万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

虫が良すぎるフェイスブックのリブラ構想

2019年07月16日 19時09分33秒 | 国際政治
先日、フェイスブックが2020年に開始を予定しているリブラ構想は、華々しく打ち上げられたものの、アメリカでは早くも厳しい批判に晒されているようです。解決困難な問題が山積しており、政府からの許可が下りず、実現しないのではないかとする声も聞かれます。

 リブラに対する主たる反対理由は、共和党は国家の通貨発行権の侵害、並びに、セキュリティを、民主党はどちらかと言えば競争法上の独占や新興国通貨への影響等を問題としているようです。何れも重大問題であり、今後、G7やG20といった国際会議等において課題となる可能性もあります。かくしてリブラ包囲網が構築されつつあるのですが、どう考えましても、リブラ構想は虫が良すぎるのではないかと思うのです。

報道によりますと、リブラのシステムでは、ユーザーが米ドルやユーロなどの通貨をリブラに替え、交換されたリブラは、デジタルウォレットである「カリブラ」に保管されるそうです。この‘両替’の時点で、リブラの運営主体は、たとえ一切の準備がなくとも、事実上、通貨を発行していることとなります。否、リブラの運営主体は、この時、自らが提供するリブラと云う仮想通貨と引き換えに、労さずして米ドルやユーロ等の通貨を手に入れていることができるのです。この手法、かつてモンゴル帝国が、紙幣の発行と引き換えに住民から金を供出させた事例を思い起こさせるのですが、通貨発行益は、リブラの運営主体の懐に転がり込むのです。リブラの目的は、銀行口座を持たない全世界の17億の人々のために口座、即ち、デジタルウォレットを提供することあると説明されていますが、その真の目的は、莫大なる通貨発行益を得ることにあるのかもしれません。

 このことは、同時に、リブラの通貨発行によって、市中の通貨供給量が影響を受けることを意味します。本来、通貨供給量の調整は、国家の中央銀行のお仕事なのですが、リブラ構想が実現すれば、通貨発行権のみならず、通貨供給量を調整する権限をも手に入れることができるのです。しかも、中央銀行の買いオペでは、期間を定めて金融機関が買い戻す条件が付されていまが、リブラでは、こうした条件はありません。つまり、ユーザーの求めに応じて無制限にリブラを発行することができるのです。その一方で、ユーザーから集めた米ドルやユーロ等は、リブラの運営主体に蓄積されてゆくのです(フェイスブックを含むリブラの運営主体は、この資金を一体、何に使うのでしょうか…)。

ここまで述べてきただけでもリブラ構想は虫が良すぎるのですが、さらに驚くべきことに、ユーザーの口座開設に際しては、政府によるIDの発行が必要とされています。つまり、通貨発行権や通貨供給量の調整に関する権限をも政府から奪っておきながら、当の政府までをも利用しようとしているのです。あまりにも虫が良い故に、アメリカのみならず各国の政府もリブラ構想を易々と許可するとは思えないのです。

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ウィキリークスが公開した天安門事件の証言を読む

2019年07月15日 13時23分11秒 | 国際政治
天安門事件から凡そ一ヶ月が過ぎた1989年7月12日、一通の外電が北京の在中チリ大使館から本国政府にもたらされました。それは、事件発生当時、同大使館に勤務していた二等書記官カルロス・ガロ氏の目撃証言であり、今日なおも同事件の全容が不透明な中、真相を追求上での極めて貴重な資料と言えましょう。

 同文書は機密扱いであったのですが、ウィキリークスが公開することにより多くの人々が知るところとなりました。ウィキリークスの基本的なスタンスから推測しますと、‘天安門事件は西側メディアが報じる程の大虐殺ではない’とする中国擁護論とも推測されるのですが、この文書から天安門事件の真相の一端が垣間見えるように思えます。

 第一に、ガロ氏の証言は、‘天安門事件はなかった’という証拠にはなり得ないことです。ガロ氏は、学生側の負傷者が赤十字病院に運び込まれたのを目撃していますので、犠牲者が‘ゼロ’と云うことはあり得ません。自らの個人的な見聞から、犠牲者の総数は、数百人レベルではなかったかと推定しているに過ぎないのです。因みに、イギリスの外交機密文書では少なくとも1万人の人々が虐殺されたとしておりますので、犠牲者の数は、チリの機密文書とでは桁違いです。仮にイギリスの情報収集能力の高さを信じるならば、1万という数が事実に近いのでしょうが、何れにせよ、犠牲者の推定数に違いこそあれ、当時の中共政府が人民解放軍の投入を以って学生たちの民主化運動を踏み潰してしまった事実そのものを消し去ることはできないはずです。

 なお、ガロ氏の推定した被害者数が少ないのは、6月3日の深夜頃に、当局と学生側との間に合意が成立したため、同合意に従った学生等と共に天安門広場を離れたからなのでしょう(天安門広場には、なおも多数の学生が残っていたと推測される…)。仮に‘人民解放軍よる大規模な発砲や虐殺がなかった’としても、それはこの時までの事であり、現場からの離脱後の推移については同氏はコメントを避けています。つまり、ガロ氏は天安門事件の一部始終をしっかりと自らの目で目撃したわけではなく、6月4日の未明に起きたとされる‘出来事’については何も知らないのです。銃声等は聞こえなかったとしていますが、消音装置を備えた銃器は存在していますし、学生たちを無残に戦車で轢き殺したのであれば、大虐殺であっても発砲音や爆発音を伴うとは限りません。

 第2に、人民解放軍は、ガロ氏が避難していた赤十字病院を包囲し、発砲までには至らぬものの、攻撃を加えていることです。おそらく、学生側の負傷者の治療を妨害しようとしたのでしょうが(治療機会の喪失は死を意味してしまう…)、国際法は赤十字に対する攻撃を禁じていますので、この出来事は、中共政府には全く国際法を順守する意思がなかったことを示しています。中国もジェノサイド条約の締約国ですが、集団殺害が国際法において禁じられていることなど、当時の中国の指導者の念頭には全くなかったのでしょう。

 第3に、事件発生から一夜が明けた4日の朝、天安門広場に戻ったガロ氏は、人民解放軍が天安門広場を手際よく片付けている光景を目にします。多数のプラスチック製のバックがヘリコプターに積み込まれており、これらのバッグの中身が犠牲者の遺体であったかどうかは分からないとしています(プラスチック製のバッグに詰めて現場からヘリコプターで運び去ることが、誰からも気づかれないように遺体を運び出す方法だったのではないでしょうか)。仮に、人目に触れても構わないものであったならば、人民解放軍が敢えて大量のプラスチック製バックを用意するはずもありませんので、その中身が犠牲となった方々の遺体であった可能性はかなり高いのです。

