万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

検察庁法改正問題-検事総長に注目して見ると

2020年05月16日 12時36分16秒 | 日本政治

 検察庁法の改正を含む国家公務員法の改正は、検察OBによる反対表明もあり、先行きに不透明感が漂っています。この法改正、他の官公庁の公務員とは異なり、検察官の役割が日本国の治安のみならず、政治的クリーンさを保つことにあるだけに、とりわけ広く国民の関心を集めたとも言えましょう。

日本国の国家組織にあって行政機関として位置づけられてはいても、その役割からすれば、検察は、警察共々司法分野に属しています。‘司法の独立’と申しますと兎角に裁判所を対象としているように思われがちですが、起訴の判断に際して政治介入や私的介入が起きますと、不偏不党の立場が損なわれますので、憲法において独立的な職務遂行を明記されている裁判官ほどではないにせよ、独立性の要請は検察にも警察にも及ぶのです。もっとも、敢えて裁判所と検察、並びに、警察を区別するとすれば、後者は、一般の刑事事件においては被害者の立場、政治家等の汚職に対しては国民の立場、即ち、社会正義の側に立つ組織なのです(この点、司法制度の独立性は二重構造…)。

ところが、同法案では、延長期間の3年間は、毎年、政府によって可否が判断されるとしています。独立性を強く求められる公職は、通常、任期制を以って政治介入を防いでいます。予め任期が定められていれば、たとえ時の権力者の意に添わなくとも、そして、政権が交代したとしても、政治的な理由から解任することはできないからです(もしかしますと、与党側は政権交代に備えている?)。この点に鑑みましても、将来において現実に懸念通りの事態が起きるか否かは別としても、定年延長は、検察人事への政治的介入リスクを高めているとは言えましょう。

 それでは、何故、政府は、検察幹部の定年を延長しようとしたのでしょうか。メディア等では、黒川弘務東京高検検事長を時期検事総長の座に据えるためではないか、とする憶測が飛び交っております。もっとも、同法案の施行時には既に黒川氏は定年を迎えておりますので、この説は成り立たないそうです。しかしながら、何れにしましても、少なくとも従来の慣例からしますと検事総長職は長期化するということにはなりましょう’(本個所は、2020年5月16日18時56分修正しました。)。

  そして、ここで注目すべきは、検察庁法に記されている最高検察庁の長官である検事総長に関する規定です。法務大臣の指揮権について記した同法の第14条では、法務大臣は、検察官に対して‘一般に指揮監督する’ことができるとしつつ、‘個々の事件の取り調べ又は処分については、検事総長のみを指揮することができる’とあるからです。従来、検察への政治介入は法務大臣の指揮権発動の如何が論点となってきましたが、今般、政府の人事権がさらに強化されるとしますと(現行でも内閣が任免…)、検察への政治介入のルートが拡大することを意味しかねないのです。検察に対するチェック・アンド・バランスを考慮しましても、今般の制度改正は政治の方に傾いており、バランスが崩れそうに見えます。

 そして、WHOのテドロス事務総長の事例によっても示唆されるように、トップの腐敗は致命的な結果を組織全体に齎すことがあります(‘鯛は頭から腐る’…)。アクトン卿が‘権力は必ず腐敗する’と喝破したように、腐敗は権力の長期化、あるいは、独裁体制の宿命なのかもしれません。そして、今般の検事総長を含む検察高官の任期延長が、クリーンな政治の実現を責務とする検察組織の政治への従属を招くとしますと、国民にとりましては、将来の日本国に対する不安材料が増すことになります。しかも、検事総長のポストがWHOのように一部の海外勢力に乗っ取られますと、日本国の‘独立性’の危機ともなりかねません。

バランスを回復する、あるいは、検察の健全性を保つためには、国民による民主的チェックを制度化するといった方法も必要となるのですが、政治介入の問題について、より根本的な原因を探ってみますと、政治家に対するチェック体制の脆弱さにあるようにも思えます。詳細は後日に譲るとしましても、検察の機構改革を試みるならば、一般の刑事事件と政治家の汚職とを分けるといった工夫を要するのではないかと思うのです。

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中国のV字回復は絶望的では?

2020年05月15日 12時23分35秒 | 国際政治

 未だに世界各国が新型コロナウイスの脅威に直面している中、その発祥地である中国は一早く封鎖措置を解除し、習近平国家主席の掛け声の下で経済の正常化に邁進しています。V字回復どころか‘焼け太り’さえ目指すとされていますが、この目標、中国政府の思惑通りに達成できるのでしょうか。

 医療物資の買占めや輸出規制にも見られたように、今般のコロナ禍により、各国とも、自国経済が中国に依存するリスクを嫌と言うほどに思い知らされました。しかも、疑惑に満ちた武漢のウイルス研究所に対する国際調査を求めたオーストラリアに対して政治的な‘報復関税’を科すなど、正義を踏みにじろうとする悪辣な手法には誰もが嫌悪感を覚えることでしょう。中国の目に余る横暴ぶりからしますと、コロナ禍は、以前からその兆候のあった中国離れを加速化こそすれ、中国の野望の実現を援けるとは思えません。実際に、国内生産化やサプライチェーンの組み換えによる海外企業の中国脱出も始まっており、中国のV字回復には、早、黄信号が灯っています。

 実体経済において脱中国の傾向が強まる一方で、金融においても異変が生じつつあります。報道によりますと、アメリカの連邦職員の年金基金を運営するFRTIBは、中国の株式市場への投資を中止する旨を発表したそうです。同基金の中国株での運用は2018年に始まっていますので、投資額としてはそれ程までに大きくはないのでしょうが、この方針は、コロナ禍に関連して対中批判を強まるトランプ政権の意向を受けたものであることは確かなようです。言い換えますと、同基金の決定は、トランプ政権による対中投資の‘引き揚げ宣言’にも等しく、官民を含めた他の米系基金が追随すれば、雪崩を打つかのような中国の金融市場からの資金流出が引き起こされるかもしれないのです。

また、トランプ政権は、アメリカに上場している中国企業に対する調査も命じていますので、多額の対外債務を抱える中国企業の外貨調達手段も先細りが予測されます。加えて、中国は、コロナ禍の責任を追及される立場にあり、巨額の損害賠償を求められる可能性があります。中国が支払いに応じなくとも、在外中国資産が差し押さえられれば、中国経済へのダメージは計り知れません。中国に対しては、アメリカによる内外両面からの‘兵糧攻め’が迫りつつあり、中国のV字回復は、黄信号から赤信号に替わりつつあるようにも見えてきます。

中国政府の‘計画’では、コロナ禍によって暴落した海外企業の株式を安値で買占め、経済覇権へのステップとしようとしたのかもしれませんが、事態が逆転してしまう展開もあり得ます。オセロ・ゲーム(リバーシ)に例えれば、黒の石が一瞬にして白の石に替わってしまうかのように…。上海市場といった中国証券市場での連鎖的な株価暴落も予測され、仮にこうした事態に陥れば、中国における倒産件数が激増すると共に、中国企業が外資に根こそぎ買い取られるかもしれません(もっとも、証券市場の閉鎖や政府による株式買取など、中国政府が強権を以って対応する可能性も…)。その一方で、米資本が中国から国内に回帰するとなれば、乱調気味のニューヨーク証券株式市場も一息つくことができるでしょうし、還流資金がアメリカの国内生産への投資に向かえば、むしろアメリカ経済のV字回復も夢ではなくなります。

状況を見渡せば、中国は、他国に先んじたV字回復を狙うよりも、自国経済の崩壊を真剣に憂慮すべき局面に置かれているように思えます。そして、この問題は米中二国間に留まらず、当然に同盟国である日本国にも多大なる影響を与えることでしょう。GPIFについても、外資系金融機関に運営を委託していることから、間接的に中国株を運用している可能性もあるのですが、日本国政府も、コロナ禍の被害国、そして、アメリカの同盟国として、金融面での対中投資を見直すべき時なのではないかと思うのです。


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免疫証明書は感染証明書になる?

