また
大型台風が
本州に上陸せんと
向かっている。
宇宙から
台風本体を観測されるまで
気象機器は進化したが、
防災においては
備えるよりはなくて、
それでも災害は起こる。
年間数回も入院するような
重症の喘息少年だったので、
台風の季節になると
発作が頻発したのを
今でも覚えている。
有り難いことに、
学童期の「小児喘息」として
病根は切れてくれたが、
自律神経の不安定さは
老齢になっても
不定愁訴として感知されて
「秋バテ」のこの時季
スッキリしない事この上ない。
カウンセリング室の
玄関を開けたら
足元にバッタが死んでいた。
ひと夏の生殖が終わって
生物としての使命と寿命を
全うしたのかもしれない。
種の保存としての
生殖を終えると、
個体保存の必要性がなくなり
生涯を終える生物は多い。
サケやカマキリのオスなぞは
顕著な例だろう。
ヒトは特異的スピシーズ(種)で
メスは閉経後でも多年にわたり
生き続ける。
医学の発達や
豊かになった食糧事情のせいで
寿命が世界一になった日本人は、
「老いを生きる」という課題と
向き合わねばならなくなった。
この実存的課題に
SNSやAIの進化は
ある程度役には立つかもしれないが、
根本の「いかに生きるか」は
個人の哲学的問題であり
アイデンティティやコスモロジーの
問題でもある。
年金受給が開始される
65歳からが「老年」とされるが、
「前老年期」の今を
形而下的/形而上的に
どう充足させるかが
目下の思案事項である。
ピンピン・コロリの
「ピンコロ」に憧れる
お年寄りの気持ちが
最近、漸くわかってきた(笑)。
子ども部屋で見つけた
オハジキにピンを接着して
ブレザー用のラペルピンを
ひとつこしらえた。
色ガラス物なので、
冬はちょっと寒々しいかもしれないが、
クリスマス・シーズンには
ステンドグラスっぽくて
いいかもしれない。
物による
「一日一アート」は
なかなか難しいが、
「ブログ書き」が
写真撮影・画像加工・コメント
という美術・文芸の
「アート」セラピーになってくれている。
ここには、
自尊感情と自己効力感を高めるために
「ドーダの精神」(これみよがし)を
意識的に横溢させ、
身辺雑記と謳いながらも、
全篇我が事の「自慢」なのである。
「自画自讃おおいにけっこう。
自讃できぬ絵なら描かぬほうがいい」
という
「むのたけじ」の言葉に
大いに勇気を得て
共鳴している。
そーだ。そーだ。
藤井そーた?(笑)
ヾ(・ε・。) ← 分裂アタマ
「鯖缶」ブームに乗ろうと
プチ・マイブームで
「鯖缶フレンチ」を作っているが、
自分にドレッセ(盛り付け)の
才能がないことに気づいた。
何百皿という
名シェフたちのフレンチを
若い頃に十二分に堪能してきて、
フレンチ関連本も
山ほど見てきたのに、
自分の料理の
「垢抜け」しなさには辟易する。
まったくもって
センスがない。
。・゚・(ノД`)・゚・。ダメダ~
日頃、圧倒的に
家庭料理をやってるから
そのいい加減さが
「商業的」な美的センスを
損ねているのかもしれない。
グルメ番組で見る
新進気鋭のシェフたちの
斬新なドレッセには
目を奪われる。
絵画もやってきたので、
お皿をキャンバスに見立てて
自由に楽しく好きに
素材を飾ってみようと試みてるが、
どーも稚拙なシンメトリーから
脱せないでいる。
描画テストでは
これは可塑性のなさ、
幼児性の顕われ、
脳器質性障害に見られる
症状でもある。
とうぶん、
鯖缶レシピと
ドレッセを納得するまで
やってこうと
意地になっている(笑)。
なんとか「アシメ(不均衡)の美」を
皿上で表現してみたい。