 そして第4点として挙げられるのは、スペインの不審な行動です。同文書には、ガロ氏が天安門広場を後にした後の空白期間に、スペインのTVクリューが人民大会堂?付近で大虐殺現場を撮影したにもかかわらず、本国にあって、オリジナル版が編集者によって切り刻まれ、台無しにされてしまったと記されています。このことは、事件発生当初から、既に何らかの勢力が、同事件のもみ消し、あるいは、情報統制に動いていた可能性を示唆しています。アメリカのブッシュ大統領が中国を秘かにサポートしていた点を考慮すれば、西側諸国による要請である可能性も100%は否定できないものの、自由主義諸国では、天安門事件の惨事を撮影した動画はネット上に公開されていますので、スペインにおける国家レベルでの動画毀損は、あるいは中国側による圧力であったのかもしれません。

 以上にウィキリークスが‘暴露’した天安門事件に関する機密文書について述べてきましたが、仮に中国が、天安門事件を西側諸国による陰謀、あるいは、冤罪であると主張するならば、その存在を隠蔽して‘なかったこと’にするよりも積極的に証拠を提示して自らの‘無実’を主張するはずです。同情報のリークを機に、中国は、国際世論が自らに有利な方向に傾くことを期待したのでしょうが、同文書の行間から、あの日の大虐殺の光景がリアリティを以って迫ってくると同時に、中共政府の残忍性、並びに、国際社会の闇をもが浮かび上がってくるように思えるのです。

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‘再教育’が必要なのは中国では?

2019年07月14日 15時10分50秒 | アジア
‘中国には再教育が必要’とでも言おうものなら、中国人であれば、烈火のごとくに怒り狂うかもしれません。‘中国を侮辱した’、‘お前は生意気だ’、さらには、物騒にも‘殺してやる’といった罵倒の声が返ってきそうです。‘再教育’という言葉には、優れた者が劣った者に、あるいは、正しい者が間違った者に対して教育を施すというニュアンスがあり、再教育の対象と見なされた側に不快感を与えるからです。

 その一方で、中国は、ウイグル人に対して強制収容所を設けて‘再教育’を実施しています。中華人民共和国憲法の第4条にあって全ての民族の平等を謳っているのとは裏腹に、中国は、ウイグル人の固有の文化、伝統、宗教等を消し去り、共産思想、並びに、漢人の風習に強制的に同化させようとしているのです。同化が完了すれば、もはや、ウイグル人と云う政治的独立を主張し得る集団は存在しなくなり、中国は、永遠にこの地を中国領として支配できるからです。内心では代々この地で生活を営んできた全住民を虐殺したいのでしょうが、それが不可能であるならば、漢人の大量入植を伴う強制同化政策が北京の中共政府にとりまして次善の策なのかもしれません。

 秦帝国の誕生以来、中国の歴代王朝には、周辺諸国を征服して支配下に置いてきた歴史があり、帝国こそ中国の統治体制の基本形態です。多民族を併呑する帝国の形態にあっては、住民の虐殺、並びに、強制同化は主たる支配の手段の一つであり、現代の中国もまた、この伝統的な手法を踏襲しているとも言えます。今日の共産党一党独裁体制も、絶対権力・権威者である皇帝を頂点に戴き、官僚制を領域一帯に張り巡らした帝政と然したる違いはありません。そして、帝国ほど、他の諸民族の主体性を一方的に奪い、征服地にあって住民虐殺や強制同化を実行した国家形態もないのです。

 中国やモンゴルをはじめ、帝国の建設者はそれを偉業として誇り、そこには反省や倫理上の後ろめたさなどはありません。情け容赦なく何百何千万の無辜の人々の命を奪ったとしても、帝国の輝きを損なうとは考えていないのです。そして、この無反省で他民族を見下す高慢な姿勢も、今日の中国は受け継いでいると言えましょう。

 しかしながら、民族自決と主権平等を原則とする国民国家体系が成立している今日の国際社会からしますと、帝国には殆ど存在する空間が残されていません。人類のコンセンサスとして、異民族支配を不当とし、住民虐殺や強制同化を人倫に悖る非人道的な行為と見なしているからです。これらの行為が道徳的に許されない時代を迎えた今日、中国のウイグル人に対する過酷な弾圧と同化の強制は、時代錯誤も甚だしいのです。

 以上に中共政府の反倫理・反道徳性について述べてきましたが、それでは、今日、再教育を受けるべきは、一体、誰なのでしょうか。他者の主体性や自立性を尊重すること、自らの利益のために他者の権利や自由を奪ってはならないこと、他者に苦痛を与える残虐な行為をなしてはならないこと等々、これらは人類社会の倫理・道徳の基本でもあります。このように考えますと、道徳、そして、文明の証でもある法の支配の理解という面において再教育を必要としているのは、中国共産党政権自身ではないかと思うのです。

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対韓輸出規制強化から見える国際社会の危機

2019年07月13日 15時21分36秒 | 国際政治
先日、日本国政府は、韓国に対するハイテク素材の輸出の規制を強化する方針を打ち出しました。公表当初、メディア等では所謂‘徴用工訴訟’をめぐる韓国政府の措置に対する制裁との見方が大半を占めていたのですが、日本国政府が報復制裁を否定し、安全保障上の理由を挙げたことから、俄かに韓国の輸出管理体制の脆弱さに関心が集まることとなりました。

 韓国の産業通商資源省の発表によれば、同国の企業は、大量破壊兵器や生物化学兵器の製造に転用可能な日本製の素材、即ち戦略物資を中国、イラン、シリア、パキスタン、アラブ首長国連邦、東南アジア諸国等に不正輸出していたそうです。北朝鮮にも渡っている可能性は高く、同問題は、目下、国際社会の懸案となっている核拡散問題とも直結しているのです。

 韓国政府が関わった証拠は今のところないのですが、文在寅政権の対北融和政策からしますと、疑われて然るべき状況にあります。昨今、日本海において発生した韓国海軍艦艇による自衛隊哨戒機に対するレーダー照射事件も、北朝鮮に対する‘瀬取’幇助の現場を目撃されたためとする有力な説もあるぐらいなのですから。リストアップされた密輸の件数は156件に上るそうですが、もしかしますと、当局による摘発を逃れたケースもあったかもしれません。

 ところで、このリストで注目されるのは、密輸先としてイランを含む中東各国の国名が記されていることです。イラン向けに不正輸出されたのは化学兵器であるサリンの原料となる「フッ化ナトリウム」であり、迂回ルートの拠点と目されるアラブ首長国連邦に対しては、核兵器(ウラン濃縮)製造や化学兵器(サリン)の原料となる「フッ化水素酸」が不正輸出されています。マスメディアの関心は、同地域からの北朝鮮への迂回輸出に集中していますが、同国一国のために156件もの不正輸出が行われたとは考え難く、むしろ、これらの戦略物資の多くは、輸入国の求めに応じた可能性も否定できません。つまり、イランを含む輸出先となる中東諸国では、水面下において急速に核拡散、並びに、生物化学兵器の開発・保有が秘かに進行しているかもしれないのです。

