寝室の窓から見える
軒の氷柱(つらら)が
陽光と青空に映え
美しかった。
英語では、
「Ice sord」とでも言うのか
ググッてみたら、
「 icicle」(アイスィクゥ)という
単語になっていた。
*
明日まで
「私的六連休」だが、
今朝は頭痛で目覚め、
仕方なく、鎮痛剤を呑んだ。
クスリが効いたとみえて、
治ったような感じだが、
これから、また、
工房にこもって
ルネッサンスギターの
製作の続きをするつもりである。
新しく導入した電動工具類も
毎日のように役立ってくれ、
そのたんびに、
(楽になったなぁ・・・)
と買った甲斐を感じている。
そしたら、
カード請求書が届いて、
来月頭には7万ほど
ごっそりと落とされる・・・。
年金証書も昨日、
やっと届いたが、
予想はしていたが、
驚くほどに少額で、
私学共済と国民年金を合算しても
「9万弱/月」である。
40年も毎月払って、
「年金未納者」の
生活保護費の13万/月に満たない
というのは、なんとも
社会矛盾を感じてならない。
しかも、昨今では、
在留外国人にも補助や
手当を支給しているというから、
棄民政策もいい加減にしろやい、
である。
ここは、やはり、
健康を維持して、
75歳の定年まで勤め上げて、
貯蓄を増やしつつ、
副業にも精出そうと
思わさせられた(笑)。
*
古楽器製作の過程で、
端材が沢山でるので、
学校に持ち込んでは、
「箱庭療法」の一つの
抽象的アイテムとしている。
生徒が手に取って使ってくれると、
嬉しく感じるが、
抽象性が高い為か、
高IQ群が有意に選択する。
*
『マクロー・オー・シノワーゼ』
(鯖の中華風・ヌイユ添え)
というルセット(レシピ)で
ひと皿をドレッセしてみた。
酢豚の技法で、
鯖に片栗粉を付けから揚げ、
それに黒酢で甘酢を絡ませた。
カボチャの裏ごしソースに
マヨネーズを生クリームで伸ばし
中華麺に絡めてみた。
あとは、
柚子やらピンクペッパーやら、
タイム、バジルを
トッピングした。
フレンチの“酢鯖”は
なかなか白ワインに合うものだった(笑)。
*
ソーちゃんが
『AMD』のCMに出てるので、
自分の新調したPCも
同社の『ライゼン』のCPUにした。
このシリーズは
『スレッドリッパー』というのが、
最上級モデルだが、
その最新のものは、
100万を超すから、驚きだ。
ソーちゃんは、
それを提供されたというから、
彼が研究に使ってる『将棋ソフト』は
世界最速になっていることだろう。
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YouTubeで見た
〈我々の魂は
肉体という桎梏に繋がれ、
この地球という場のみで
永遠に輪廻転生を繰り返す〉
という
ネガティヴな命題について、
昨日からずっと考えている。
・・・なるほど、
釈尊はそれ故に在る
「四苦八苦」から解脱し
涅槃に入るのを
究極の目標と示した。
「仏陀」とは
「目覚めた人」
という意味である。
最近、YouTubeの
スピリチュアル系サイトでは、
さかんに、「アセンション」
(ascension)という語が
持て囃されている。
これは、
「昇天」という意味でもあるが、
この3次元世界から更に
上位の次元に移行する
という意味でもある。
「意識=魂」は、
常に、「今、ここ」で
「存在=being」し、
何かを「する=doing」。
今生においては、
それに、記憶という
経験の集積した「意識」もある。
それは、既に
「してしまった」
「経験してしまった」
事象の痕跡である。
スピ系エピソードには、
「前世を記憶する人」
というのが居て、
客観的な調査でも
その正確性・妥当性が
認められている。
だが、一般には、
輪廻転生するたびに、
人の記憶はリセットされ、
「タブラ・サラ」(白紙状態)で
生まれてくる。
その意味を考えてみると、
ネガティヴな解釈では、
新たな「四苦八苦」を体験する為、
あるいは、体験させられる為、
となる。
リフレーミング(思い替え)して
ポジティヴな解釈をすると、
前世の体験に左右されない、
影響されない、
新たな人生という作品を創るための
「真っ新なキャンバス」を獲得する、
あるいは、与えられる、
と取れない事もない。
卑近な例えで言えば、
和食、中華、フレンチ・・・と、
いろんな「味の体験」を
一回の生ごとに味わえる、
と言えないでもない。
ASD系の発達障害の
保護者への心理教育で、
「ワン・タイム・ワン・シング」
という言葉をよく使う。
「いちどきに、ひとつのことのみ」
という意味である。
我われは、
前を見ている時は、
同時に、後ろを見ることはできない。
意識も同じで、
Aの事を考えている時は、
同時にBの事を考える事はできない。
ここにおいても、
常に「今、ここ」で
情報を処理できるのは、
ひとつだけである。
**
ない物ねだり・・・
とは低次元の欲求かもだが、
その発想で思考実験してみると・・・、
我われの「意識体=魂=神」は
「無変化の定常状態」の「無」で
永遠に留まり
「何も始まらない/何も終わらない」
とならなかったのは、
「変化=無常=存在と経験」
という事の方を
結果として「よし」として、
選択した結果であろう。
そして、
肉体を持たない「意識体存在」が
「魂」の本来の姿、
「神」とイコールのものとするなら、
その時空を超越した
「融通無碍性」「自由自在性」が故に、
また、「無限の記憶を保持する」が故に、
かえって、その対極の「不自由さ」と
「一回性」「制限」
「縛り」「ルール化」に依る
「ゲーム性」をあえて設定したと
考えてみると面白い。