一時間が過ぎた。
里奈を乗せた家舟は、辛うじて浮力を失うことなく航行していた。
だが、船室と化した寝室は、足元に小波が立つほどだった。
家舟は周期的にゆったりと回転を続けていたが、もはや、どの方角にも陸地を見出す事は出来なかった。
360度、見渡す限りの水平線。
コンパスを持たぬ船長(ふなおさ)は、方向喪失感に呆然となった。
水。水。水。
海。海。海。
(ここは何処?…)
太平洋をたった一人で漂流していた。
食料も飲み水もない。
トイレも使えず、乾いたタオルもない。
もうすぐ、ベッドも水に沈むだろう。
この『少女漂流記』の結末は、まだ誰にもわからない。
里奈は沈没船のクルーとして、脱出時の救命具の準備に取りかかっていた。
まず、ゴミ箱のポリ袋を取り出して、風船のように息を吹き込んで堅く結わえた。そして、すかさずセーターの下に入れて、腹抱きにした。
ついでにプラ製のゴミ箱を逆さまにして、開口部をガムテープで幾重にも塞いだ。これは、わき腹のあたりにセーターの上からガムテープでグルグル巻きにして接着させた。
他にも空気を溜めれそうな耐水性のものを選っては、小物箱だろうが、ビニルバッグだろうが、きっちりと密閉しては体にくくりつけた。
些細なものでも掻き集めれば、人ひとりを浮かすだけの浮力を得られるはずである。
地震で散乱した書棚の参考書や問題集などが、自室のプールで浮いたり沈んだりしていた。
それは不思議な光景としか言いようがなかった。
床上浸水はすでにニーハイ・レベルである。
家の沈降速度は時間に比例するものとばかり里奈は考えていたが、臨界値を超えたら加速度的にドボン…と、いくことだって有り得た。
時折、海水が窓ガラスにかかるようになった。
それが、海面と同じ高さになったら、やがて水圧で圧壊するだろう。
その時が、この家舟の終焉の時である。
脱出のタイミングは、リハーサルなしの一発勝負だ。
命の瀬戸際。
身一つでの漂流。
鮫の餌食?…
里奈のシミュレーションは、安易な楽観には傾き難かった。
でもやるよりない。
命を一分一秒でも永らえるために。
その緊張感は、幼い日、初めての運動会で、徒競走の直前に感じたあの高揚感に近かった。
交感神経の興奮が極みに達し、瞳孔が拡散し、拍動が高まり、血管は収縮する。
これ以上の「命懸け」の時はなかろう。
突然、大きなうねりが、家を10mほどグワン…と持ち上げた。
それは津波の第二波だった。
波の頂上から谷に落ちる時、里奈は飛行機の急降下時に感じる、あのマイナスのGを体感した。
その時、家舟も船体にマックスの負荷を受けて、扉は海水圧で吹き飛ばされ、里奈は全身濡れ鼠になった。
押し寄せた海水は、一挙に寝室の窓の位置まで達した。
今しかなかった。
水圧で窓が開かなくなる。
里奈はこの機を逃さずに、窓を全開にし、大洋に身を投じた。
今開けたばかりの窓から大量の海水が一気になだれ込んだ。
瞬時にして家は沈降し、二階のオレンジ色の屋根のみが海面にわずかに浮かんでいた。
そこにも空気溜まりがあったのだろう。
里奈は、その鮮やかな色合いの屋根までバタ足で近づいて、突端に手を伸ばした。
そして、スヌーピーのように、その屋根の上に仰向けになった。
もはや、それは舟でもなんでもなかった。そのほとんどを海面下に没した漂流物の一部でしかなかった。