 そして、大量破壊兵器、並びに、生物化学兵器を手に入れたい中東諸国が、原材料の入手先として目を付けたのが韓国であったのかもしれません(もちろん、顧客は中東諸国のみとは限らない…)。何故ならば、同国は、アメリカの同盟国であり、かつ、自由主義国でありながら、文大統領のみならず国内に親北勢力を抱えており、日本国から直接輸入することは難しくとも、中東諸国は韓国国内の親北ルートを活用すれば韓国から戦略物資を入手できるからです。北朝鮮が中東諸国に依存しているのではなく、逆に、これらの諸国に対して北朝鮮が韓国からの不正輸出の仲介役を務めており、韓国側はこれを黙認している可能性も否定はできません。

 果たして、この憶測は当たっているのでしょうか。もしかしますと、かつてのバルカン半島とは違った意味で、朝鮮半島は、‘現代の火薬庫’になりかねないと思うのです。

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核は使えない兵器なのか?

2019年07月12日 11時20分50秒 | 国際政治
核兵器には、攻撃力と抑止力の両面性があるのですが、核兵器は使えない兵器なので、今後の核管理・規制に関する選択肢は、核廃絶一択であるとする意見も聞かれます。’脅されても無視すればよい’ということでもありますが、本当に核兵器は使えない兵器なのでしょうか。

 ‘核兵器は使えない’とする主張には、仮に同兵器を使用して民間人の大量虐殺を行えば、その非人道性に憤慨した国際社会から雨や霰の批判を浴びるとする、人類に備わる倫理的抑制に対する確固とした確信と強い期待があります。‘人であるならば、かくも残酷な行為ができるはずもない’という…。多くの人々がこの考えに同感するでしょうし、そうあって欲しいと願うことでしょう。しかしながら、人類史を紐解きますと、この確信は揺らいできます。

 人類がその歴史においてジェノサイドを繰り返してきたことは、古代ギリシャの歴史家であったヘロドトスの『歴史』における記述において確認することができます。しばしば征服した部族は、一部の女性や子供を残すことはあっても、征服地の住民を皆殺しにしてきたのです。つまり、人ではなく、土地の奪取が征服の目的であった場合、その土地の住民は邪魔な存在なのです。いわば‘強盗殺人’の心理に類似するのですが、そこには、征服地住民に対する情け容赦は一切ありません。むしろ、恐ろしいことに、住民虐殺こそ復讐の連鎖を断ち、抵抗の芽を摘む最も確実で有効な方法でさえあったのです。

 ジェノサイドは古代に限ったことではなく、モンゴルは凄まじいまでの住民虐殺を経て大帝国を建設しましたし、マキャベッリも『君主論』において肯定的に論じています。現代に至り、1948年12月に国際法としてジェノサイド禁止条約が国連総会で採択されたものの、全世界を震撼させたルワンダ虐殺が起きたのは1994年のことなのです。そして今日、チベットやウイグルで起きている中国による住民弾圧は、異民族によって多くの人命が一方的に奪われ、民族性が消し去られている点においてジェノサイドと言っても過言ではありません。中国によるチベットやウイグルの支配は、自国の領域の拡大、あるいは、これらの地に埋蔵されている天然資源や戦略的拠点の獲得が主たる目的であるからなのでしょう。

 そもそも、使えない兵器であるならば、北朝鮮もイランも、軍事制裁や経済制裁の危険を冒してまで開発しようとはしなかったことでしょう。また、中ロ等が地球を破壊し得る程大量の核を保有する理由も、全人類を人質に取るのみならず、自国による全地球の独占的な支配を目論んでいるのかもしれません。

 サイコパスの存在は良く知られていますし、乳幼児を対象とした実験によれば、人類の一部には、生まれながらにして悪の側に親近感を持つ人もいるそうです。赤ちゃんに困っている人を援ける良い子のぬいぐるみと、困っている人を苛める悪い子のぬいぐるみのうち、どちらか一方を選ばせる、という実験を行ったところ、92%が良い子のぬいぐるみを選び、残りの8%は悪い子のぬいぐるみを選択したというのですから。教育によって道徳心を育むことはできるのでしょうが、悪に同調する8%の人が指導者となった場合、核のボタンを押さないとも限りません。

中国や韓国では日本人に対する憎しみを植え付ける教育を行っており、北朝鮮に至っては‘東京を火の海にする’と言って憚りません。今日の地球上において実際に住民虐殺が行われ、その行為に対する道徳・倫理的な反省もない現状を鑑みますと、‘核兵器は使えない’言い切れないのではないかと思うのです。

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核兵器の効果をめぐる問題-攻撃力と抑止力の両面性

2019年07月11日 17時16分28秒 | 国際政治
人類史上、最初に投下された核兵器は、大量破壊をもたらす攻撃兵器として使用されました。一瞬にして市民諸共に一つの都市を焼き尽くすその凄まじいまでの破壊力故に、非人道的な兵器とみなされ、国際レベルにおける管理・規制の対象となったと言えます。このため、一般レベルにおいては1970年に核拡散防止条約(NPT)が締結されましたし、最近では、現状における加盟国は非核保有国の有志に限られているとはいえ、核兵器禁止条約も成立しています。その一方で、トランプ政権下において米ロ間で締結されていた中距離核戦力全廃条約(INF)は破棄されており、核兵器の規制をめぐっては、‘前進?’と‘後退?’がせめぎ合っていのが現状です。このため、核に関する議論も白熱し、その対応も国毎に分かれるのですが、そこには一つの論点が抜け落ちているように思えます。それは、核兵器の効果をめぐる議論です。

 上述したように、核兵器は、従来の常識を超える究極的なまでの破壊力を有する攻撃兵器として歴史に登場しています。しかしながら、核はその出現と同時に抑止力をも備えるようになりました。何故ならば、広島・長崎の目を覆うばかりの惨状を人類は目の当たりにしたため、如何なる国も核攻撃を怖れるに至ったからです。つまり、核を保有していれば、他の国から攻撃を受ける可能性を著しく低めることができるのです。‘核の抑止力’とは、核に対する恐怖心に基づく他国からの攻撃回避効果を意味しており、‘核の傘’とは、この効果が核保有国の同盟国にまで及ぶことを表現した言葉です。

 核兵器の効果としての攻撃力と抑止力の両面性は、本来であれば、当然に国際レベルにおける核の規制・管理体制の構築に際して最も考慮されるべき点です。しかしながら、何れの主張にも、どちらか一方に偏るか、あるいは、攻撃力と抑止力との間に不整合性が見られるように思えます。

