『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

「ワンタイム・ワンシング」 (一時・一事)

2024-10-09 07:05:27 | 魂理学


きのうも、
予約JCが欠席したので、
生徒指導委員会のみで、
残り5時間は空いてしまった。

閑職というか
窓際族というか・・・(笑)。

ほいでも、
きちんと給与は貰えるので
申し訳なく思う。

\(_ _)

口さがのない
親しい先生からは、
クライエントの居ない日は
ボロ儲けですね、
と言われた事もある(笑)。

そういう時は
「カウンセラーと乞食は
三日やったら、やめられまへんなぁ・・・」
とか、
「カウンセラーと
保健室が暇なのは
エエ学校いうこってすわ」
なぞと
嘯いたりもしているぞなもし(笑)。

 



先日も
空き時間の有効活用法について
一考したばかりだが、やはり、
勉強と研究に充てるのが
至当であろうと
思いを改めたばかりである。

カラダには
あちこちガタが来ているし、
残り寿命もそう長くはなさそうなので、
本当に知りたい事の究明のため
時間を費やそうとは思っている。

仕事がらみでは、
臨床に役立つ新知見も
も少しは学び得たい。

「臨床・教育・研究」
の三本柱でいえば、
若い世代への指導・教育も
自分たち世代の責務である。

つい最近も、
養護教諭の方々に
経験知を伝授する機会が
幾度かあった。

不思議と
四十代へのそれが多いが、
その世代は、
高校教諭時代、最後の担任をした
世代でもある。

三十年の月日を経て、
得た学識や経験知を
その中堅世代へ伝授することが
最後の教育的なご奉公なのかもしれない。





きのうは、
届いたばかりの
ジャーナル(学会誌)に
目を通しながらも
カウンセリング室のソファで
毛布にくるまっていたら(笑)
カラダが温もるにつれて
首凝りと怠さが取れるのに気付いた。

外気温は18℃だったので、
エアコンの「自動」設定が
今季初の「暖房」を稼働させ、
室内はポカポカと23℃になっていた。

猛暑日続きだったこの夏。
35℃の外気温を
室内では23℃まで下げて
「涼しい~!!」
と、涼を感じていたのに、
同じ温度でも
「温か~い!!」
と感ずるのだから、
ヒトの感覚なぞ
いい加減なものである(笑)。



そいで、
「冷え」が自律神経失調症の
原因にもなってたんだなぁ・・・と、
実感させられた。

体内のすべての
生化学反応を媒介する
生体酵素の最適活性温度は
37℃付近である、
とは誰しも高校の『生物』で
習うことである。

また、それを
生物教師として
教えもしてきた。

だからこその
温浴効果や温泉効果が
療治的に効くのも道理である。

なので、ゆんべからは
厚手の冬用パジャマに
毛布にタオルケットを重ねて
寝てみた。

そしたら、
1時間ほどして目が覚め、
全身ビッショリの汗だくになり(笑)
下着からびしょ濡れになった・・・。

そんなにも寝汗をかたのも
久しぶりだった。

これで、新陳代謝が亢進し
スッキリしてくれれば
幸いだったのだが・・・。
今朝は更にぐっと冷え込み
17℃にもなっていたので、
凝り・めまい感が再燃した。

きょうはオフ日なので、
久しぶりに
名人に「揉み療治」をしてもらいに
出向こうかと考えている。

***

先日、11巻までを
まとめ買いした
『のぶ』を再読して、
ハートウォーミングな佳い作品だ
と再認識させられた。

レンタルで一読した時は
さほどでもなかったが、
再読で熟読玩味してみると
優れた創作物は
味わい深さを増す事にも気付いた。

これは、落語にも言える事で、
噺の筋は知っていても、
その語り口や登場人物たちの
活き活きとした様子は
繰り返し聞いても
味わいを感ずるのである。

もっとも、これは、
名人上手の語りに限るが・・・。

***
***


「私性」=「自意識」
という不可思議な現象を
「今、ここ」で刻々、体験している。

きのうは、
重い通勤鞄を携えて
雨上がりの地面を歩みながら
玄関に向かっている途中、
「ワンタイム・ワンシング」
(一時・一事)
というキーワードが
脳裏に浮かんだ。

