「この冬いつか詩を読んでなさるのを 聞きましたっけが ―― テニスン の詩でしたかな。 あれを暗誦出来なさるなら、 もう1度聞かせて欲しいですわい」 吹き入る潮風を2人は受けながら、 アンは静かな澄んだ声で テニスン の素晴らしい 最後の詩 ―― 『境界を越えて』 ―― の美しい詩を暗誦した。 老船長は筋張った手でそっと拍子を合わせていた。 【「アンの夢の家」 第35章】 |
今日も蝉の啼き声で目覚めました。
けたたましい啼き声ですが、それこそ全身全霊をかけて啼いている姿には、
“今を生きる” そのもののような気がして胸を打たれます。
この蝉こそ、何年もの間、地中で過ごし、漸(ようや)く脱皮して啼けるように
なっても僅か数日しか生きられないのですものね。
恥ずかしい事に私などは、全身全霊からは遥か遠い所にいます。
全身全霊は無理としても、せめてひたむきさは失いたくないものです。
【「境界(砂州)を越えて」 ~テニスン・英文】
さて、今日から8月。
私はブログを始めたのが8月という事もあり、
この季節は特別に感慨深いものがあります。
同時に私のバイブル的存在である、『赤毛のアン』(全10巻)も読み直してみたり。
それが名作の名作たる所以(ゆえん)なのでしょうが、読む年齢によっても
着眼点が違うものですから、いつも新しい発見があります。
今日は詩にスポットを当ててみました。
引用文もそうですが、『アンの世界』 では、
生活に詩が入り込んでいるのが良く分かります。
普段の会話に テニスン や ミルトン などが当たり前のように出て来る・・。
随分、高尚だな・・と思いながら、その昔、日本でも万葉集などに始まって、
例えば乃木大将の詩など・・詩を詠む事が一般的だった時代に思いを馳せます。
最後に。こちらは、ジム船長が感じ入ったという、
テニスンの詩(日本語訳)です。今年は津波や何やかやで海の印象が強烈ですものね。
砂州を越えて~辞世の詩 A・テニスン 陽は沈み夜空には星 澄んだ声がわたしを呼ぶ! わたしが海へ踏み出すとき 砂州に呻きのないことを。 果てのない深みより寄せ来る波が 再び元へ戻るとき、 潮は満ちて音も泡もなく 眠るような動きであってほしい。 黄昏と晩鐘の響き その後は暗い闇 ! わたしが船出するとき 別れの悲しみのないように。 時と処の境を超えて 流れがわたしを彼方へ運ぼうとも わたしが砂州を越えるとき 案内人に顔を合わせたい。 |
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