 例えば、核兵器禁止条約は、核の攻撃性のみを判断基準として作成されています。‘核は人類をも滅ぼしかねない破壊力を有するので、全ての諸国はそれを保有してはならない’とする危険物は完全除去すべしとする全面禁止の主張です。しかしながら、実際には核には攻撃力の裏面としての抑止力もありますので、この主張に従えば、全ての国が攻撃力と一緒に抑止力をも捨てることとなります。国際社会の現状を見ますと、同条約に加盟していない核保有国、並びに、非保有国は少なくありませんので、この主張に従えば、同条約の加盟国は攻撃力と抑止力の両者を失い、安全保障の観点からしますと極めて危うい状況に置かれるのです。現核保有国を含めて全世界の諸国が核兵器を同時に放棄しない限り、同条約の理想は実現しないのです(‘過渡期’にあっては逆に危険が増大する…)。

 その一方で、NPTは、核兵器禁止条約よりは遥かに‘まし’ではあります。核保有国が‘世界の警察官’の任務を誠実に果たしさえすれば、核保有国から不法・不当な核攻撃を受けることはありません。かつ、警察役の核保有国を除いて他の諸国も等しく核を保有していないのですから、一先ずは自ら核武装しなくとも自国の安全が保障されるからです。

ところが、NPT体制にも盲点はあります。核保有国が警察官ではなく‘強盗’となるリスク等に加え、同体制には、攻撃力と抑止力の間に不整合性があるのです。この不整合性とは、核保有国の核兵器は、非核保有国が核を保有しようとした場合、それを強制的に取り上げる物理的な力とはならない点です。つまり、このことは、警察役の核保有国は、自らの核保有を以ってしても他の諸国の核保有を止めることはできず、かつ、非核保有国による核保有の絶対的なリスク排除を以って正当化することができないことを意味するのです。核不拡散の任を遂行するためには、むしろ、全ての非核保有国に優る圧倒的な通常兵力、あるいは、経済制裁を含む他の手段を要します。しばしばそれは、核保有国と雖も一国の能力では難しく、国連等を舞台とした国際協力を必要とするのです。そしてこの盲点を突いたのが、北朝鮮であり、イランであったのではないでしょうか。

以上に述べたように、核の全面禁止や現行のNPT体制にも弱点があるとしますと、国際社会は核兵器をどのように扱うべきなのでしょうか。一つの案は、核の抑止力に期待し、全ての諸国に核保有を認めるというものです。この案は、全面禁止とは逆に抑止力を基本とした安全保障体制となりましょう。核には同時に攻撃力も備わるため、無法国家が引き起こす核戦争のリスクを完全には排除できないものの、この案では、全ての国は一矢を報いることはできますので、少なくとも一方的な核攻撃に晒されるという危険からは脱することはできます。強盗化した核保有国による核の先制攻撃に晒されている現実からしますと、非核保有国にとりましては決して悪い案ではないはずです。それとも、NPT体制の盲点を埋める何らかの制度的な改善を試みるべきなのでしょうか。例えば、核保有国の資格を厳格にし、中国やロシアといった国際法を順守しない無法国家から資格を剥奪する、インド、パキスタン、並びに、イスラエルに対して非核化を義務付ける、あるいは、核保有国に北朝鮮やイランの核放棄の強制を義務化する、といった方法も考えられます(もっとも、非現実的ではあります…)。

非核保有国によるイランや北朝鮮の核保有問題が緊迫化する中、国際社会は応急的な対応に終始することなく、今般の核問題の原因の一つでもあるNPT体制の欠陥を直視すると共に、国際レベルにおける核の管理・規制を含む安全保障体制の再構築について議論を始めるべきなのではないかと思うのです。

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イラン核問題がNPT体制を揺るがす理由

2019年07月10日 13時46分02秒 | 国際政治
 イランによる核合意の上限を越えたウラン濃縮の再開は、目下、国際社会に緊張をもたらしています。東方の朝鮮半島における北朝鮮の核問題も未だ解決を見ず、国際社会は、東西の核問題から揺さぶりをかけられているのです。そして、これら両国の核問題は、NPT体制の行方をも左右しかねないのです。

 NPT体制とは、原則として国連安保理の常任理事国にのみ核保有を認め、他の諸国に対してはそれを禁じる体制として理解されています。同条約により、全世界の諸国が核保有国と非保有国に分かれるため、不平等条約との批判もあります。しかしながら、安保理常任理事国の5ヶ国には、‘世界の警察官’という重い責務があるため、核保有国と云う特別の地位が認められているのです。銃刀法が制定されている日本国では、公式に拳銃を携帯できるのは警察官のみあり、その他の国民の銃保有は違法行為となります。警察は、常に銃保持者がいないかパトロールを実施し、仮に、銃を携帯している国民を発見すれば、警察が銃保持者の身体や家宅をくまなく探し、当該拳銃を押収することとなりましょう。NPT体制とは、まさにこのような状況を想定しており、核保有国は、核の保有が特別に認められるのと引き換えに、非核保有国の核保有国に向けた試みを阻止し、仮に、核を保有する国が存在する場合には、それを取り上げなければならないのです。

 国際社会において核保有国と非核保有国との間の権利と義務の関係がバランスしていれば、NPT体制は長期的に安定しますし、全ての諸国がその恩恵を受けることができます。おそらく、全世界の諸国がNPT体制の維持に積極的な賛意を表明することでしょう。しかしながら、現状を観察しますと、少なくとも3つの点において同体制には重大な欠陥があるように思えます。

 第1の問題点は、‘無法者’あるいは‘強盗’が警察官を務めている点です。南シナ海問題において、中国は、常設仲裁裁判所の判決を‘紙屑’扱いして破り捨て、同海域の軍事拠点化に邁進しています。加えて、中国やロシアは、自国の核兵器を他国に対する威嚇目的で濫用しており、本来の核保有の目的から逸脱していると言わざるを得ないのです。これらの行為は警察官が法を破るに等しく、核保有国の地位のみならず、‘世界の警察官’たるべき国連安保理の常任理事国の資格をも問うべき事態でもありましょう。中国やロシアが、非核保有国に対して‘NPTを遵守せよ’と迫る時、それは、おとなしく自らに従え、あるいは、抵抗せずに侵略を受け入れよ、と要求しているように聞こえるのです。

 第2の問題点は、NPT体制には包括性が欠如している点です。インドとパキスタン、並びに、イスラエルの3国はNPTを批准せず、1970年の同体制発足当初から参加していません。つまり、NPT体制の枠外にあるため、同条約による法的拘束から免れることができるのです。この状態は、先の日本国の事例に喩えれば、国内に警察権力が及ばない無法空間が存在していることを意味します。包括性の欠如は、同体制による安全の保障が不完全であることに他ならないのです。