そして、
何故に、私は貴方を体験し得ないのか・・・
という、命題にたち戻り、
今は私を生きているからだ、
という内なる応えに
納得したりもした。

そう。
今、お気に入りの
モーツァルトのCDを聴いてる時に、
同様に、お気に入りの
バッハのCDがあっても、
それは、一時に両方は
「楽しめない」のである。

物理的に、同時に、
鳴らす事は可能だが、
主体である「私」は
それを「心地よく」は
体験出来ないのである。

その喩えが、
「ワンタイム・ワンシング」
(一時・一事)
と結び付き
得心がいった。

無人の山中で
朽ち木が倒木しても、
そこに「聴き手」という
聴覚を備えた「主体」が
存在しなければ、
『音』は感知されない。

そこに在るのは
物理的な空気の振動のみである。

それでも、
倒木という現象は
「主体」なくしても
存在し得る「客体」的な現象である。

もっとも、
視認し得る観測者なしでは、
現象は可視化し得るのか・・・
という、量子力学的な
問題も生ずるが・・・。

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最強言霊力「そしじ」

2024-09-24 06:48:45 | 魂理学

今朝方、うれしい事に
はじめてソーちゃんの夢を見た。

町内旅行で
同じバスに乗り合わせ、
まだ中学生くらいの彼が
外でハシャイでいるので
「変顔して~!」
とお願いすると
それに応じてくれ
喜んで写真を撮っている(笑)。

ついでに、幼い息子を
抱いてもらってる処を撮ったら
格好のブログネタになるなぁ・・・と、
考えたりもしていたが、
それは叶わなかった。

目覚め後に
気持ちがホンワカしてたので、
これは風邪が病みあがる
兆候かなと思ったくらいである。

現に、ここ数日では、
不調感がない寝起きだった。

なので、今日からは
勤務に就けそうである。

 



食事も、
昨日までは、術後一週間だったので
推奨食をやっていたが、
今日からは通常食に戻そうと思う。

納豆や揚げ物は禁忌になっていたが、
忌避すべき合理的理由が解らないので、
食べていた・・・(笑)。

今日からは
また、質素な手作りベント持ちである。


*

自宅療養中には
音楽も聴いた。

久しぶりに
声楽曲が聴きたくなり、
ラ・リューの『レクイエム』は
なかなかに心に浸みた。

シュッツも佳かった。

*

首を左に傾けると
クラッと眩暈感があるので、
どうやら、鍼名人の牧野先生から
教わった脳底動脈周辺の凝りで
血管か神経が圧迫されるのだと思い、
元同僚のQちゃんからおせーてもらった
貼り付け圧迫する短針のパッチを
カミさんに首筋に貼ってもらった。