2020年05月14日 12時01分30秒 | 社会

 報道によりますと、WHOにあって緊急事態対応を統括しているマイケル・ライアン氏は、新型コロナウイルスが感染者の体内において消滅しない可能性について言及したそうです。おそらく、治療を受けて完治したように見えるケースであっても、‘チフスのメアリー’のようにウイルスが体内に潜んでいる可能性を指摘したのでしょう。

 ライアン氏は、敢えて類例としてHIV(ヒト免疫不全ウイルス)を挙げておりますので、新型コロナウイルスには、人の免疫システムを害する作用があることが、既に確認されているのかもしれません(本当に自然な変異なのでしょうか…)。この点、通常の風邪やインフルエンザ、そして、チフス菌よりも遥かに恐ろしい存在なのですが、仮に、同ウイルスがHIVに類似する性質を持っているとしますと、抗体・抗原の両面の検査において一時的にはパスしたとしても、その後も、自らが再発、あるいは、再感染するリスクがありますし、他者への感染力をも有していることとなります。実際に、同説が強く疑われる事例が多々報告されていますし、料理人として働いていた‘チフスのメアリー’は、自らは無症状であっても、その生涯において凡そ30人の人々を感染させたそうです。

 新型コロナウイルスの潜伏性を考慮しますと、免疫証明書システム(免疫パスポート)も見直しを要するかもしれません。現在、世界の多くの国々でその導入が検討されております同システムにおける証明書の発行には、経済・社会活動への参加資格を証明する役割が期待されています。‘パスポート’とも称されますように、同証明書を提示すれば、如何なる職にも就けますし、様々な社会活動にも加わることができるのです。病院で治療を受けた感染者のみならず、無自覚、あるいは、発症せずに軽度で回復した人も含め、抗体が体内に存在さえしていれば、証明書が発行されるのです。このコンセプトが基礎となってワクチンの開発が急がれている面もあるのですが、仮に、体内に抗体を産生し得たとしても、ウイルス自身が体内のどこかで潜伏しているのであれば、証明書の役割を果たすことはできなくなるからです。

 そして、免疫証明の保持者自身の再発や再感染のみならず、仮に他者への強度の感染力が認められるとしますと、免疫証明書の意味合いは180度逆転します。免疫証明書は経済・社会への参加資格を証明しましたが、潜在的な感染力が高い場合には、その逆に、隔離的、あるいは、制限的な措置を要する人々であることの証となってしまうからです。‘免疫証明書’は、‘感染証明書’になりかねないのです(回復者に対してどのように対応してゆくのかは、公衆衛生と人権保護との兼ね合いもあり、今後とも難しい課題に…)。

 もちろん、過去の事例が示しますように、WHOの見解が常に絶対に正しいわけでありませんし、同ウイルスの有毒性に関する全容が解明されるには、今後の研究や調査の結果を待つしかありません。しかしながら、少なくとも、同ウイルスの性質を正確に把握しないうちに、短絡的に新たな政策や制度を導入するのはあまりにも危険である、とは言えましょう。スウェーデンでは、集団免疫の獲得を政策方針として国民に自然感染を促したそうですが、仮に、同ウイルスが体内から消えないのであれば、悲惨な結末を迎えてしまいます。免疫証明システムについても、その意味あいは当初の期待とは正反対となる可能性があるのですから(ワクチン開発も同様…)、拙速な導入は避けるべきではないかと思うのです。

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9月入学は冷静に考えて―人材独占の問題

2020年05月13日 12時34分51秒 | 日本政治

 新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の発令は、教育の現場に混乱をもたらすと共に、教育環境の変化への速やかな対応を迫っています。初等教育から高等教育に至るまで遠隔授業の導入も広がり、教育空間が一変したと言っても過言ではありません。こうした流れにあって、俄かに浮上してきたのが9月入学論です。

 与党自民党内でも9月入学を検討するための特別のチームが設けられたとも報じられており、制度改正への動きは本格化してきています。萩生田光一文部科学相の弁によれば、「家庭で勉強できていないお子さんもいる。 学期を延ばし、時間を確保することで、これらの問題が解決できる」とのことであり、目的は、コロナ禍によって教育機会を得られなくなった子供たちの救済なのですが、同案の前には様々な問題は山積しているようです。

 そもそも9月までの間にコロナ禍が収束しているとは限りませんし、長期化を見越したとしても、オンライン教育が全国一律に整うとも思えません。政府の説明では教育格差の解消が目的なのですが、現実には、むしろ格差拡大を助長するとする批判も少なくないのです(既にオンラインで半年間高レベルの教育を受けている子供たちは、二重に学習する機会を得る…)。また、既に指摘されていますように、2020年9月に入学する学年のみが他の学年と比較して1.5倍の学生数となりますので、キャパシティーを越える学校も少なくないことでしょう。結局は、9月入学への変更では教育格差問題の解決には程遠く、むしろ、教育現場の混乱を助長させてしまうかもしれません。

 既存メディアが実施した世論調査の結果によれば、9月入学賛成派が反対派を上回っているようなのですが、ネット上に投稿されている一般の人々からの書き込み等を読みますと、賛成多数は怪しい限りです。上述した諸点に照らしましても、多くの人々が同改革を疑問視するのも頷けます。それにも拘らず、仮に政府が各方面からの反対を押し切ってまで9月入学を実現させたいとしますと、その理由は、別のところにあるのかもしれません。

その有力説は、‘グローバル・スタンダードに合わせる’というものです。かつては世界トップレベルを誇っていた日本の大学も、世界ランキングにおいては地盤沈下が著しく、年々、順位を下げる傾向にあります。その理由としてしばしば指摘されているのが、グローバル化への対応の遅れです。とりわけ、ランキングの評価ポイントとしての比重の高い外国人留学生数や教員数が日本の大学では少ないため、全体的には低評価とならざるを得ないからです。政府としては、日本の大学のグローバル評価を上げるためには、ランキング上位大学を擁するアメリカやイギリスと入学時期を合わせる方が望ましいと考えたのでしょう。この目的に対しては、グローバル化の流れの中で経営の海外展開を進めてきた企業の多くも後押ししているかもしれません。

 しかしながら、この裏面の目的にも、表面の教育格差解消と同様に結果が目的の真逆になる可能性があります。その理由は、日本国政府は、留学生や外国人教員の増加ばかりに気をとられ、自国の人材の海外流出については殆ど留意していないからです。既に成績トップクラスの日本人学生が海外の有名大学に入学する事例が増加しているそうですが、米中ともに9月入学ですので、日本国が同月入学に移行すれば、この傾向にさらに拍車がかかることでしょう。そして、海外の大学への入学や留学を選択した学生たちは、必ずしも日本企業に就職するとは限らず、海外のグローバル企業に職を得る可能性が高いのです。否、もしかしますと、裏の裏の目的は、教育格差の是正や日本の大学の上位ランキング入りではなく、米英等の著名大学、並びに、海外IT大手等への日本人人材の提供にあるのかもしれません。

日本人が世界を舞台にして活躍するのですから、それはそれで歓迎すべきことなのでしょう。しかしながら、入学時期がグローバルレベルで画一化されますと、アメリカや中国の大学やグローバル企業に全世界の諸国から優秀な人材が集中し、人材市場における所謂‘独占’や‘寡占’の問題が生じます。規模に優る大国が国境を越えて人材を独占するとしますと、日本国を含めた他の中小規模の諸国は逆立ちしても敵わなくなるのです。この結果、日本国の大学はさらにランクを落とし、かつ、人材を失った日本経済も衰退を余儀なくされるかもしれません。あるいは、日本の大学はグローバル基準ではランキングの順位を上げても、実力においては下げるかもしれず、‘グローバル化’すればするほどに事態は悪化するかもしれないのです。

9月入学への移行の背後には‘人材の独占’問題が潜んでいるとしますと、公平・公正な競争秩序を維持する役割を担う競争政策、即ち、独占禁止の観点からの判断も必要なように思えます。一般の製品やサービス市場では企業分割等で対応しますが、人材については同様の措置をとれませんので、敢えて‘非関税障壁’を残すという方法もあるはずです。つまり、4月という米中とは異なる入学時期を維持することで、人材流出に一定の歯止めをかけるのです。

日本国政府は、たとえ自国の人材が海外に流出しても、人口大国である中印や途上国から呼び寄せればよいと考えているかもしれませんが、特に途上国にとりましては日本国への人材流出となり、発展の阻害要因となりかねません。人類の調和的な発展のためには、人材の一極集中、あるいは、二極集中は望ましいはずもなく、国境を越えた人の移動に対する制限的な措置も是認されるのではないでしょうか。行き過ぎたグローバリズムの弊害が認識される今日、仮に9月入学が‘グローバル・スタンダード’への移行を目的とするならば、日本国政府は、周回遅れとなるのではないかと危惧するのです。

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検察庁法改正問題には民主的チェックが必要では?