大型台風が
本州に上陸せんと
向かっている。
宇宙から
台風本体を観測されるまで
気象機器は進化したが、
防災においては
備えるよりはなくて、
それでも災害は起こる。
年間数回も入院するような
重症の喘息少年だったので、
台風の季節になると
発作が頻発したのを
今でも覚えている。
有り難いことに、
学童期の「小児喘息」として
病根は切れてくれたが、
自律神経の不安定さは
老齢になっても
不定愁訴として感知されて
「秋バテ」のこの時季
スッキリしない事この上ない。
カウンセリング室の
玄関を開けたら
足元にバッタが死んでいた。
ひと夏の生殖が終わって
生物としての使命と寿命を
全うしたのかもしれない。
種の保存としての
生殖を終えると、
個体保存の必要性がなくなり
生涯を終える生物は多い。
サケやカマキリのオスなぞは
顕著な例だろう。
ヒトは特異的スピシーズ(種)で
メスは閉経後でも多年にわたり
生き続ける。
医学の発達や
豊かになった食糧事情のせいで
寿命が世界一になった日本人は、
「老いを生きる」という課題と
向き合わねばならなくなった。
この実存的課題に
SNSやAIの進化は
ある程度役には立つかもしれないが、
根本の「いかに生きるか」は
個人の哲学的問題であり
アイデンティティやコスモロジーの
問題でもある。
年金受給が開始される
65歳からが「老年」とされるが、
「前老年期」の今を
形而下的/形而上的に
どう充足させるかが
目下の思案事項である。
ピンピン・コロリの
「ピンコロ」に憧れる
お年寄りの気持ちが
最近、漸くわかってきた(笑)。
子ども部屋で見つけた
オハジキにピンを接着して
ブレザー用のラペルピンを
ひとつこしらえた。
色ガラス物なので、
冬はちょっと寒々しいかもしれないが、
クリスマス・シーズンには
ステンドグラスっぽくて
いいかもしれない。
物による
「一日一アート」は
なかなか難しいが、
「ブログ書き」が
写真撮影・画像加工・コメント
という美術・文芸の
「アート」セラピーになってくれている。
ここには、
自尊感情と自己効力感を高めるために
「ドーダの精神」(これみよがし)を
意識的に横溢させ、
身辺雑記と謳いながらも、
全篇我が事の「自慢」なのである。
「自画自讃おおいにけっこう。
自讃できぬ絵なら描かぬほうがいい」
という
「むのたけじ」の言葉に
大いに勇気を得て
共鳴している。
そーだ。そーだ。
藤井そーた?(笑)
ヾ(・ε・。) ← 分裂アタマ
「鯖缶」ブームに乗ろうと
プチ・マイブームで
「鯖缶フレンチ」を作っているが、
自分にドレッセ(盛り付け)の
才能がないことに気づいた。
何百皿という
名シェフたちのフレンチを
若い頃に十二分に堪能してきて、
フレンチ関連本も
山ほど見てきたのに、
自分の料理の
「垢抜け」しなさには辟易する。
まったくもって
センスがない。
。・゚・(ノД`)・゚・。ダメダ~
日頃、圧倒的に
家庭料理をやってるから
そのいい加減さが
「商業的」な美的センスを
損ねているのかもしれない。
グルメ番組で見る
新進気鋭のシェフたちの
斬新なドレッセには
目を奪われる。
絵画もやってきたので、
お皿をキャンバスに見立てて
自由に楽しく好きに
素材を飾ってみようと試みてるが、
どーも稚拙なシンメトリーから
脱せないでいる。
描画テストでは
これは可塑性のなさ、
幼児性の顕われ、
脳器質性障害に見られる
症状でもある。
とうぶん、
鯖缶レシピと
ドレッセを納得するまで
やってこうと
意地になっている(笑)。
なんとか「アシメ(不均衡)の美」を
皿上で表現してみたい。