そのせいか、
今朝方は、大分と具合がいい。

こういう
西洋医学では対処できない
諸症状には東洋医学的な
鍼灸が奏効するのは有難いものである。


**

YouTubeでの
『哲学』講座で、
歴史学博士のモーガン先生の
日本語による明晰な
西洋哲学史について学んだ。

高校の倫社では
習った事のない人物も多く登場し、
デモクリトスが
マテリアズム(物質主義)の
元祖だということを初めて知った。



*

超天才のヒマリちゃんの凄さを
ヴァイオリニストが分析している
サイトもあり、
どこがスゴイかを列挙して
実演をまじえて解説していたのは
解りやすかった。

ヴァイオリンの音色の変化
といわれても、
ギターほどには
明瞭に判らないのが正直な処である。

音楽にずぶの素人の母親なぞは
ギターとピアノの音の区別ができない、
とよく言っていたが、
そんなものだろうか・・・。

*

YouTubeサーフィンをしてると
それこそセレンディピティで、
思いもかけぬ情報が
飛び込んできたりするから
雑学マニアには便利な
アイテムである。

きのうも
「そしじ」なる漢字が
かつて存在したが、
その強力な言霊性を忌避した
GHQが「廃字」という
異例の命令を下したという。

異常と思われた
特攻隊に苦しめられた米軍が、
そのスピリットの基となった
神道系の精神性を
徹底的に排除しようと
努めたのだろう。

結果・・・
敗戦国日本は
爾来、アメリカナイズ、
ウェスタナイズされ、
今日、身の回りを見回しても
純日本的なアイテムは
ほとんど目に付かなくなってしまった。

洋服しかり・・・
車しかり・・・
PCからスマホ、etc・・・。

80年代まで
人民服を着ていた中国も
今や洋服に変わり果てている。

唯一日本らしきは、
縦字の書籍と
箸と茶碗と味噌汁くらいか・・・。

なので、
この「そしじ」を
書室で多く臨書して
職場や寝室・玄関など
あちこちに額装しておこうと
思いついた。

健康が回復、維持され、
性根も逞しくなる・・・
というから
これほど有難い言霊パワーもなかろう。



***

12/1に2年ぶりに
上洛予定なので、
久しぶりに修学旅行で
ちょいちょい行ってるカミさんから
『るるぶ』を借りて、
三泊四日のプランニングをした。

京都市内には
マンションを購入して
8年間住んでいたので
カミさんやフミと一緒に
毎週のように神社仏閣を
見て廻り、二回り以上はした。

宮内庁管轄の
桂離宮・修学院離宮・仙洞御所だけは
未訪なので、こたびは
HPで拝観申し込みをしてみようかと
考えている。

また、未訪の
瑠璃光院も出来たら
行ってみようかと思っている。

*

 

 

 

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「実在」の証明は不可能

2024-09-11 05:45:12 | 魂理学

 

きのうは、
朝の寝起きは良かったのだが、
ベントを作っていたら
按排がよくなくなり
出勤の判断を迷ったが、
出向いたら悪化しそうだったので、
欠勤の連絡を入れた。

有給も十日以上あるので
消化できるが、
振替え出勤にしてもらった。

来週は入院するので
ついでにその欠勤についても
振替してもらった。

予約生徒が少ない学校なので
二週連続で欠勤しても
さほど、迷惑はかからないだろう
という気安さはある。

歳ぃとってからの風邪は
長引くし、症候転移がよくあり、
今回も、頭痛から始まって、
怠さ、息苦しさ、咳、クシャミ、
風邪声、痰、自律神経失調症・・・と
ころころ症状が変わっている。

時折、ここから
おなかの調子が悪くなる
胃腸症状にまでなる事もある。

来週の火曜日に入院し、
また、大腸洗浄剤を2ℓも呑まなきゃ
ならないので、胃腸炎にだけは
ならないでいてほしい。


**

Amazonから
『宗像教授』と『七つ屋』の
新刊が届き、
自宅療養の気慰みになってくれた。



*

スーパーにいくたび、
『かっぱえびせん』の
小袋パックを買ってくる。

オヤツ代わりに
いい気になってやってたら、
いつの間にやら1㎏も
体重が増えていて、
アセアセである💦

主治医からは
検診のたびに
「痩せろー。やせろー」
と厳命されているので、
なんだか背信行為をしてるみたいで
合わせる顔がないなー・・・。

今日も、9時から
予約診察がある。



***

2014年から19年の
6年間の間に、
50代の挑戦として
被災者を労う為に
『復興支援リサイタル』を
自分に出来る事として、
ヴォランティア替わりに
やらせて頂いた。

プログラムでは、
毎年、20曲も演奏したので、
のべ120曲ほどを
アナリーゼや編曲・猛練習に
時間を費やした日々だった。

その後、
コロナ・パンデミックが起こり、
東京オリンピックがあり、
今日に至っているが、
この間に、一昨年は、
毎日1曲をフェイスブックにアップする
というハードな試練を自分に課した
『リュート・マラソン』という
自分イベントをやり遂げた。

最初の頃は、
4本あるルネッサンスやバロックの
リュートを多用したので、
その冠名にした。

途中からは、製作した
ルネッサンスギターやヴィウエラという
古楽器を用いたり、
普通のギターやバスギター、
レキントギター、フラメンコギター…と、
ありとあらゆる手持ちの学期を総動員した。

意に違わず、
途中からは、レパートリーが底を尽き、
過去の教則本から練習曲をやったり、
歌本まで引っ張り出して、
童謡・民謡・歌謡曲などの
編曲にも明け暮れた。

それでも、その365日365曲の
自己鍛錬のお陰で、
編曲の要諦が掴めてきて、
ピアニズムのような
ギターリズムを体得できた気がした。

今にして思えば、
きっと「終活」の一貫で、
「ギター人生」の終止符が訪れる前の
最後の本気「挑戦」だったのかもしれない。

でも、その無謀な挑戦により、
年々、強張る両指のへバーデン結節や
ブシャール結節という変形性関節症に
抗うかのような運動が出来ていた。

そして、70歳「古希」のリサイタルを
ギターライフ最後の〆にしようと
考えていたが…
【ふと思うは神心 あれこれ思うは人心】
の箴言じゃないが…
ふと、70までの「カウントダウン」の
リサイタルにしようと、
またまた無謀な野心が湧き上がった。