2020年05月12日 12時48分41秒 | 日本政治

国会での検察庁法改正案の採決を間近に控え、SNS等を介して珍しくも日本の芸能界の人々が積極的に反対を表明したためか、コロナ禍の最中にあっても検察庁改正法案の問題が関心を呼んでいます。野党側も修正案を準備するなど、国会は、与野党が激しく火花を散らすバトルの場ともなりそうです。

 今般の法案における改正点を読んでみますと、同法案に対して多くの人々が不安を抱く理由は理解に難くはありません。同法が改正されれば、検事総長は、法務大臣が必要と認める場合には、人事院の承認を条件としつつも、一年ごとに定年を最大で3年間延長することができるようになるからです(理論上は特例的に68歳まで検事総長を務められる…)。近現代国家の制度上の基本原則である司法の独立の観点に照らしますと、政治機関の一つである政府が司法機関に対する人事権を強めることになりますので、同法の改正には司法の独立性を侵害しかねないリスクがあるのです。司法の独立は国民の自由や権利を護る砦ともなりますので、野党側が「政権による恣意的な検察人事が可能になる」とし、検察による政府に対する‘忖度’を懸念するのも故なきことではないのです。

 しかも、検察人事については、閣議決定によって黒川弘務東京高検検事長の定年が延長された際に違法の疑いがもたれており、‘後付け’の法改正との指摘もあります。また、近年に至り、自公政権が、権力分立を頑なに否定してきた中国に急速に接近している様子を目の当たりにしますと、日本国の国制も集権型に変質するのではないかとする懸念もないわけではありません。時期が時期だけに、同法案には国民の警戒心を呼び覚ますだけの要素が揃っているのです。

 司法の独立なきところに国民の自由がないことは、中国の体制をみれば一目瞭然ですが、その一方で、司法の独立にも盲点があります。それは、同機関を完全に他の諸機関から切り離して独立させてしまいますと、独裁体制と同様に権力の内部腐敗や暴走が容易に起きてしまう点です。しかも、内部昇進システムを介して同権力が特定の勢力に掌握されてしまう事態ともなれば、司法の独立は、内部から侵食されてしまいます(権力の乗っ取りや私物化…)。実際に、同法案を支持する側にも、次期検事総長に政治的に左派寄りの人物の就任が予定されていたとする反論があります。野党勢力の反発や法改正反対派も、表向きは司法の独立の擁護ではあっても、もしかしますと政治的な思惑が隠れているかもしれず、司法の独立性は、必ずしも中立・公平性と同義ではないのです。

こうした独立性に伴うリスクを抑えるために、近現代の国家では、権力の性質に応じた分立のみならず、統治の諸機関が相互に他の機関をチェックするチェック・アンド・バランスの仕組みを組み込んでいます。司法機関の独立性を制度的に尊重しつつも、放任とならないよう、政府や議会といった政治機関が一定の制御的な役割を果たしているのです。内閣による最高裁判所長官の指名や国会の裁判官に対する弾劾裁判権等もこの文脈で理解されます。検事総長の人事につきましても、チェック・アンド・バランスの観点からの法改正支持もあり得ないわけではないのです。

 以上に述べたことから、司法機関とは、‘独立性が保障されなければならない一方で、完全には独立させてはならないという’極めて微妙なバランスの上に成り立っていることが分かります。それでは、今般の検察庁法の改正については、どのように対応すべきなのでしょうか。

法改正の主たる目的は、検事総長職の長期化にあるようにも思われます。与党側が長期化に拘る理由は定かではないのですが(仮に、現与党が野党に転落すれば、同職の長期化はブーメランになりかねない…)、政府と検察の二者だけの間で同問題を解決しようとしますとデッドロックに陥ってしまいます。そこで考えるべきは、これらの二者以外にチェックの権限を与える手法です。

検察に対しては、今日では検察審査会が設置されており、裁判員制度と並んで一部であれ国民参加が実現しています。その一方で、人事面おける民主的チェック制度は皆無に等しく、最高裁判所の判事に対する国民審査といった制度は、検察人事にはありません。そこでまず考えられるのは、検事総長の任期が長期化し、かつ、国民から見て明らかに政治的な中立性からの逸脱が生じた場合に解任できる制度を設けることです。例えば、最高裁判所に倣って国民審査に付すとか、検事総長に対するリコールの制度を導入するといった方法もありましょう。また、国会に検事総長に対する弾劾裁判権を認めるといった方法もありますが、議院内閣制の下ではチェック機能は十分には果たせないかもしれません。なお、こうした制度改革は、裁判員制度が憲法改正を経ずして導入されたように、通常の立法措置でも実現する可能性はありましょう。

上記の案の他にも、検事総長の政治的・思想的スタンスの開示など、アイディアを募れば様々な方法があり得るはずです。何れにしましても、忘れてはならないのは、検察という組織は、警察や裁判所と並んで国民の基本的な権利と自由を護り、国家をクリーンに保つ役割を果たしているということです。司法機関の中立・公平性なくして法の前の平等も健全な政治もあり得ないのですから。この点を踏まえれば、国民に対する使命と責任を検察がより誠実に果たし得る方向への改革こそ望ましく、日本国は、今般の法案の成立如何に拘わらず、今後とも検察制度の発展に取り組んでゆくべきではないかと思うのです。


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新型コロナウイルスとコンピューター・ウイルス

2020年05月11日 10時04分05秒 | 国際政治

 未知のウイルスである新型コロナウイルスのパンデミック化により、どの国にあっても国民の最大の関心事は同ウイルス問題となりました。感染者数、死亡者数、政府の対策、勤務先への影響等から日常のお買い物まで、コロナ情報なくしては過ごすことができません。治療方法もワクチンも確立しておらず、人々の不安は募るばかりなのですが、著名人の中には積極的な支援に名乗りを上げる人も現れるようになりました。巨額の支援金拠出を以ってコロナ禍の‘救世主’の役割を買って出た人物の一人に、マイクロソフト社の創始者であるビル・ゲイツ氏がおります。

 同氏は、ビル&メリンダ財団を設立し、以前から途上国等でワクチン普及活動に取り組んでいる慈善家でもあります。医療体制の不備から命を落としてきた多くの子供たちを感染症から救っているのですから、同氏の活動内容自体は誰もが認めるところなのでしょう。しかしながら、その一方で、同氏に対しては疑問を呈する向きもあり、必ずしも称賛一辺倒ではありません。それでは、何故、私財を投げうち、ボランティア精神でワクチン普及にかくも献身しながら、同氏は、人々から疑いの眼差しを向けられているのでしょうか。

 まずもってその理由となるのは、ネット上で散見される陰謀論です。かつては胡散臭い響きがあった陰謀論も、今日では、中国が誰にでも分かるような露骨な陰謀をめぐらすため、公然の秘密、否、歴史的事実として検証すべき対象と化した感があります。また、近年の科学的調査によって過去の陰謀が暴かれるケースもありますし、歴史上の謎や未解決事件の多くも陰謀の存在証明と言っても過言ではありません。このため、同氏をめぐる陰謀論も無碍には否定できず、真偽不明のビル・ゲイツ陰謀論を信じる人も少なくないのです。

流布されている陰謀論とは、同氏が接種を遂行しているワクチンには、人類の監視とコントロールを目的としたミクロ(micro:マイクロ)チップが含まれているというものです。つまり、ワクチン接種の真の目的は感染症の予防ではなく、感染病の人為的拡大による人口削減計画をも伴う人類の家畜化であるというのですから、誰もが眉をしかめてしまいます。既に、体内埋め込み式のチップは開発されていますし、現在のナノテクノロジーのレベルを以ってすれば、ワクチンへの混入もあり得ます。この説に従えば、今般の新型コロナウイルス禍も、親中派とされる同氏が一枚噛んでいるとする推測も成り立つのです(コロナ禍で最も‘得’をしたのは、この機に徹底したIT型国民監視体制を広げたい中国政府、並びに、GAFAMや中国IT大手とも…)。

そして、このストーリーは、もう一つのウイルス問題をも思い起こさせます。それは、コンピューター・ウイルスの問題です。同問題についても有力な陰謀説があり、今日、多くの人々を悩ませているウイルスは、ハッカーといった犯罪集団によるものではなく、実のところ、マイクロソフト社といったIT大手が意図的に拡散させているというものです。その目的は、パソコン等のコンピュータへのウイルス感染リスクがあれば、誰もが感染防止のためのソフトを購入したり、‘防疫サービス’に頼らざるを得なくなるからです。つまり、コンピューター・ウイルス問題は、ビジネスのためのマッチポンプであるというのです。

この説についても真偽は分からないのですが、ビル・ゲイツ氏は、仮想空間で行われてきたコンピューター・ウイルスの散布から発想を得て、現実の世界におけるワクチン接種活動を思いついたのかもしれません。そして、仮にその真の目的が、人々の命を救うという表向きの目的とは真逆にあるとすれば、全世界の人々は、ワクチンの強制接種化の流れには用心しなければならないということになりましょう。あるいは、真にビル・ゲイツ氏に人類を救おうとする善意があるならば、本業に返り、未だに誰も実現していない、いかなるコンピューター・ウイルスに対しても強力な免疫作用を発揮するコンピューター・ワクチンを開発すべきなのではないでしょうか(マッチポンプであれば、ワクチンを開発しなくとも解決されるかもしれない…)。

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イタリアの‘五つ星運動’とは‘五星紅旗’であったのでは?