しかも、これらの常任理事国以外の核保有国は決して無害なわけではなく、警察が治安の維持という公的目的の下で拳銃を携帯するのとは違い、国際社会に対する何らの公的責務を負っていませんので、周辺諸国に対して核を以って威嚇することができます。核保有国による義務なき核の利己的、かつ、非平和的な利用こそ、第3の問題点となりましょう。言い換えますと、これらの諸国は、印パ戦争や中東戦争を根拠とするものであれ、公的な義務を負うことなく特権だけは享受できますので、最も危険、かつ、狡猾な国と云うことができるのです。そして、NPTからの一方的な脱退を宣言した北朝鮮(最も、国際社会は独国の脱退を認めていない…)、並びに、NPT批准国でありながらウラン濃縮を再開したイランは、これらの諸国を模倣していると推測されるのです。

以上に主要な3点を挙げて見ましたが、この3点に照らしますと、イランのウラン濃縮の再開がNPT体制を崩壊に導く可能性が極めて高い理由がおぼろげながら見えてきます。同国の核開発・保有計画は、中国とロシアのバックアップの下で進められ、かつ、今般の再開も両国の承認に依るものなのでしょうから、‘警察官’が、無法者の拳銃保持を幇助したに等しくなります。これでは、警察官に対する国民の信頼は地に墜ちますので、当然に、現行の治安維持体制に対する見直し要求も高まることでしょう。その一方で、上述した核保有国の行動を真似て、周辺諸国に対して優位な立場を得るために核を保有しようとする国も増加することでしょう。つまり、無法地帯がじわりじわりと拡大し、その裏で警察と違法国家が手を組むのですから、他の諸国の安全保障上のリスクは格段に上昇します。NPT体制の下では全ての国の安全が保障されないこととなり、別の体制、あるいは、手段を考えざるを得なくなるのです(アメリカも、世界の警察官の重荷に耐えられないのであるならばなおさらのこと…)。果たして、国際社会の現実を見据えたNPT見直し論は、平和に反する根拠なき暴論なのでしょうか。

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ディズニー映画に見る普遍性の勘違い?

2019年07月09日 19時12分19秒 | 社会
先週、米ディズニー社は、実写版の「リトル・マーメイド」の主役として、アフリカ系の歌手であるハリー・ベイリーさんを起用すると公表したそうです(7月8日付日経新聞「春秋」より)。おそらく、同社がベイリーさんを主役に抜擢した理由は、人種や民族等の違いを越えた普遍的なストーリーとして「リトル・マーメイド」を描きたかったからなのでしょうが、どこかで何かが違っているという感覚を覚えます。この違和感、一体、どこから来ているのでしょうか。

 実を申しますと、アニメ版の「リトル・マーメイド」を見てはいないのですが、おそらくアンデルセンの『人魚姫』をベースに制作された作品なのではないかと思います。アンデルセンと言えば北欧デンマークの作家であり、作品の舞台もそのほとんどがヨーロッパです。『人魚姫』も、王子さまの命を奪うことができず、自ら海の泡となって消えた人魚姫の悲恋の物語であり、原作を読みますと、登場人物達の殆どは、人魚姫を含めて金髪で青い瞳の北欧の人々の姿がイメージされてきます。

 もしも『リトル・マーメイド』がアンデルセンの『人魚姫』を原作としており、かつ、ディズニーが普遍性を理由に敢えて原作とは異なる配役を試みたとしますと、ここに、皮肉な状況が発生します。何故ならば、自ら身を引くヒロインをアフリカ系のベイリーさんが演じると、むしろ、人種差別がイメージされてしまうからです。つまり、人類社会が抱える問題を普遍的に表現しようとした結果、むしろ、アメリカ社会の問題を浮き彫りにしてしまうのです。それでは、ベイリーさんは、顔を厚く白塗りしてカラーコンタクトで瞳を青くし、金髪の鬘を被って人魚姫を演じるべきなのでしょうか。

 また、普遍性を追求するばかりに原作と離れた配役を行いますと、物語の基本コンセプトさえ壊してしまう可能性もあります。例えば、シェークスピアの『オセロ』において、デズデモーナ役をアフリカ系の女優さんが勤めた場合、この物語は成立するのでしょうか。『アンクル・トムの小屋』のトム役をヨーロッパ系の俳優さんが勤めてもどこか奇妙です。あるいは、NHKの大河ドラマにあって歴史上の人物をヨーロッパ系、あるいは、アフリカ系の役者さんたちが演じた場合、視聴者は舞台となった時代を感じ取り、感情移入することができるのでしょうか(織田信長をヨーロッパ系の人が演じ、徳川家康をアフリカ系の人が演じるなど…)。

特定の時代や国を背景として成立しているストーリーは、そもそも普遍化することは難しく、しかも、普遍化の手法が、原作とは異なる人種や民族の俳優の人々に演じさせるという多様性配慮となりますと、演じる役者さん自身の属性を消し去ることはできませんので、作品を壊してしまうか、あるいは、全く別のストーリーにさえなりかねないリスクがあるようにも思えます。今般の配役にはネット上では賛否両論があるそうですが、そもそも全ての属性を超越する普遍性と個々の属性の併存を意味する多様性の両者は同次元にはありませんので、原作や歴史的事実とは異なる配役を以って普遍性を訴えるディズニーの手法には無理があるように思えるのです。

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イランは核開発を止めないのでは?

2019年07月08日 14時10分39秒 | 国際政治
トランプ米大統領によるオバマ政権時の2015年に成立したイラン核合意からの離脱は、イランによる核開発の再開というリアクションを誘発したようです。同合意によって定められた上限を越えるウラン濃縮に踏み切ったのですから、これまで西側諸国でありながらイランを支えてきたさしもの英独仏、並びに、EUも顔色を失っています。そして、この展開から見えてくるのは、イランの核の開発・保有に向けた不変の意思なのではないかと思うのです。

 そもそも、トランプ政権がイラン核合意から撤退した理由は、同合意の内容が不十分であり、将来的にはイランに核保有の道を残していたからです。期限も15年と設定されておりましたので、同政権の懸念は合理的な根拠がないとは言えません。イランは、自らに課せられた制約が緩く、将来的な核開発・保有に含みを持たせていたからこそ、西側諸国との核合意文書に署名したとも言えるのです。仮に北朝鮮に対する核放棄の条件として示されたCVID方式であれば、イラン合意は決して成立することはなかったことでしょう。

 少なくともイラン側の核合意の理解が、西側諸国による同国の将来的核保有に対する暗黙の承認であり、開発プロセスにおける一時的な休止期間に過ぎないとすれば、この理解は、トランプ政権のものと奇しくも一致しています。イランにしてみますと、休止期間の間に原油の輸出を梃子に核開発に要する外貨や技術を獲得できれば御の字であり、この意味において、核合意には署名するだけの価値があったのでしょう。一時的な妥協がその後にあって重大な危機をもたらすことは、歴史においてはしばしば人類が経験してきた判断の誤りです。

