端午の節句を
迎えるのに
玄関室礼を改めた。
我が家では
ダンゴ三兄弟だったが、
本物の鯉幟なぞ
買う余裕もなく、
あげる場所さえもなかったので、
そんな孫たちを不憫に思ったのか
亡父が30年前に兜を買ってくれた。
三人とも
文字通り“孫可愛がり”されたので、
亡き祖父を覚えてはいなくとも、
その愛情は彼らの情操を
豊かに育んでくれた。
庭のレンギョウとボケも
亡き父が手植えして
今春もみごとに
開花している。
***
そろそろ自分の人生の
“店仕舞い”を控え、
近年、昭和へのノスタルジーが
年ごとに募るようである。
終活の一貫でもある
《昭和食堂》めぐりも
こつこつと続けている。
最近は、
街中の『大政食堂』に
何度も通っている。
50年以上もつづいており、
老婆店主が真摯に
経営を貫いているが、
他の閉店になった店々のように
いつ仕舞いになるやも分からぬので、
行けるうちに行っておこうと
足まめに通っている。
きのうは
ワンタンメン(700円)を
やってきた。
麺と鶏ガラスープは
まぎれもない昭和味で、
今や、絶滅危惧種ラーメンである。
ワンタンが
やや硬かったのが
残念だったが、
そこはそれ“老婆の休日”だから(笑)、
よしとするっきゃない(笑)。
全メニューを制覇する気はないが、
餃子やら、炒飯やら、
まだ味わっておきたい
定番品目がいくつかある。
土曜のきのう、
朝10時開店のところ、
11時頃に出かけてみたら、
すでに二人の常連らしき老人が
しっかり“朝飲み”をしていた。
隣卓で真向いになったひとりは、
どこかで見たことのある風貌で
(あっ!! そーだ!!
ゴッホのタンギー爺さんだ!!)
と、唐突に思い出した(笑)。
ご当人を面前に、
スマホでググッてみたら、
その絵が出てきて、
当人と並べてみたら
なぜか吹き出したくなってしまった(笑)。
タンギー爺さん、
餃子をアテにチューハイを
うまそうにチビチビやっている(笑)。
土曜の11時だっちゅうに・・・。
ま、いいや・・・(笑)。
・・・にしても、
昭和食堂ならではの
点景である(笑)。
これが、ファミレスや
洋食店では似つわしくない。
カウンターの爺様は、
ホルモンをアテにやってたが、
途中から「ご飯と味噌汁」を
頼んでいた。
ふたりとも後期高齢者の風情だが、
前期高齢者の自分もいれると、
「ジイ様が集う昭和食堂」で
一句吐きたくなるようだった(笑)。
平成生まれや
令和生まれには、
昭和食堂の「昭和味」は
時代遅れの異次元なものかもしれず、
店構えも古臭くてダサいから、
アホげなギャルやユーチューバーも
いい按排に寄ってこず、
〈G様サンクチュアリー〉は
昭和ジジイの楽園にもなっている(笑)。
なので、
「昭和食堂」めぐりは、
楽しい終活でもある。
*
“昭和飯”から帰宅すると、
これまた、グッド・タイミングで
妙齢の郵便配達おねーちゃんが、
来てくれて、Amazonに注文してた
「ちばてつや」の昭和漫画を
届けてくれた。
奥付を見たら、
「昭和50年」初刊とある。
自分が高3の頃の
書籍である。
短編集なので、
作品自体はさらに古い
70年代のものだと思う。
『螢 三七子』はじめ
『あるあしかの話』なぞ、
文学的ともいえる
秀作だった。
ここにも、
昭和テイストが溢れており、
日本的美観の
「侘び・寂び」
「もののあはれ」
が、そこはとなく感じられた。
*
ブログを書いてたら、
突然に、雪が降りだして
驚いた。
強風と相まって、
まるで、ブリザードのようである。
庭のナポレオン桜の花と
不思議な光景を見せていた。
漫画『美味しんぼ』のなかに、
菓子職人が悩んだ末に
吉野葛を厚めに工夫した
「葛桜」を茶席で供し、
それに感嘆した宗匠が
『暖雪』と命名する・・・
という一話があった。
*** 『魂理学』試論ノート7 ***
我われは「経験するため」に
この現象界にやってきた・・・
というのが、多くの