2020年05月10日 13時12分02秒 | 国際政治

 今般の新型コロナウイルス禍にあって、発祥地である中国以外の国で最初に大規模な感染拡大が起きたのは、地球の凡そ裏側に当たるイタリアでした。中国から遠く離れたイタリアにおいて死亡者3万人を越える惨事に至った理由は、しばしばイタリアと中国との間の密接な関係に求められています。他のG7やEU諸国が二の足を踏む中、中国の習近平国家主席が提唱してきた一帯一路構想に関して最初に協力の覚書を締結したが、イタリアであったからです。

 それでは、イタリアは、何故、かくも危険な中国接近を選択したのでしょうか。イタリアと中国との関係は、おそらくヴェネチアとモンゴル帝国との関係に遡ることができるかもしれません。ヴェネチアと言えば‘水の都’とも称され、今日ではイタリア屈指の観光地として知られていますが、19世紀のイタリア王国を軸として統一されるまで独立した共和国として栄えてきました。地中海貿易をはじめ全世界に通商網を広げ、十字軍遠征に際して兵站を担った政商国家でもあり、続く13世紀には、ユーラシア大陸の覇者となったモンゴル帝国から特別な商業利権を得ています。シェークスピアが描いた利益のためには人の命を何とも思わないユダヤ商人の姿は、当時、異教徒とも手を組み、モンゴル軍による捕虜の奴隷売買をも請け負っていたヴェネチア商人の狡猾で強欲なイメージを重ねているのかもしれません。

 中国が一帯一路構想という名の‘現代のモンゴル帝国’の建設に乗り出している今日、真っ先に中国との関係に名乗りを上げたイタリアに、過去の歴史における両国の関係を思い起こさせるのですが、中世にあってヨーロッパの人口を激減させたペスト禍も、モンゴル軍の来襲がきかっけともなりました。今日の様子は、あたかも現代と過去が二重写しになっているかのようなのです。そして、イタリアと中国との関係強化を進めた時期にあって、連立とはいえ政権与党の座にあった政党が、五つ星運動であった点を考慮しますと、この五つ星、中国の国旗デザインである五星紅旗に因んでいるのではないかとする疑いも生じてくるのです。

 イタリアの五つ星運動の5つの星は、「水、エネルギー、開発、交通、環境」を表す一方で、中国の五星紅旗は、大きな星が共産党であり、その周りに配された小さな4つの星は、労働者、農民、小資産階級・愛国的資本家、知識人の4つの階層を表現しているそうです。両者のデザイン上のコンセプトは全く異なるのですが、両者の間にはどこか親和性が見受けられるように思えます。

2018年3月の総選挙で躍進し、結党から10年も経ずして政権与党となった五つ星運動は、日本国内では‘ポピュリスト政党’として紹介されており、ポピュリスト=極右、あるいは、連立相手の同盟のイメージに引き摺られて右派に属する政党と見なされがちです。しかしながら、2018年3月にジュセッペ・コンテ氏を首相として成立したいわゆる‘ポピュリスト政権’は、右派の連合と左派の五つ星運動との間の奇妙な連立政権であり、五つ星運動は、反資本主義や反政党政治等を党是とする‘左派のポピュリスト’なのです。左右両極とも結局は全体主義という側面においては共通していると言えましょう。このように考えますと、イタリアにおいて、突如として政治の表舞台に躍り出た五つ星運動の背景こそ、調べてみるべきかもしれません。

イタリアの事例が示すように、自由主義国にあって‘ポピュリスト’と称される政党は、右派であれ左派であれ、むしろ共産主義との間に高い親和性を示しているように思えます。中国の一帯一路構想への協力も、‘ポピュリスト’が必ずしも自国の独立性や自国民の安全を第一には考えてはいない証なのかもしれません。ナチスもまた、結果だけを見れば、国民を奈落の底に突き落としています。そして、政権与党の自民党と公明党の両政党が共に親中に傾く日本国にあっても、保守の仮面を被った全体主義化のリスクには大いに警戒すべきなのではないかと思うのです。東方にあって元寇の再来とならないように。


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武漢ウイルス研究所と武漢生鮮市場の同時捜査は不可避

2020年05月09日 13時12分55秒 | 国際政治

 新型コロナウイルス禍によるマイナス影響が経済のみならず、社会全体にも広がる中、同ウイルスの発生源をめぐる論争もヒートアップしています。主たる対立軸はアメリカが主張する武漢研究所起源説と中国が唱える武漢海鮮市場起源説にあるのですが、第三の説として中国外交部の趙立堅副報道局長が仄めかした米軍起源説も燻っています。

 中国の武漢に設置されていた諸ウイルス研究所のレベルや過去の研究内容など(レベル4のウイルス研究所もあり、有毒ウイルスの遺伝子操作も行われていた…)、同ウイルスを取り巻く状況証拠からしますと、武漢研究所起源説が最も有力な説です。実際に、中国で実施された民間世論調査でさえ凡そ7割が同説を支持しており、同様の設問があれば、日本国を含む他の諸国の世論調査でも、国民の大多数が武漢研究所起源説を支持することでしょう。

とは申しますものの、状況証拠では限りなく‘黒’であっても、決め手となる証拠がなければ有罪に追い込むことができません。‘疑わしきは罰せず’となり、事件は迷宮入りともなりかねないのです。この点、今日の状況は、中国側に有利とも言えます。何故ならば、アメリカ側に決定的な証拠を握らせないようにすれば、自らの無罪を証明するに至らずとも、公的機関による意図的散布、あるいは、過失に因る漏洩の責任を負わなくとも済むからです。中国は、初期段階での行為怠慢の責任からは逃れられないものの(アメリカは、既に動かぬ証拠のあるパンデミック化責任を責めるべきかもしれない…)、少なくともウイルス研究所からの流出でなければ、罪は一段軽くなると期待しているのでしょう。

しかも、嫌疑をかけられているウイルス研究所は中国の管理下にあります。同研究所爆破説が信憑性をもって流布されたように、半年もあれば、研究所内に残されていたあらゆる証拠を隠滅したり、責任者や研究員に口裏を合わせるように圧力をかける、あるいは、‘処分’してしまうこともできます。こうした中国側の不審な隠蔽工作こそ武漢研究所起源説の補強材料となるのですが、初期段階おいて中国側が、アメリカからの同研究所への調査団受け入れ要求、並びに、WHOの派遣団による現地調査を拒んだのは紛れもない事実です。

それでは、ウイルスの起源をめぐる論争は、米中間の水掛け論に終わってしまうのでしょうか。同ウイルス禍の真相究明は、全ての諸国が当事者となる国際社会の重大事件です。真相が藪の中のままともなれば、米中のみならず何れの国も納得しないことでしょう。否、国際社会には同事件を解決する責任があるとも言えますので、こうした局面においてこそ、国際協力が求められるともいえましょう。そして、ここで注目されるのは、オーストラリアによる武漢の研究所に対する国際調査団の派遣案、並びに、WHOによる武漢生鮮市場の調査要求です。

前者については、現状ではオーストラリア政府一国による提案ですが、中立的、かつ、独立的な調査団を派遣すべきとする声は、同国に限ったわけではないそうです。否、コロナ禍に見舞われた凡そ全ての人類が望んでいる解決手続き上のステップと言っても過言ではありません。全世界の人々には、自らに関わる重大事件の真実を知る権利があるのですから。今のところ、中国は、オーストラリアの調査団受け入れ要求を拒絶しておりますが、同国一国ではなく、有志の諸国、あるいは、国連安保理や総会等にあって調査団派遣の提案がなされれば、中国と雖も無視を決め込むわけにはいかなくなるはずです(受け入れ拒絶は、自らの疑惑を立証するようなもの…)。なお、国際世論の圧力にも期待したいところなでなのですが、マスメディアにはチャイナマネーの影響もありますので効果の程には不安があります。

その一方で、WHOの専門家であるピーター・ベン・エンバレク博士が、武漢生鮮市場に対する追加調査の必要性について言及したと報じられています。仮に、同博士の発言がテドロス事務局長の意向を受けてのものであれば、追加調査の実施組織は中国政府となり、真相解明は望み薄です。おそらく、中国に対して‘カバー・ストーリー’を実現させる時間とチャンスを与えるに過ぎなくなることでしょう。一方で、科学的見地からの真相究明を目的としたものであり、かつ、調査団の中立性と独立性が保障されるとすれば、同調査は、起源論争に決着をつける可能性があります。同博士は、調査の結果、「発生源だったのか、感染が拡大した場所だったのか、それともたまたま一部の症例が市場や周辺で確認されたのか」が判明すると期待していますが、これらの三つの疑問は、冒頭で述べた三つの説と凡そ対応するからです。

同市場で取引されていたとされるコウモリ等の野生動物から同種のウイルスが検出されれば、武漢生鮮市場起源説を裏付ける証拠となりましょうし、その一方で、同市場では宿り主となる野生動物は見つからず、‘感染が拡大した場所’であることが判明すれば、同ウイルスは、武漢のウイルス研究所を含む外部から生鮮市場に意図的に持ち込まれた可能性が格段に高まります。そして、‘たまたま一部の症状が市場や周辺で確認された場所’であれば、武漢研究所起源説に加えて、米軍起源説を含む他の諸国で既に発生していたウイルス性肺炎が、偶然、武漢で発見されたとする説を補強することとなりましょう。もっとも厳正なる調査の過程にあって、海外から持ち込まれた有毒ウイルスに武漢のウイルス研究所が遺伝子改変を施し(コロナ前にあって中国人研究者によるウイルス窃盗事件が頻発していた…)、武漢市内に流出させたという、三つの説を組み合わせたような予想外の新説が登場してくる可能性もないわけではありません。