 しかしながら、トランプ政権の合意からの撤退により石油取引に制限が課されますと、イランの上記のシナリオは大きく狂うこととなります。つまり、合意を維持するだけのメリットが失われるのです。中国を含む他の当事国の合意履行要請をあっさりと振り切ってイランがウラン濃縮を拡大させたのは、当初から核開発・保有を放棄するつもりは毛頭なかったからに他なりません。安倍首相のイラン訪問時にあって、同国の首脳は‘宗教的な信念からして核開発の意図はない’と説明したと報じられていますが、同国の行動を見る限り、この言葉には偽りがあったとしか言いようがないのです。

 イランには核放棄の意思が全くないとしますと、トランプ大統領がイランに対して交渉の席に着くように促したとしても、それは無駄な試みとなりましょう。再交渉によってイランがCVID方式の核放棄に応じるとは到底考えられないからです。否、イランは、アメリカの核合意撤退を核開発再開の口実とできるのですから、‘渡りに船’であった可能性さえあります。一方、中国やロシアはこの件に関して今のところは沈黙しており、あるいは、両国の助言とサポートの下でイランは核開発を再開させたかもしれないのです(両国はイラン産の原油を独占するかもしれない…)。

 このように考えますと、イランを核合意に復帰させる方向で働きかけるよりも、イランの核保有の意思は固いとみて対策を講じた方が賢明なようにも思えてきます。とりわけ、中ロがイランの核開発と保有を認めているとなりますと、NPT体制の根本に関わる問題ですので、国際社会は、核について抜本的な見直しを迫られることとなるように思えるのです。

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ひきこもり61万人を呼び戻そう

2019年07月07日 17時34分10秒 | 日本政治
兵庫県明石市では、中核都市としてはじめて「ひきこもり支援課」を設け、ひきこもりとなった人々をサポートするそうです。報道に依りますと、ひきこもり状態にある人の数は全国で凡そ61万人にも上るそうですが、この問題に対する公的支援、あるいは、対策が遅すぎたようにも思えるのです。

 日本国政府もマスメディアも、‘多文化共生主義’といった標語を掲げて異なる文化的背景を持つ人々の受け入れを奨励してきました。その主たる支援対象は外国人であり、実際に、今般の入国管理法の改正を機に地方自治体レベルでも様々な外国人支援策が試みられています。その一方で、足元を見ますと、日本国民の中には61万人もの数の人々が社会、あるいは、経済から疎外されており、自宅に閉じこもる生活を余儀なくされているのです。

 おそらく、ひきこもりとなった理由としては、一旦は会社等に就職したものの、組織優先の論理に馴染めなかったり、社内の人間関係を拗らせてストレスをため込み、精神的に破綻してしまったり、上司からのパワハラや同僚からの‘いじめ’にあってしまった、あるいは、仕事そのものに意義を見出せなかった…といったケースが多かったのではないかと思います。学校を舞台とする登校拒否と同様に、職場に出向くことに精神的に耐えられなくなったのでしょう。

 しかしながら、ひきこもりとなった人々も、組織や職場の環境が改善されれば、自らの能力を発揮し得る可能性を秘めています。否、ひきこもりとなりがちな内向的な人ほど想像力に富んでいたり、物事を深く考えて突き詰める性向がありますので、隘路にあってブレークスルーを見つけ出し、イノヴェーションを起こすかもしれないのです。すなわち、日本国は、貴重な人材を埋もれたままにしており、その社会・経済的な損失は計り知れないのではないかと思うのです。

 このように考えますと、日本国政府も地方自治体も、そして企業も、徒に外国から人材を呼び寄せることに夢中になるよりも、自らの国の中にこそ‘宝の山’が存在していることに気が付くべきなのではないでしょうか。ひきこもり61万人が再び社会や経済を舞台に活動を始める時、日本国もまた、真の意味で多様な人々を包摂し、一人一人が自らの能力を活かして活躍し得る国となるのではないかと思うのです。

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NHKは中国のウイグル支配を擁護したのか?-‘一つの中国’は侵略肯定思想

2019年07月06日 15時21分59秒 | 国際政治
昨日7月5日、NHKでは夜9時の『ニュース9』において、深刻な人権侵害が国際的な批判を浴びているウイグル問題を扱っておりました。日本在住のウイグル人の方が登場し、中国当局による非道な仕打ちを訴えるという構成であり、同問題について実情を知らない国民が多い中、同報道はウイグル問題の理解を深める上で有意義な報道ではありました。しかしながら、一つ気に掛かったのは、NHKキャスターの一言です。それは、‘一つの中国’という言葉です。

 同番組は、中国によるウイグル人に対する非人道的な行為を批判しつつも、中国の顔色をも窺っていたように思えます。中国配慮の現れが‘一つの中国’の言葉であり、現在の中国の領域を一体と見なせば、ウイグル人の独自性を認めたり、独立運動を弾圧するのも致し方ない、とも解されます。台湾問題にあっても、中国は、しばしば‘一つの中国’を強調してきました。乃ち、この言葉こそ、中国にとりましては、台湾のみならず、香港の本土化、並びに、チベットやウイグルの独立を押さえつけ、国際社会からの批判をかわす‘魔法の杖’なのです。この杖を一振りすれば、あらゆる批判者の口を噤ませることができると信じているのでしょう。案の定、NHKまでもが、この言葉を持ち出すことで、中国当局のウイグル弾圧をあたかも当然の事の如くに擁護しているのです。

 しかしながら、‘一つの中国’の言葉の意味を深く探りますと、同国の倒錯した思考が浮かび上がってまいります。それは、たとえ軍事侵攻や詐術によって他国の独立を奪い、自らの支配下に置いたとしても、違いをなくして‘一つ’にすれば’許されるという恐るべき論理です。そして、この侵略正当化の理論に基づけば、支配下に置かれた側の独自の文化や伝統は支配する側のものに強制的に置き換えられてしまうのです。かくして、中国は、‘再教育施設’という名の強制収容所を設け、ウイグル人の内面にまで踏み込み、‘一つの中国’を押し付けています。自らの侵略を正当化するために…。

 このような自己正当化は、果たして許されるのでしょうか。今日にあっては、国連憲章にも謳われているように、民族自決や主権平等は国際社会の基本原則です。チベットもウイグルも国際法を突き詰めれば、中国の侵略行為、あるいは、不法占領であることは疑いようもありません。第二次世界大戦にあって、日本国を侵略国として糾弾したのは当の中国であったにも拘わらず、その中国が、今度は自ら他国を不法に自国に併合しながら‘一つの中国’を以ってその犯罪性を糊塗しようとしているのです。

 この論法が通用するならば、今後、中国が日本国を支配するに至った場合にも、‘一つの中国’を掲げ、異民族をも包摂する偉大な国家として自画自賛することでしょう。日本全国津々浦々に至るまで、中国支配に抵抗する日本人に共産主義を植えるつけるための‘再教育施設’が建設されたとしても…。国民国家体系を基礎とし、国家、及び、民族の独立性の相互尊重を義務付ける国際法に照らせば、‘一つの中国’こそ主権や自決権の簒奪を許す犯罪者側の詭弁であり、国際社会における危険思想と言えるのではないかと思うのです。

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インフラ関連分野の自由化は‘隠れた植民地’への道?

