、如何なる国も、戦争や災害など、自国並びに全国民の命運にかかわる重大な危機に直面するものであり、こうした危機に際しては、国民の基本的な自由や権利を否が応でも制限せざるを得なくなる場合があるからです。この側面は、自由主義国でも全体主義国でも変わりはなく、古典的な権限ともいえましょう(なお、旧憲法となる明治憲法の第一四条には「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」とあり、同権限は、憲法上、天皇の専権として定められていたようです)。
もっとも、有事に際して政府が国民の行動を強制的に律することとなるため、現代の国家では、発令権の行使に際して一定の制限を設ける傾向にあります。安全装置を設けませんと権力の暴走を制御できず、最悪の場合には、有事に限定されていたはずの非常事態が平時にあって常態化し、軍事独裁主義体制へと移行するリスクがあるからです。実際に、非常事態宣言や戒厳令が長期化した事例は枚挙に遑がなく、合法的な権力の独占を目指す政治家、もしくは、勢力の国権掌握手段として利用されてきた忌まわしい歴史もあるのです。因みに、古代ローマでは、戦時・有事に際してのみ特別に設けられる独裁官の任期を、独裁制の成立を防ぐために1年間に限定しておりました(ユリウス・カエサルは、共和制にあって設けられてきたこの任期制限を終身制とし、さらに、自らが王位に就くことで常態化しようとして暗殺された…)。
緊急事態宣言の来し方を振り返りますと、同宣言の権限が‘両刃の剣’であることが分かります。有事に際しては国家と国民を秩序だって護る働きをする一方で、平時に悪用されますと、国家が私物化されると共に、国民は政府の徹底した管理下に置かれかねないからです。今日の先端的なIT技術を用いれば、中国政府が試みているように、『1984年』をも凌ぐ監視社会が出現し、国民は‘目に見えない檻’に閉じ込められてしまうかもしれません。
そして、日本国の現状においていささか気にかかるのは、緊急事態宣言発令の最中にあって、学校の9月はじまりなど、本来、時間をかけた国民的な議論を要する改革が急がれている点です。言い換えますと、緊急事態宣言が、民主的な手続きをスキップする手段として利用される兆候も見受けられるのです。また、人の能力の限界を考えれば、大統領や首相に対して最適の判断を常に期待するにも無理がありましょう。加えて、今般の新型コロナウイルスの感染拡大防止に際しては、中国等への政治的配慮が初動における失敗を招いたのですから、首相の権限が強化されたとしても、有事に際して必ずしも国民の命が最優先にされる保証は何処にもありません。
今後、憲法の改正条項として緊急事態宣言に関する議論が本格化するのでしょうが、その際には、同宣言が両刃の剣である点を深く理解し、まずは、日本国の自由で民主的な体制を損なうことなく同宣言の本来の役割が発揮されるよう、制御面からの制度設計が必要となりましょう。あるいは、同宣言の両面性を考慮し、固定概念を廃して日本発の統治制度上のイノヴェーションを起こすのも一案かもしれないと思うのです。