以上に述べたことから、新型コロナウイルス禍の真相を明らかにするためには、武漢のウイルス研究所と武漢海鮮市場の両者の捜査や調査が不可欠のように思われます。前者の研究所にあって既に証拠が隠滅されていたとしても、今日の科学技術を以てすれば、復元できる証拠もあるはずです。日本国政府を含め、各国政府は、国際協力の下で中国に対して調査団の受け入れを強く要求してゆく必要がありましょう。ただし、その実施機関のスタンスによっては‘政治的な結論’に科学を装った‘もっともらしい根拠、’すなわち‘カバー・ストーリー’を与えてしまうリスクもありますので、全世界が真相を知るためには、これらの調査には極めてハイレベルの透明性が必要とされましょう。中国にとりましても、両者の調査は自国に対する嫌疑を晴らすチャンスともなるのですから、中国政府が同要求を受け入れるのかどうか、その態度が注目されるところなのです。

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不可解な在米中国人研究者の死

2020年05月08日 12時24分21秒 | 国際政治

 コロナウイルス禍の収束の見通しが立たない中、アメリカでは、不可解な事件が発生しています。それは、ピッツバーグ大学助教であり、新型コロナウイルスの研究に取り組んでいたビン・リウ氏が自宅で射殺されたというものです。時期が時期だけに、同事件の背景には、同ウイルス禍の真相にも関わる重大な‘何か’が潜んでいるようにも思えます。

 同氏を殺害した犯人と目される男性も、自動車の中で死亡しているのが発見されています。犯人に関する詳しい情報は公表を控えたものの、現地の警察は、リウ助教の‘知り合い’と推定しつつ、「リウ助教が中国人だったことを理由に狙われた痕跡はない」と説明しています。この短いコメントから読み取れることは、記事タイトルでは‘無理心中’とも表現されているように、リウ助教を射殺したのも中国人であり、両者の間には抜き差しならない関係があったというものです。

 とりわけ同事件で注目されるのは、リウ助教のコンピューター&システム生物学部の同僚が「新型コロナウイルス感染の根底にある細胞の仕組みと、続く合併症の細胞基盤について、解明に向けた非常に重要な発見をする間近だった」と述べ、同氏の死を悼んでいる点です。そしてこの言葉から推測される殺害動機は、同研究の完成妨害、あるいは、研究成果の公表阻止にあったのではないか、というものです。新型コロナウイルスに関する重大事項の封印こそ、同氏の命を奪ってまで犯人の動機と推測されるのです。

 ここに、幾つかの推理が成り立ちます。何故ならば、同発見の内容によっては、不利になる者が違ってくるからです。もっとも、誰もが疑うのが、同氏と出身国である中国政府との関係です。目下、米中間では新型コロナウイルスの起源をめぐる対立が激化しており、同氏もその渦中に身を置いていた可能性もあります。

 仮に、同研究が新型コロナウイルス人工説、あるいは、武漢研究所起源説を裏付ける内容であったとしますと、中国政府は、同氏をマフィアの如く‘生かしては置かない’と決意するかもしれません。在外中国人の中には本国政府の下で工作活動を行っている人も交じっていますので、上記の‘知り合い’が工作員であれば、同氏の自宅を訪問して射殺することは決して難しくはありません(もっとも、‘知り合い’もまた口封じのために別の工作員に殺害された可能性も…)。自国に不利となる証拠をアメリカに捉まれたくない中国は、証拠隠滅を図った可能性も否定はできないのです。

あるいは、科学者として誠実であったが故に本国の犯罪を図らずも立証してしまった、あるいは、現中国の体制に批判的であったが故に本国の犯罪を積極的に立証しようとした同氏に対して、中国共産党への忠誠を誓ってきた‘知り合い’が殺害したとする説もあり得ましょう。在米中国人も一枚岩ではなく、同氏の殺害事件は、政府の責任をめぐって本国でもその兆候が見られるという、中国国民の間での分裂と対立、すなわち、体制派対反体制派の対立を象徴しているのかもしれません(自由主義国であるアメリカおいて表面化…)。そして、中国共産党の残忍さからすれば、同氏の殺害は、中国政府による在外中国人に対する一種の‘見せしめ’であったのかもしれないのです。

その一方で、リウ氏によるコロナウイルス研究が今に始まったのではないとしますと、新型コロナウイルス禍の責任の一端は同氏にもあるのかもしれません。同ウイルスの遺伝子が人為的操作されているとすれば、同氏もまた、新型コロナウイルの生みの親の一人であるか可能性もあり得るからです(密かに、武漢の研究所にピッツバーグ大学での研究成果を流していた…)。この推理では、アメリカをはじめとした被害国や一般の被害者からの報復も動機としてはあり得るのですが、中国政府による証拠隠滅のための‘口封じ’であるとも考えられます。

 また、仮に、同氏の研究が新型コロナウイルスに対する特効薬の登場を意味するならば、別の犯人像も浮かんできます。それは、新型コロナウイルス禍を早期に収束させたくない国や国際勢力、あるいは、千載一遇のビジネスチャンスを失った製薬会社等です。前者の裏には、同ウイルス禍が全世界の諸国の経済を疲弊させる中で、自国の支配力を伸ばそうとする野望が伺われるのですが、このケースでの‘容疑者’も、やはり中国、並びに、同国を支える国際勢力となりましょう(一般の民間企業が‘暗殺’を企てるとは思えないので、後者の可能性は低いのでは…)。

 同事件では謎が謎を呼びそうな気配がしますし、上述した説の他にも様々な推理があり得ます。今後、捜査が進むについて様々な事実が明るみとなり、事件の全容がおぼろげながら見えてくるのかもしれません。リウ助教の同僚が同氏の研究を‘完成させると約束’しているそうですので、その際には、やがては公表されることとなる研究内容の詳細が同事件の謎を解くカギとなるのでしょう。

もっとも、最近の報道によれば、強硬姿勢で臨んできたポンペイオ米国務長官がいささかトーンダウンしてきており、武漢研究所説について‘確信はもてない’と述べるに至っています。米中両国政府が共に自然発生説に傾いているとしますと(‘カバー・ストーリ―’造りでは協力?)、同事件、否、新型コロナウイルスのパンデミック化の裏に国境を超えた国際組織が暗躍している可能性についても推理の一つに加えて然るべきようにも思えるのです。


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フェイクニュースと推理は違う―武漢研究所起源説

2020年05月07日 13時12分33秒 | 国際政治

 新型コロナウイルス感染症のパンデミック化は、甚大なる経済的被害を受けた諸国が中国に対して損害賠償の請求を検討するに至り、あたかも法廷闘争の観を呈するようになりました。国際法廷を想像してみますと、被告席には主犯格の中国、並びに、共犯の嫌疑をかけられているWHOが憮然とした顔つきで座り、武漢生鮮市場起源説を口角泡を飛ばして主張する一方で(あるいは米軍起源説?)、原告席には、武漢研究所起源説を唱えるアメリカのドナルド・トランプ大統領が、眼光鋭く被告席を睨みつけている様子が目に浮かびます。

 おそらく‘裁判’の行方は、アメリカ側が証拠を提示することができるか、否かにかかっているのでしょう(もっとも、賠償責任については、中国政府のWHOの規約違反、並びに、法律上の怠慢行為のみで立証可能…)。実際に、トランプ大統領がポンペオ国務長官共々に‘証拠はある’と公言する一方で(武漢ウイルス研究所の研究員が亡命したとの真偽不明の情報も…)、対する中国側は、記者会見に臨んだ外務省の華春瑩報道局長が‘証拠はない’と述べて強く反発しています。本来の司法手続きであれば、中立的な国際機関が捜査を行い、国際司法機関が裁くべきなのですが、現在の国際司法システムのレベルからしますと、当事国双方の合意を要するためICJといった国際司法機関が同訴訟を扱うことは難しく、また、常設仲裁裁判所にあっても当の中国が南シナ海問題の判決を破り捨てたぐらいですから、強制捜査のハードルは相当に高いのが現状です。となりますと、アメリカ国内の裁判所において両国が火花を散らす舞台となるのでしょう(もっとも、中国は応訴しないかもしれない…)。