2019年07月05日 11時25分53秒 | 日本政治
本日の日経新聞の朝刊一面には、英蘭ロイヤル・ダッチ・シェル社が日本国の電力小売市場に参入するとする記事が掲載されておりました。行く行く先には日本国の電力市場は外資系で占められてしまう可能性も否定はできないのですが、‘隠れた植民地’化のリスクを考えてもよい時期に差し掛かっているようにも思えます。

日本国の電力自由化は、2011年に発生した東日本大震災を機に一気に推進されたため、十分な国民的な議論を経ずして既成事実化が積み重ねられてきました。地域分割型の独占の緩和、再生エネ法に基づく電力買い取り制度、電力小売市場の開設…といった国内的な自由化のみならず、これと同時に外資の参入を凡そ全面的に認め、対外開放としての自由化政策も進めてきたのです。いわば、東日本大震災は、電力事業の‘ビッグバン’となったのですが、このため、今では、日本国のエネルギー事業における外資参入の勢いは止まりません。

メガ・ソーラの太陽光パネルを見ましても、安価な中韓製品に押されて国産パネルは総崩れとなり、かつて同分野を先駆的な技術開発において牽引してきた日本企業は見る影もない状態に至っています。こうした製品輸入の拡大に増して問題となるのは、事業そのものの開放です。伊豆高原の森林伐採において問題視された事業者が韓国系であったように、発電装置ののみならず、発電事業そのものが外資系というケースも珍しくないのです。

こうした全面的な自由化政策については、これまでそれに潜む問題点については無視されがちでした。安全保障等を根拠とした中国系事業者や韓国系事業者に対する警戒感はあったとしても、民間事業者であること、そして、グローバリズムを理由に是認されてきたのです。今般報じられている英蘭ロイヤル・ダッチ・シェル社も、自由主義国の企業ですので、おそらく問題なしとみる意見が多数を占めることでしょう。しかしながら、東インド会社の歴史等を振り返りますと、そうとばかりは言えないようにも思えます。

東インド会社と言えば、最もその名が知られているのは、イギリス東インド会社とオランダ東インド会社であり、双璧を成していると言っても過言ではありません。これらの会社は、アジア諸国との貿易の独占で莫大な利益を上げてきましたし、それと同時に、政治分野にあっても、一先ずは民間企業でありながら、現地において統治に関する諸権限を手に入れてきました。関税権、徴税権、財政権、インフラ敷設・運営権、警察権限…などなど、すなわち、サラミ戦術の如く、漸次的に国家運営に必要となる様々な権限を手中に収めることで、最終的に領域や国民支配を含む植民地化に成功しているのです。英蘭ロイヤル・ダッチ・シェル社と云う社名を聴くと、否が応でも東インド会社が思い浮かびます。そしてそれが、単なる製品輸入ではなく事業運営をも意味するとなると、同社に対する警戒感はさらに強まるのです。

もちろん、鉄道、水道、電気、ガス、情報通信といったインフラ事業における外資系事業者の参入に関するリスクは、英蘭ロイヤル・ダッチ・シェルに限ったことではありません。インフラ事業には時空における制約がありますので、他の製品市場とは異なり、長期的な独占が生じやすい傾向にあるからです。しかも、規模の大きな企業ほど、競争上、有利となります(EUでは、エネルギー市場を単一化した結果、大手企業しか生き残れず、多くの加盟国が、他の加盟国の大手企業に自国の市場を席巻されてしまった…)。言い換えますと、自国の領域内における国民の経済活動や日常生活から、外国企業が恒常的に利益を吸い上げるシステムが内在化しかねないのです。

この問題は、日本国のみならず、全ての諸国が直面する隠れた植民地支配のリスクなのではないでしょうか。インフラ事業に関する外国企業の参入については、杓子定規な自由化よりも、国家レベルでの規制強化、並びに、国際レベルでの一定の規制を設ける方向でのルール造りが求められているように思うのです。

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参議院選挙の候補者人選-多様性の勘違い?

2019年07月04日 13時48分43秒 | 日本政治
本日7月4日、日本国では、同月21日が投票日となる第25回参議院議員選挙が公示されました。各党とも選挙戦に向けて一斉に街頭に繰り出したのですが、候補者の人選、特に野党の候補者選びにつきましては疑問なところがあります。

 今日、全世界の風景を見渡してみますと、‘多様性’のキャッチフレーズが猛威を振るっているように思えます。とりわけ性差別に関する運動が活発であり、LGBTについてはイギリスのウィリアム王子まで動員しての熱の入れようです。こうした全世界的な広がりを見せている運動は、同一のフレーズが使われていることからしましても、何らかの国際組織が背後にあることは容易に推測されます。EUでも、今般、女性初の委員長、並びに、ECB総裁が誕生する見通しですが、国際レベルや国家レベルにおける人事に際しても、最優先にされるのは能力や手腕よりも差別解消なのかもしれません。おそらく、日本国内で議論を呼んでいる女性・女系の天皇や宮家の問題も、性差別解消を強力に推進している国際組織の圧力があるのでしょう。

 ‘多様性’については、性差別のみならず、あらゆるマイノリティーや弱者に対する‘差別’が含まれます。このためか、参議院選挙での候補者の顔ぶれを見ますと、マイノリティーであることを全面的に打ち出し、得票に結びつけようとする戦略も見受けられます。この手法は、アメリカ民主党にあってオバマ前大統領やヒラリー・クリントン氏をトップの地位に押し上げるに際して使われたのですが、日本国の国政選挙でも、‘多様性戦略’とでも表現されるような候補者の人選が行われているようです。

 しかしながら、国会の役割に照らしてみますと、多様性重視の人選の方針には疑問があります。何故ならば、国会が様々なマイノリティーの代表を集める場と化してしまいますと、もはや、国民の代表が集まる機関とは言えなくなるからです。一般の国民はマジョリティーですので、ここに、マイノリティーとマジョリティーとの間に抜き差しならない二律背反性が生じてしまうのです。そして、政治家の方々がしばしば言及する‘政治は数’という言葉はさて置くとしても、民主主義における基本原則は多数決ですので、マイノリティーの集合体としての議会が真に民意を代表するのかも怪しくなるのです。