スピリチュアリズムが説くところである。
全米でベストセラーにもなった
『神との対話』では、
神は自らを経験するために、
自分の一部から自意識を分離させ、
自身をメタ認知できるようにした、
という。
それ自身で完結している
完全無欠なるものは、
完全なるゆえに、もはや
「何も始まらない。
何も終わらない」
という、
「全クリ」
「コンプリート終了」
「完全飽和」
「究極・至高」
「ω(オメガ)」
の状態で
「無」に回帰してしまうのだろう。
なので、
自らを意識・経験する為には、
「不完全なるもの」
「自分を外から見たり、
考えたりするもの」
の存在が必要となった。
それゆえに、
電場の「+」と「-」
磁場の「N」と「S」
のように、
宇宙には「対極性」という
性質が生じた。
また、物質は
その根源の素粒子から物体まで、
「波動性」と「粒子性」
という重ね合わせの
量子的性質を有する。
魂理学では、
『神との対話』で言う処の
「神」という大元は
「サムシング・グレイト」
(何か偉大なもの)
より、さらに
パーソニファイ(人格化)を避けて、
あえて「原存在」とした。
この「原存在」が、
宇宙、生命を創生した
大元と考えてみた。
「わたしが存在している」
という疑いようのない
「自意識」の現象は、
この大元に根源があって、
同様の「自意識」があるだろう、
と推察している。
ただし、先述のように、
その自意識は、
自らの「完全性」ゆえに
「自分が存在している」
というメタ認が機能しないので、
多様性を創生させた。
「目」は、鏡なしでは、
「目自身」を見ることはできない。
この場合、投影という
作業が必要となる。
漫画的に、
「右目」は自分を見るには
「左目」を眼窩から取り外して(笑)、
視神経を延長コードでつないで見る、
という方法もありそうだが、
これだと、「右目」は
自分自身で自分を見たことにはならず、
やっぱり他者に確認をしてもらう、
ということになる。
**
人間的価値観と擬人化でもって
「原存在」の振る舞いを考えてみると、
「何も始まらない。何も終わらない」
のは、退屈きわまりないであろう(笑)。
「神の退屈」である(笑)。
精神科医で、深層心理の分析家で、
高名であったユングのところに、
アメリカン・ドリームを為して、
財も地位も名声も、何もかも
得た人たちが多く訪れた
という話がある。
これらの人々は、
物質世界での究極を極めたがゆえに、
その後にどうしていいか
方向喪失感に陥り、
とどのつまり、アル中や
ドラッグ中毒になったという。
その作用で
トリップ感や幻想感に
浸れるからなのであろう。
この話は、
「神の退屈」に
どこか似ているような気がした。
【この世は、神が見ている夢である】
という格言は、どこか、
【中らずと雖も遠からず】
ではないだろうか。
多くのスピ系本の結論では、
「我々は神の分身であり、
我々は、個々に経験をする為に
現象界に肉体を持って生まれた」
という。
また、これに、
ゲーム理論を加えて、
ゲームが「楽しく」成立するには、
ルールや制限が必要なのだという。
「肉体の桎梏」がそれであり、
「有限の寿命」も、
テニスやゴルフの
アウト・オブ・バウンズ(OB)
なのである。
それがないと、
ゲームとして成立しないのである。
人間の持つ、
ある種の「不自由性」は、
完全なる「自由」である
「原存在=神」が
ゲームを楽しむために設定された。
「苦しみ」も「辛さ」も
「痛み」も「死の恐怖」も
神(原存在)が体験し、
「自意識」でもって、
味わうためなのである。
そして、この過程は、
永遠・無限に繰り返される。
「楽しみ」「楽さ」「快感」「幸福」
に浸っていたければ、
それを選択する「自意識」として
存在すればいいが、
それとて、そればかりだと、
自ずとそれらの状態に慣れ、
麻痺し、飽いて、やがて無感動になり、
その対極を味わわねば
成立しなくなるのかもしれない。