…となれば、
来年67からの70までの
4年間となる…。

これは、これで、
容易なこっちゃない…(笑)。

*

ふと、沸いたのは
「神心」とはいうものの…
やるのは前期高齢者の
カラダ・ガタガタの
ジジイである…(笑)。

(おっさん。
 ほんまに、やれんのかい…💦
という、
心配性の関西キャラの
内的人格が揶揄する…(笑)。

(やらいでかッ!!)
と、息巻く、
江戸っ子キャラもいる…(笑)。

(ま、ま…。
 ぼちぼち参ろうか…で、
 行きましょうや…)
という、
ご隠居キャラもいる。

かくばかりの、
多重人格性というのは
誰しもが持っているのかもしれない。

現に、夢には
多くのキャラが登場する。

それらは、夢見手の
主観がこしらえた配役であり、
疑似客体である。

この構造をフラクタル的に
敷衍して考えたのが、
哲学者カストラップの
覚醒時の現実世界での
「純粋自意識
(ピュア・イプセィティ)」による
多重アバター説である。

つまり、
自分の周囲の人物は、
すべて、夢の登場人物と同じく、
自分の意識が創造したものである、
というのである。

これは、観測するまでは、
波動状態で確率的存在である量子が、
観測した瞬間に粒子に収束する、
という量子力学の説に
通ずるものがある。

そもそもが、
【われ思う 故に 我在り】
の通りに、
「今ここで」意識している
主体の実在は疑いようがなく、
それは証明も要らないが、
さて、自意識以外の客体となると
その実在の証明は難しい。

見てあるから、
触って感じるから…
というのは、いずれも、
脳内の電気的現象に置換される
感覚である。

夢の中でも、
見えるし、聞こえるし、
触覚もある。

なので、知覚をもって
実在の証明にはならない。

では、どうしたらいいか。

困った時のAI頼みで…(笑)

ChatGPTでは…

1. 帰納的推論による証明
方法:
自分の意識が外部からの刺激によって一貫して反応することを観察します。
例えば、火を触れば熱いと感じ、リンゴを見て手に取ることができるなど、外界の対象に対して常に予測通りの反応が得られる場合、それらが実在することを仮定するのが合理的であるとする。

限界:
しかし、これは完全な証明ではなく、高い確率で実在すると信じるための方法です。外部の現実が幻覚や錯覚でないことを100%証明するものではありません。

2. 他者の心の存在証明(心の理論)
方法:
他者が自分と同じように意識を持ち、自発的に行動し、独自の経験を持つことを前提とします。
例えば、他人との対話や共通の経験を通じて、その人が自分と同様に意識を持っていることを推測します。
多くの他者が外界の存在を認識し共有しているため、その実在性が強化されます。

限界:
他者の意識自体が幻覚や自分の意識の投影である可能性を完全に排除できない点で、絶対的な証明とはなりません。

3. 実証主義と科学的検証
方法:
科学では観察、実験、再現性に基づいて現象を確認し、理論を構築します。
外部の物体が観察され、異なる条件下でも一貫して同じ結果をもたらす場合、その物体が実在するという仮定が強く支持されます。

限界:
科学的手法もまた、客観的な実在を仮定のもとに進められているため、根本的な懐疑に対しては論理的な最終証明とはなり得ません。

4. 現象学的アプローチ
方法:
フッサールやメルロー=ポンティなど現象学の哲学者は、外部世界は私たちの意識の中に現れる形で「与えられる」と考えます。現象学的な方法では、意識の中に現れるすべての体験を信頼し、その現象が意味を持つこと自体がその存在を保証するとします。

限界:
この方法は、実在を「経験されること」と結びつけるため、経験が実在するかどうかを超えた証明は提供しません。

5. 神学的証明(デカルトの神の存在証明)
方法:
デカルトによれば、全知全能で善なる神が存在し、その神が人間を欺くことはないとすれば、外部世界もまた実在すると考えました。神の存在を信じることで、世界の実在も保証されるという論理です。