 もちろん、議会の役割の一つは、国民の間に存在する異なる立場や利害関係等を調整することですので、マイノリティーの方々の意見を政治に反映させることは重要です。全ての人がは分野が違えばマイノリティーになり得るのであり、ある意味、社会が多様性に満ちていることは当然のことです。なればこそ、多様性の実現とは、議会の議員構成を多様化することではなく、政党や政治家自身があらかじめ多様性を調和させたり、マイノリティーの人々の意向を汲んだ政策を立案したり、あるいは、党綱領を作成し、賛意を得るべくこれらを国民に問うことにあるのではないでしょうか。日本国を含め、現在の政治を見ておりますと、政治そのものよりも、何か別の方向に国民の関心を逸らそうとする傾向に危惧を覚えざるを得ないのです。

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香港市民は‘天安門の謀略’に警戒を

2019年07月03日 13時49分06秒 | アジア
中国と云う国は、その6000年とされる歴史において王朝交替を繰り返し、宮廷内でも激しい権力闘争を繰り返したこともあって、謀略に長けた国として知られています。今般、「逃亡犯条例」をめぐって香港では大規模な反中デモが発生しておりますが、北京政府が、全土における民主化運動へと発展する可能性を秘めた同運動を苦々しく思っていることは疑いようもありません。共産主義によって謀略性に磨きをかけた北京政府は、おそらく、香港市民の抗議運動に対しても何らかの謀略を仕掛けてくることでしょう。

 流血の大虐殺となった天安門事件では、学生の民主化運動に反対していた最高指導者であった鄧小平氏は、ある策略によって軍事介入を正当化したとされています。その策略とは、人民日報において同運動を‘動乱’と決めつけて煽り、学生たちの行動を過激化させたというものです。言い換えますと、民主化運動を過激化の方向に誘導することで、‘軍による鎮圧も已むなし’の状況を創り出したのです。おそらく、この策略を首尾よく成功させるために、民主化運動の組織の中にも協力者を確保していたことでしょう。かくして残虐性を極めた天安門事件は、中国の歴史に汚点を残したものの、中国の一党独裁体制は、中国人民の未来のために命を捧げた学生たちの屍の上に一時の安泰を得たのです。

 天安門事件は、中国共産党にとりましては‘成功体験’であり、国民の民主化を抑え込む一つのモデルとなったことは想像に難くありません。否、中国共産党は、体制移行を求める大規模な反政府運動が発生した場合、軍の投入しか鎮圧手段はないと見ているかもしれません。暴力を正当化し、暴力革命を実行した者は、暴力でしかその体制は維持できないと考えていることでしょう。となりますと、表向きは冷静を装いつつ、中国共産党は、今般の香港市民の反中運動に際しても、最初の一手を相手に打たせることで、人民解放軍の投入を目論んでいる公算は極めて高いと言わざるを得ないのです。

 折も折、中国共産党による武力弾圧が懸念される中、香港では、一部の民主派の学生が過激化して立法会を実力で占拠する事件が発生しています。これを機に、北京政府は香港デモを本土でも批判的に報じるようになると共に、民主派の分断を模索しているとも報じられております。同事件は、過激な破壊行動を目の当たりにした一般の香港市民が抗議活動から距離を置く機会となるに留まらず、北京政府に武力介入をする口実を与えかねません。すなわち、結果として、暴徒化した一部の学生は、事態を北京政府にとって望ましい方向に導いているのです。

 G20閉幕のタイミングで起きたことを考慮しましても、香港デモの過激化は、天安門事件と同様に、武力弾圧を目指す側の謀略である可能性は極めて高いのではないでしょうか。民主派の暴発を誘発して暴力で潰すという…。敵方に対する内部工作は『孫子』の兵法でも推奨される攻略手段なのですから、香港市民は謀略を警戒し、扇動や挑発には迂闊に乗らないよう十分に気を付けるべきではないかと思うのです。

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日本国の対韓制裁について考える

2019年07月02日 18時43分01秒 | 日本政治
日本国政府は、所謂‘元徴用工訴訟’に関連して日韓請求権協定に基づく仲裁委員会の設置を韓国政府が受け入れず、また、代案の解決策をG20の開催期間まで提示しなかったことを理由に、同国に対して事実上の制裁を発動することを決定いたしました。制裁の内容は、韓国の主要輸出品である半導体等の製造に必要となる日本産の素材の輸出規制の強化であり、同国の産業を根底から揺さぶる作戦のようです。

 国際法を無視したあまりにも利己的で自己中心的な韓国側の態度からしますと、同国に対しては然るべき制裁を科すことについては、日本国民の多くは支持することでしょう。従来の‘事なかれ主義’では埒が明かず、否、日本国側の寛容な態度が韓国側の傲慢さをエスカレートさせてきた嫌いがあるからです。今般の‘徴用工訴訟’は、国際法秩序の維持に関わりますので、何としても韓国を法に従わせようとした日本国政府の対応はよく理解できます。しかしながら、その一方で、対韓制裁については、幾つかの考えてみるべき点があるように思えます。

 第一に疑問に感じることは、何故、日本国から韓国への輸出が規制されたのか、という点です。WTOにおいて煮え湯を飲まされた韓国による日本産水産物に対する輸入規制に対する日本国側の制裁措置は、韓国産水産物に対する検疫の強化でした。この方針からすれば、今般の‘徴用工訴訟’をめぐる対韓制裁にあっても、韓国製品や韓国産の産物の輸入禁止措置の方が、少なくとも韓国に素材を輸出している日本企業の被害は小さかったはずです。あるいは、LINEといった韓国系企業に対して、安全保障や国民の個人情報保護の観点から規制を強化するといった方法もあったはずなのです。

 第一の疑問に関連して第二に考えるべきは、仮に、韓国政府が主張するように、日本製素材の輸入規制を機に、韓国が素材の内製化を図る、あるいは、他の素材生産国に代替を求めた場合です。このケースでは、近い将来、韓国はもはや日本製の素材を必要とせず、かつ、半導体や液晶ディスプレイのように日本国に替って素材輸出国となるかもしれません。このケースでは、日本国は、重要な輸出産業の一つを失うこととなります。そして、仮に、日本国が素材産業において輸出に頼ることができないとしますと、国内需要を喚起する何らかの策を必要とすることともなりましょう。

 そして、第三の論点として問題提起し得るのは、仮に、かくも容易に先端技術分野での内製化が可能であるならば、グローバリズムの逆回転が起きるのではないか、という点です。米中も貿易戦争の只中にありますが、アメリカの産業力や技術力、並びに、起業家精神を以ってすれば中国製品に依存してきた様々な製品の内製化は困難ではないはずです。グローバリズムはテクノロジーの伝播と世界大での拡散を伴いましたので、多少のタイム・ラグがあり(特許について特許期間…)、また、コスト面で割高とはなっても、今日では、全世界の諸国が国産化を可能とする時代といっても過言ではないかもしれません。

 韓国は日本国の対抗措置に反発しているようですが、同国には常々騙されてきただけに、つい日本国政府も加担した’メビウスの輪’戦略を疑ってしまします。何れにしましても、今般の対韓制裁は、今後の世界経済を占う上での試金石となる可能性があるようにも思えるのです。

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