 かくして、新型コロナウイルスの問題は、国際社会において万人が注目する大事件に発展したのですが、‘法廷闘争化’は、少なくともこれまでのところは、国際紛争の解決の仕方としては、あり得るシナリオの内で最も望ましい方法であったように思えます。同ウイルスの人工説については科学技術が証明し得ますが、人の行為が介在する‘起源’を明らかにするには、事実のみを丹念に拾い、証拠を集め、何処に、誰の、どのような意志が働いていたのか、あるいは、過失があったのかを確認しなければならないからです。この作業を経てこそ、新型コロナウイルスのパンデミック化に際して、どの国、あるいは、誰に罪と責任があったのかを人々が明確に知ることができます。言い換えますと、米中両国が証拠の有無を争う現状は、人々が、暴力、威嚇、詐術等といった不正な手段ではなく、事実と証拠に基づいた解決こそ全人類を納得する方法である、と中国でさえ見なしている証でもあるのです。

 そして、今日の状況を可能としたのが、言論の自由であったことに思い至りますと、少なくとも真偽が不明な段階にあっては、如何に怪しげな情報であっても、フェイクニュースと決めつけはならないという教訓を残しているように思えます。ネット上などで武漢研究所説が拡散し始めた当初、NHKをはじめメディアの多くは同説をフェイクニュース扱いし、同ニュースに言及した人々を無責任な流言飛語を飛ばす半ば‘犯罪者’のように扱っておりました。しかしながら、この時、武漢研究所説がネットを含む全ての言論空間から全て削除され、中国政府が公認した説のみが‘トゥルーニュース’として事実化されていたとしたら、真相究明や責任追及は永遠に不可能となったことでしょう。

 一般の刑事事件であっても、最初から事件の全容が分かっているわけではなく、刑事であれ、探偵であれ、先ずは、入手した証言や証拠、そして、事件に関わる全ての人々の立場や状況等から真相をあれやおれやと推理するものです。もちろん、最初から推理が一つのはずもなく、捜査の過程で事実に反するものはふるい落とされ、あらゆる観点から見て最も矛盾がなく、かつ、証拠とも一致する説に絞り込まれてゆくのです。この間、世間一般でも様々な推理や憶測が飛び交うことでしょうし、一般の人々からも事件の解明に繋がる重要な情報が寄せられることもあるかもしれません。

健全な社会とは、人々が自由闊達に推理し、それをめぐって議論しあえる社会であり、ましてや新型コロナウイルス禍は全人類が事件の被害者、即ち、当事者でもあります。つまり、事件の真相を探るプロセスにおける自由な推理や意見発信は、むしお当然の権利とも言えましょう。このように考えますと、政府であれ、メディアであれ、推理を以ってフェイクニュースと断定して排除する姿勢は、真相解明を阻害する妨害行為に他ならないのではないかと思うのです。そして、中国政府が、真っ先に情報隠蔽に走った事実に鑑みますと、この‘法廷’、実現の如何に拘わらず、多くの人々がアメリカの勝訴を予測しているのではないでしょうか。


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免疫証明書制度はワクチン接種への導火線?

2020年05月06日 13時07分36秒 | 国際政治

 イギリスをはじめ、米欧諸国では、新型コロナウイルス禍によって停止を余儀なくされてきた経済活動を再開させるために、免疫証明書の制度(免疫パスポートども…)が提案されているそうです。同制度は、抗体検査によって抗体の保持が確認された人に対し、免疫を有するとする証明書を発行するというものです。運転免許証が交付されれば道路での自動車の運転が許可されるのと同様に、免疫証明書を得ることができれば、その人は、経済活動への復帰が許されると共に自由な社会生活を送ることもできるようになるのです。

 免疫証明書制度については、感染リスクを低減すると共に、経済活動の早期再開を実現する切り札として期待する声が聞こえる一方で、この案には、どこか奇妙な点があります。それは、同制度にあって想定されているウイルス検査は抗体検査であることです。つまり、抗体の有無が経済・社会生活復帰への絶対条件として設定されているのです。

 しかしながら、抗体保有を保障する証明書を持つ人でなければ外部での経済、並びに、社会活動に参加できないとなりますと、奇妙で理不尽な事態が発生するかもしれません。既に懸念の声が上がっておりますように、仕事に就きたいがために、すなわち、証明書を得たいがために自発的に新型コロナウイルスに感染しようとする人が現れることも予測されます。自発的感染が増加すれば当然に重症化も増加し、医療崩壊を招きかねない状況となりましょう。しかも、同制度の下では、同ウイルスに感染していない健康な人でも証明書がなければ自宅に籠るしかなくなるってしまうのです。

最近、各国で実施された抗体調査の結果では、最も感染が深刻であったニューヨーク市でさえ抗体陽性率は24.7%であり、比較的低レベルに感染拡大を抑えてきた日本国に至っては数パーセントに過ぎないようです。集団免疫路線を選択したスウェーデンでも、首都ストックホルムでの陽性率はニューヨーク市と同程度の凡そ25%程度です。つまり、何れの国でも非感染者の方が圧倒的な多数ですので、同制度の下では、健康な人々が外出を禁じられる一方で、免疫証明を受けた少数の人々のみで経済を動かさざるを得なくなる事態も予測されるのです。もちろん、事務的な職種ではテレワーク等の形態での勤務もあり得るものの、同制度の導入は、労働人口の大幅な減少を意味します。

免疫証明書を得られる人の数が極めて少数であるとしますと、同路線を選択すれば、当然に‘ワクチンの開発と接種を急ごう’とする声が高まることとなりましょう。ワクチン開発に首尾よく成功すれば、大多数の人々が抗体を得ることができるからです。しかしながら、ワクチンの開発技術が進んだ今日にあってもHIVやインフルエンザ・ワクチンの効果が限定的であることが示すように、変異性の高いRNA型、並びに、免疫細胞にダメージを与えるタイプのウイルスに対する効果的なワクチンの開発には難航が予測されています。BCGのような免疫力そのものを活性化させるワクチンやコロナウイルス全般に効果を有するユニバーサル・ワクチンもあり得るものの(もっとも、免疫力強化はサイトカインストームのリスクと紙一重らしい…)、早急なワクチン開発が難しいとしますと、治療薬や治療方法の開発に重点を移す方が現実に即した合意的な判断のように思えます。しかしながら、国際社会の流れを見ますと、ワクチン接種を何としても推進したいワクチン圧力なるものが存在しているようなのです。

その理由は、新型コロナウイルス禍をワクチン・ビジネスのチャンスとしたい人々が手ぐすねを引いて待っているからなのでしょう。本日の日経新聞朝刊の記事によりますと(第3面)、WHOの要請を受ける形で、EU主催の国際会議がベルギーのブリュッセルで開かれたそうです(中国も参加しているので、WHOというよりも中国の意向が働いているかもしれない…)。40か国が参加した同会議では、治療薬やワクチン開発を支援するために総計で凡そ8500憶円の拠出が表明され、日本国も同額の凡そ10%、即ち、850憶円程度を負担するそうです(因みに、新型コロナウイルス被害の責任国であるはずの中国はわずか1.6%程度…)。一先ずは治療薬の開発も支援対象に上がってはいるのですが、ここで注目すべきは、同会議には、近年、ワクチン接種運動に熱心に取り組んでいるビル&メリンダ財団も参加していた点です。

WHOはチャイナ・マネーに篭絡されたとの批判を浴びていますが、大口の出資者となる同財団の意向を無視するとは思えません。つまり、全世界の諸国にあってワクチン接種へと誘導すべく、同財団が国際会議を舞台に積極的なロビー活動を仕掛けている可能性も否定はできないのです。そして、ワクチン・ビジネスは、抗体の保有を外部活動の条件とする免疫証明書制度の導入とセットとなっているとも推測されるのです。つい先日まで、WHOの立場は、免疫証明書について否定的でしたが、今後は、今般の会議を機に態度を変えるかもしれません。

免疫証明制度については、そもそも、屋外で活動したり、他の人々と対面で交流するに際して公的な証明書を必要とする社会でもよいのか、とする根本的な批判もあります(職業選択や営業の自由を大幅に制限してしまう…)。また、非感染者の方が多数であるならば、抗体検査ではなくPRC等の抗原検査によって陰性の証明を得た人に対し、免疫証明書ならぬ‘非感染証明書’を発行した方が経済へのマイナス影響をより低いレベルに抑えることができるはずです。加えて、免疫証明の議論における主たる関心の対象が免疫力、即ち、自らが感染するか否かにあり、他者への感染の有無を問う感染力については軽視されがちなところも、どこか自己中心的な発想のようにも感じられるのです(ワクチンを接種しても、感染力を有する可能性があるため?)。ワクチンをめぐる危うい現状を考慮しますと、政治的圧力、並びに、あらゆる民間のビジネス利権を廃してこそ、最も合理的で効果が高く、多くの人々が納得する対コロナウイルス対策に辿り着くことがきるのではないかと思うのです。