限界:
この方法は神の存在を証明することに依存しており、その証明自体が議論の対象であるため、普遍的な証明にはなりません。

【結論】
これらの方法論は、客体の実在性を様々な角度から論じるためのアプローチですが、どれも絶対的な証明には至りません。
最終的には、実在を受け入れる「信念の選択」や「合理的な仮定」として扱うのが現実的です。
哲学におけるこの問題は、外部世界の存在についての「絶対的な証明」が困難であることを示し、人間の知識の限界を浮き彫りにしています。

***

「客体の実在性」を
証明できないことは、
「言葉の限界性」にも
相通ずるものがあるかもしれない。

例えば、
客観的な「赤」なぞというものは、
存在しようがなく、
これは、物理学的には
波長の特定領域が
スペクトラム(連続性)として
脳の視覚中枢で、電気的に認知され、
「記号」化された現象に過ぎない。

極論すれば、
自分の肉体もまた、
分子・原子・素粒子から成り、
常に粒子で存在するのではなく、
観察されない時には
波動状態で確率的に存在しているのである。

自意識は、
物理学的には還元しようがないが、
強いて言えば、脳内の
目に見える神経細胞内で
ソリッドステートドライブ
(SSD)のような記憶方式で、
電気的なオン/オフの状態を
変化させることで「0」「1」の
二進法になっているかもしれない。

****

****

 

 

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「老い」と「死」も偉大な創造

2024-09-03 06:36:26 | 魂理学

ここ数日、
朝起きると
「怠さ」と「体痛」があり、
夏バテの兆候かと懸念している。

ゆんべも
念入りにマッサージ機でほぐしたり、
ストレッチをしたのだが、
そんでも、首回りや
腕、肩、背中・・・と、
凝ったような痛みを伴っている。

4歳児のリク坊には
こんな事はなかろうと・・・
(歳ゃ、とりたくねぇーもんだ・・・)
と、脳内で独り言ちた。

ほいでも、
曽野さんは
「偉大な生を創造した神が
老いも死も創造したのは
同じく、偉大な事に違いない」
と、仰るので、
その言葉をも噛みしめている。



**

きのうは、
山の学校に出勤したら、
連絡ボックス内に
いつものように菓子袋が入っていたが、
N先生の快気祝いと
お礼のメッセージ・カードだった。

夏休み中に手術され、
無事、復帰されて
何よりだった。

今度は、自分が、
ポリープ摘出を受けねばだが・・・。



**

きのうは
振替で初めて月曜の出勤だったので、
金曜の「麺」か「カレー」ではなく
はじめて和定食みたいな
献立だった。

なんだか、
病院食じみていたので、
子どもの頃、2才から20回も
重症の喘息で入院していた事を
事務員さんや用務員さんに話したら、
「健康優良児かと思ってました・・・」
と言われた。

今の「こぶとり(小太り)爺さん」の
姿を見て、そう思われたのかもしれない(笑)。



**

きのうも
空き時間があったので、
来年のリサイタルのソロ曲を
2時間ほどさらった。

まだ、一度も人前では
弾いていない曲なので、
念入りに聴かせ処の弾き方を
あーでもない、こーでもない・・・と、
試行錯誤してみた。

練習段階で
幾百回さらっても、
本番では、たった一回で
決めなくてはならない。

書道のように
沢山、作品を書いて、
そこからベストの物を選ぶ、
というわけにはいかないのが、
時間藝術の宿命である。

それでも
【練習は裏切らない】
という経験則を信じていればこそ、
指や背中が痛もうが、
弦上没我で「音楽」と「自己」の
シンクロを試みている。

【全身音楽】
【全身ギター】
になった時が、
人様の琴線をも鳴らせる事が
可能になるのである。

それには、
文字通り、
「命を削って弾く」
というハードワークになる。



**

70歳までの4回もの
カウント・ダウン・リサイタルを
成し遂げるには、
健康の維持が必須である。

75歳のSC定年まで
勤め上げたいという大望を
成就させる為にも同様である。

なので、
メタボリックシンドロームである
脂質異常症や脂肪肝も
何とかせねばならないのだが、
「死んだ気になって」減量する・・・と、
必死にならないのが
難儀な性分である。