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‘ドラえもんになろう’では?‐危機の時代の教育

2020年05月05日 09時53分26秒 | 社会

 本日5月5日は子供の日であり、例年であれば、全国各地の行楽地では親子連れで賑わうはずなのですが、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために、多くの家庭では外出を自粛しております。この日を心待ちにしていた子供たちにとりましては退屈な一日となりそうなのですが、子供たちの心情を汲んでか、朝日新聞朝刊には‘のび太になろう’というメッセージが掲載されたそうです。

 ‘のび太になろう’に込められた意図は、「いっしょうけんめいにのんびりしよう」という言葉からしますと、‘行きたいところへも行けず、家にいてつまらないかもしれないけれど、病気を広げないためには我慢しようね’ということなのでしょう。多くの人々のことを慮って我慢するという体験は、子供たちにとりましては貴重な学びのチャンスとなりますし、思いやりの心を育てることでしょう。同メッセージの教育効果は認めるところなのですが、危機的な現状にあって、ことさらに‘のんびり’のみを薦めてもよいものかどうか、いささか疑問を感じてしまうのです。

 と申しますのは、非常事態宣言がなされ、外出や営業の自粛が求められるのは、戦後生まれが圧倒的な多数を占める今日にあって、自由の制限という意味においても、大人たちにとってさえ、これまでにない未知の危機的経験です。政府も感染防止を考慮した‘新しい生活様式’を提唱しており、コロナ後にあっても社会的な変化は不可避ともされています。アメリカでは、観光業や航空業などBEACHと総称される職種は存続の危機に見舞われるとの予測もあり、いわば、大人であれ子供であれ、誰もが重大な転換期を生きているとも言えましょう。

 こうした時代状況に照らして‘子供の日’を考えてみますと、危機に立ち向かう精神力やサバイバル能力を鍛えるような、より積極的な過ごし方があってもよいように思えるのです。人々を感染病から救うにはどうしたらよいのか、どのような工夫をすれば感染を防ぐことができるのか、危機に直面した場合、どのようにすれば生き残れるのか、あるいは、人々は、どのように協力すべきか、などなど、大人も子供の一緒になって考えるべき課題は尽きません。ゲームや遊びの要素も加えれば、子供たちも夢中になってアイディアを競うことでしょう(如何なる状況下にあっても柔軟な心を持ち続け、楽しみを見つけることを学ぶ機会ともなる…)。こうした中で、将来おいてなりたい職業を見い出したり、新たな仕事を思いつくかもしれません。あるいは、善き未来への扉を開くようなテクノロジーを生み出すヒントが頭に浮かぶとしたら、子供たちの行く先は決して暗くはないはずです。

 今日が一生に一度あるかないかの危機、あるいは、転換期であればこそ、学べることや学ぶべきこともあるはずです。このように考えますと、のび太君よりもお腹のポケットから様々な‘ひみつの道具’を取り出してのび太君を助けるドラえもんのほうが、少なくともそのポジティヴなキャラクターからすれば時期に即しているかもしれません。‘のび太になろう’ではなく、‘ドラえもんになろう’という呼び掛けもあったはずなのです。

 戦後、長らく日本国では平穏な時代が続き、‘平和ボケ’とも称されてきましたが、突如として襲来したコロナ禍は、日常というものが如何に脆いものであるのか知らしめることとなりました。今年は、戦後にあって怠ってきた危機対応、危機管理、サバイバル、そして創意工夫の精神を育む教育のスタートの年ともなることを期待したいと思うのです。


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AIは‘嘘’を見抜くことができるのか?

2020年05月04日 12時23分28秒 | 国際政治

 ディープラーニングの登場を機に急速な発展を遂げたAI。今日、コロナ禍を踏み台にして、活躍の場をさらに広げそうな勢いです。人と人との接触はウイルス感染のリスクを高めますので、低感染社会を実現するために、人類は、ロボットと並んで機械であるAIに頼らざるを得ないかもしれないからです。

 とは申しますものの、AIがあらゆる問題に対して人以上の能力を発揮するとも思えません。大量データをも瞬時に解析するAIといえども万能ではありませんので、転ばぬ先の杖としてその限界について知っておくことは、AIの適切な利用対象や範囲を見出すためにも基礎的な作業ともなりましょう。そこで、AIの限界を見極めるに当たって、‘AIは嘘を見抜くことができるのか’という真偽判別の能力を問うてみたいと思います。

 同問題を提起する理由は、今日の政治の世界は‘嘘’に塗れているからです。先日、NHKは、アメリカのケネディー大統領暗殺事件に関する番組を放送しておりました。一部CIA犯行説を軸として作成された同番組の中で特に強く印象に残ったのは、元CIA高官が述べた‘カバー・ストーリー’という言葉です。情報機関は、時にして大衆に対しては虚偽のストーリーを‘事実’として語り(事実らしく見せるために様々工作も実行…)、真の目的と実際に起きた出来事はその裏側に隠している、という意味です。ウォーレン委員会はオズワルド単独犯説を政治的な結論としたものの、全世界の人々が、今なおも同委員会の報告書を以って事件が解決されたとは見なさず、未解決事件の一つに数える理由は、政治の世界には‘嘘’がまかり通っている事実があるからに他なりません。

 そして、今般の新型コロナウイルス禍に際しましても、政治を舞台とした‘嘘’によって、全人類に想像を絶する災難が降りかかることとなりました。中国、並びに、その下部組織と化したWHOによる誤った情報発信が同ウイルスのパンデミック化の原因となり、国境を超えたウイルスの拡散を助長してしまったからです。その後も中国は、米軍起源説を唱えるなど、自らの責任を回避するための‘カバー・ストーリー’造りに勤しむのですが、過去の見解との間に齟齬や矛盾も生じ(当初の見解は野生動物起源説であった…)、さらに疑惑を深める結果ともなったのです。

 結局、この一件で中国は信用を落とし、誰もが中国発の情報を疑うようになったのですが、それでは、AIは、こうした情報の真偽を的確に判断することができるのでしょうか。AIについては、あらゆる感情や利害関係から中立的であるために、政治分野での利用も取沙汰されています。人ではなく、AIが判断すれば、政治的忖度の一斉を廃して感染症のパンデミック化を上手に防ぐことができるのでしょうか。

 この問いかけは、AIによる判断の正確さは、インプットされたデータの正確さに比例するという側面に注目すれば、自ずと答えを得ることができます。データの取捨選択や入力の作業は基本的には人によって行われますので、判断材料となる情報を外部からの入力に依存するAIは、それがたとえ虚偽の情報であったとしても、これを自らの意志で拒絶することができないのです。客観的な観察によって得られる科学的なデータとは異なり、特に人の意志が介在する政治の分野では、データの内容には主観が入り込みます。入力データに一つでも虚偽が混じっていれば、AIの判断は当てにならないのです。今般の感染症のケースであれば、中国やWHO発の情報をそのままインプットすれば、AIも判断を誤ることでしょう。たとえ中国がAI技術において世界のトップクラスの地位を得たとしても、同国が世界に誇るその最先端のAIは、インプットされた情報の問題によって、中国共産党の主観的な見解しか語らない、という非科学的な現象が起きてしまうのです。

 それでは、虚偽の情報のインプットを拒絶し得るAIを作り出すことはできるのでしょうか。この作業をし得るAIが存在するとすれば、それは、全宇宙の全てを見通すことができる神の領域に達したAIの登場を意味します。すなわち、情報の真偽を判断するAI側が、インプット者による情報の恣意的な取捨選択や偽情報のインプットを無視して、真偽判断対象に関わる事柄にかかわるすべての正確な事実・情報を完全に知り得るようになって初めて、当該AIは、虚偽の情報を拒絶できるようになるからです。

地球に限定したとしても、各国の情報機関は先史時代から今日に至るまでの全人類に関する情報を掴んでいるわけではない点を考えますと、そこには自ずと限界があるのであり、自己へフィードバックによってAIが人類を超える知的存在に進化するとするシンギュラリティ―の概念も、虚偽の事実の混入という問題が壁となってその実現が阻まれるか、あるいは、フィードバック過程における虚偽の増幅によりあらぬ方向に‘進化(退化?)’するかもしれません。

 以上に述べたように、人によって作られた虚偽の情報は、AIにとりましては致命的な意味を持つことになりそうです。もっとも、人であっても、AIであっても、情報の正確さが判断の的確さを支えるという点にあっては違いはありません。AIが普及するにつれ、人々が情報の正確さの重要性に目覚め、事実に基づく情報をより強く求めるようになるとすれば、それは、人々が正常な判断を誤る原因として嘘を嫌い、虚偽の情報を排除してゆく一つのきっかけとなるのではないかと思うのです。


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緊急事態宣言は‘両刃の剣’

2020年05月03日 13時36分44秒 | 日本政治

 本日、5月3日は憲法記念日です。日本国憲法が施行されてから凡そ73年の間、日本国では、一度たりとも憲法を改正することはありませんでした。そして今日、政府が新型コロナウイルス禍への対応に追われる中、憲法改正への機運も萎みがちのように見受けられます。報道によりますと、安倍晋三首相も年内での憲法改正は早々と断念した模様です。その一方で、新型コロナウイルス禍は、憲法改正問題に新たな論点を加えたように思えます。