血便が続き、
「大腸がん」かも・・・と、
心配した時には、
さすがに、食欲もおちて
2㎏ばっかし落ちたが、
ポリープだったと安心したら
元の木阿弥になったので、
意志薄弱、惰弱もいいとこである(笑)。

20年来、定期健診では
主治医から、
「痩せろ」「運動しろ」
と、嗜められっぱなしである(笑)。



**

朝刊のジョーク欄には
毎日、目を通しているが、
たまーに、「いいね」したくなる
秀逸な作品が載る。

それでも、
打率でいえば、
1割にも満たないが・・・(笑)。







 

 

 

 

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「知の遍歴」の 最終到達点

2024-08-30 06:38:45 | 魂理学

「史上最強の台風」
という触れ込みだった「10号」も
今朝方には992hPaとなり
並みの低気圧ぐらいに
勢力がダウンしてくれた。

それでも、
4人ほどの死者が出た。

きのうは、
はじめて30℃を下回る
29.9℃だったらしく、
そういえば、冷房のない
学校の廊下やトイレでも
暑さを感じなかった。

今朝も24℃と
やっと25℃の熱帯夜を
下回りはじめて
過ごしやすくはなった。

【暑さ寒さも彼岸まで】
とは言うものの、
お彼岸を過ぎて大分経つが、
それでもまだまだ30℃以上の
真夏日が続く。

*

きのうは
通常のフルタイムに加えて、
緊急ケースが入り、
朝から6ケースの
カウンセリングとなった。

授業に例えれば、
1時間目から6時間目まで
びっちり入った状態で、
まさに、フル・フルタイムだったが、
退勤時には、やり遂げたという
充実感が感じられた。

粗食の手作りベントで
頑張った自分へのご褒美として
帰路、『ミニストップ』に寄って
新発売の『和栗プレミアム・ソフト』を
夕食前にも関わらず
「食べて良し」とした(笑)。



これまでのミニストの
シーズナル・ソフトでは
最高価格の529円もして
ちょっと驚いた。

モンブラン・ソフトといった感じの
贅沢感はあった。

*    

きのうも
JCたちと相対して話をしたので、
夏休み中に「推し」のライヴに行った、
動画三昧だった・・・などの話が出て、
「推し活」が生き甲斐となって
彼女たちを支えていることを
再認識した。

ついでに、自分の「推し」である
ソーちゃんの話もし、
今、オキニのJKアスリートの
画像なぞもPCで見せたりもした。



**

ツタヤ・ブラウジングで見つけた
『鬼平』の新刊を
風呂上りにゆったりと読みふけった。

作者の「さいとう・たかを」氏は
既に亡くなられたが、
『ゴルゴ』も本書も氏の遺言で
スタッフたちの手で続けられている。

画風も作風もブレずに
継続しているのは、
さすがにプロの仕事である。

生存中は
主人公の顔のみを
さいとう氏が担当していたようだ。



***

昨晩も寝しなに
YouTubeのスピ系サイトである
「ネドじゅん」さんの
『わたしという多層構造』を
興味深く視た。

その図解説明で、
ワンネス(神=宇宙)と
個人意識の関係が
巧く示されて感心した。

我々、個人は、
ウニ本体のトゲのようなもので、
その本体こそ「ワンネス」なので、
個人体験もワンネスは
感知しているという。

この個人体験は
制限されたルールの元に
あらゆる体験をするが、
そのどれをもワンネスは
味わって(楽しんで?)いる。

その意味では、まさに、
【一にして全 全にして一】
ということが
明解に了解できる。

これは仏教でも
同様な感じで説明されている。

コメント欄には、
このワンネスは、
量子力学で言われる処の
全てを創生する
「ゼロポイント・フィールド」
なのではないか
という指摘があったが、
なるほど・・・と、それにも感心した。

晩年が近づいて来て、
最近、頓に、
人生とはゲームなのではないか・・・
という感が強まってきた。

そして、大いなるもの、
サムシング・グレイト、
神、宇宙、根源的存在・・・
といったものと
「自分」「自意識」の関係性が
確信に近づいてきたような気がする。

これが、
生物学生時代から始めた
『宇宙生物学』から
心理学院生時代の
『魂理学』へ至った
「知の遍歴」の
最終到達点なのかもしれない。








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