 現行憲法制定以来、改憲と言えば第九条が最大の争点とされてきました。‘九条を護ろう’が左派を中心とした改憲反対勢力のいわば‘合言葉’であり、改憲は第九条の改正と凡そ同義とされてきたのです。日本政治にあって第九条は左右両派が火花を散らす主戦場であり、他の条項については然程には関心を持たれずに今日に至ったと言えましょう。実際に、自民党が作成した憲法改正案は第九に限定されています。

 改憲の議論が第九条に集中する一方で、今般、コロナ対策の強化を目的に改正された新型インフルエンザ等対策特別措置法では、感染症の拡大予防に目的を限定して首相に緊急事態宣言を発令する権限を付与することとなりました。同法の施行を受け、安倍首相も法的根拠を以って緊急事態宣言を発しています。同宣言は一か月程の延長が検討されているそうですが、これを機に、首相による緊急事態宣言の発令権限を憲法上の一般的な権限として設けるべきか、否か、という問題が、憲法改正の論点として急浮上してきたのです。

 全世界の諸国の憲法を見渡してみますと、緊急事態や非常事態の宣言、あるいは、戒厳令の発令権自体はとりわけ珍しいわけではなく、大統領や首相といった執政機関にあっては一般的な権限の一つとして記されています。何故ならば、如何なる国も、戦争や災害など、自国並びに全国民の命運にかかわる重大な危機に直面するものであり、こうした危機に際しては、国民の基本的な自由や権利を否が応でも制限せざるを得なくなる場合があるからです。この側面は、自由主義国でも全体主義国でも変わりはなく、古典的な権限ともいえましょう(なお、旧憲法となる明治憲法の第一四条には「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」とあり、同権限は、憲法上、天皇の専権として定められていたようです)。

 もっとも、有事に際して政府が国民の行動を強制的に律することとなるため、現代の国家では、発令権の行使に際して一定の制限を設ける傾向にあります。安全装置を設けませんと権力の暴走を制御できず、最悪の場合には、有事に限定されていたはずの非常事態が平時にあって常態化し、軍事独裁主義体制へと移行するリスクがあるからです。実際に、非常事態宣言や戒厳令が長期化した事例は枚挙に遑がなく、合法的な権力の独占を目指す政治家、もしくは、勢力の国権掌握手段として利用されてきた忌まわしい歴史もあるのです。因みに、古代ローマでは、戦時・有事に際してのみ特別に設けられる独裁官の任期を、独裁制の成立を防ぐために1年間に限定しておりました(ユリウス・カエサルは、共和制にあって設けられてきたこの任期制限を終身制とし、さらに、自らが王位に就くことで常態化しようとして暗殺された…)。

 緊急事態宣言の来し方を振り返りますと、同宣言の権限が‘両刃の剣’であることが分かります。有事に際しては国家と国民を秩序だって護る働きをする一方で、平時に悪用されますと、国家が私物化されると共に、国民は政府の徹底した管理下に置かれかねないからです。今日の先端的なIT技術を用いれば、中国政府が試みているように、『1984年』をも凌ぐ監視社会が出現し、国民は‘目に見えない檻’に閉じ込められてしまうかもしれません。

 そして、日本国の現状においていささか気にかかるのは、緊急事態宣言発令の最中にあって、学校の9月はじまりなど、本来、時間をかけた国民的な議論を要する改革が急がれている点です。言い換えますと、緊急事態宣言が、民主的な手続きをスキップする手段として利用される兆候も見受けられるのです。また、人の能力の限界を考えれば、大統領や首相に対して最適の判断を常に期待するにも無理がありましょう。加えて、今般の新型コロナウイルスの感染拡大防止に際しては、中国等への政治的配慮が初動における失敗を招いたのですから、首相の権限が強化されたとしても、有事に際して必ずしも国民の命が最優先にされる保証は何処にもありません。

今後、憲法の改正条項として緊急事態宣言に関する議論が本格化するのでしょうが、その際には、同宣言が両刃の剣である点を深く理解し、まずは、日本国の自由で民主的な体制を損なうことなく同宣言の本来の役割が発揮されるよう、制御面からの制度設計が必要となりましょう。あるいは、同宣言の両面性を考慮し、固定概念を廃して日本発の統治制度上のイノヴェーションを起こすのも一案かもしれないと思うのです。


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日本国が新型コロナウイルス対中賠償を請求すべき理由

2020年05月02日 11時46分58秒 | 国際政治

 報道によりますと、武漢発の新型コロナウイルスのパンデミック化を受けて、各国では、中国に対して損害賠償を求める動きが広がっているそうです。これまでのところ、アメリカをはじめ、イギリス、イタリア、ドイツ、エジプト、インド、ナイジェリア、並びに、オーストラリアの国名が挙げられています。

 新型コロナ禍による世界経済に与えたダメージは甚大であり、IMFも、1929年に起きた‘大恐慌以来、最悪の不況を経験する可能性が高い’と述べ、今年の経済成長率も、年初のプラス3%予測からマイナス3.3%へと大幅に下方修正しています。全世界の諸国が被った損害分を全て中国が賠償するとなりますと、その額は、第一次世界大戦後にドイツに課せられた数字をも上回り、人類史上最大の賠償額を記録することとなりましょう。実際に、上記の8か国だけでも合計凡そ5300兆円となり、米ミズーリ州の訴訟を合わせますと1京円を超えるというのですから、まさしく天文学的な額です。

 それでは、各国の対中賠償請求が本格化してくる中、日本国政府は、どのような方針で臨むのでしょうか。日本国もまた、新型コロナウイルス禍の紛れもない被害国の一つです。既に同ウイルス対策を主たる目的とする2020年度補正予算が成立しており、その額は凡そ25兆6900億円に上ります。コロナ禍が発生しなければ不要な支出ですので、こうした国家の対策費は、対中賠償請求額に含めることができるかもしれません。因みに、東京オリンピックが中止となった場合の損失額だけでも、凡そ17.8兆円と試算されています。官民合わせた諸々の損失を含めますと、総額で50兆円を遥かに越えることでしょう。そして、非常事態宣言の期間が長引くほどにその額も積み増してゆくものと予測されるのです。

 新型コロナウイルスのパンデミック化の責任は、封じ込め可能な発生初期段階において重大な情報を隠蔽し、かつ、自国からの全面的な出国禁止措置(ウイルスの封じ込め措置)を怠った中国にありますので、日本国は、他の諸国と同様に中国に対して賠償を請求し得る正当な根拠を有しています。むしろ、賠償請求を見送る理由こそ見当たらないのです。

 しかしながら、国内のマスメディアの論調などを見ますと、海外での賠償請求の動きに関する報道は抑え気味であり、どこか自国とは関係のない‘よその国の出来事’のように報じています。日本国政府も、対中賠償請求問題については表立っては言及しておらず、普段は政府批判に終始している野党も沈黙を守っています。日本国内の消極的な姿勢の背景には、おそらく、自公連立政権の内部にあって主導権を握っている親中派の意向、即ち、中国からの‘強い要望’があるのでしょう。公共放送局であるNHKの社屋に中国電視台が入居しているぐらいですから、日本国のマスメディアの大半は、中国、あるいは、中国をも陰で操る国際組織のコントロール下にあるのかもしれません。賠償問題に関するオープンな報道や議論が中国からの圧力によって‘自粛’させられている状況からしますと、日本国政府がまたしても中国に‘忖度’し、国民の多くが泣き寝入りを強いられる可能性もないわけではありません。仮に、全世界の諸国が中国に賠償を請求するにも拘わらず、日本国一国だけが‘請求権’を放棄すれば、日本国民の多くは納得しないはずです。

現状では、今後の見通しは決して明るくはないのですが、ここで原点に返り、善き国際社会への貢献という側面から賠償請求の問題を捉えてみる必要があるように思えます。何故ならば、日本国政府による中国の犯罪的行為の黙認は、深刻なモラルハザードを意味するからです。国際社会における中国の無責任な‘反社会的行為’を放免しますと、将来に渡って何度となく同じ悲劇が繰り返されることとなりましょう。つまり、損害賠償を含め、同国の責任を厳しく問うことは、国際社会にあって法の支配を確立することに他ならないのです(主権平等の原則の下で全ての諸国が等しく国際ルールを護り、誠実に責任を果たしてゆく国際社会…)。

安倍政権は、その成立以来、常々、国際社会に向かって法の支配を強調してきたのですから、今般にあっても同原則を貫くべきなのではないでしょうか。そして、日本国が、大国の横暴を許さない公正で公平な国際社会の実現を志すならば、先ずは日本国の政界やメディア等における中国、並びに、その背後組織の影響力を排除してゆくべきなのではないかと思うのです。

コメント (2)
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