写真は蒙自の名所・南湖の畔にたつ、かつてギリシャ人の経営したホテル。1938年の日本との戦争時には北京大学などが一時期、この建物に疎開して西南連合大学を置いていた。現在、その場所にギリシャ人の説明はないが、中国で尊敬されている文学者で北京大学の先生をしていた聞一多が住んでいた場所、というプレートが残されている。
【閑話休題・戦前のビジネススクールにて】
まったく話はそれますが、東亜同文書院の学生たちの旅行日誌がおもしろくてハマっています。(以前にも書きましたが、この学院は1901年に上海にビジネススクールとして日本人によって開校され、卒業生は商社に勤めるなど、主に中国方面の仕事で活躍しました。卒業年度に必ず中国各地を旅行し、調査日記を残しているのです。)
私の大学時代はまさにバブル時期で、私を含めた多くの学生が詰めの甘い計画のまま、旅に出て各地で迷惑をかけたりしていますが、昔からあったのだなあ、という感じです。
たとえば旅で出会う社会人の助言が、耳になかなか届かない。マンガチックなほどです。
1928年に昆明在住の日本人の雲南領事が「土匪(盗賊)にあったら、荷物は欲しがるだけあげなさい。命あっての物種なのだから」と、親切にさとしているというのに、彼らときたら「土匪ごときに頭を下げろというのか。我々は日本男児だ。」とかえって領事を軽蔑する始末。案の定、昆明から出るとすぐにピストルを持った人に脅されたり、蹴られたりとさんざんな目にあうのです。
また、こんなところにも日本人が住んでいたのか、と思うような箇所も。
学生たちがデン越鉄道で北上し、蒙自県で宿を取ったときのこと。ギリシャ人が経営するホテルに泊まると、その奥さんは日本人で島原の出だったとか。その日の食事は久々に日本食が食べられた、と感激しています。
現在、蒙自の中心である、南湖のほとりにしゃれたクリーム色のフランス風洋館があり、観光名所の一つとなっています。
今は、中国人が経営する西洋料理店となっていますが、こここそ、かつてギリシャ人が経営していた有名なホテルなのです。『紅河旅游』という本には、
「カルロスというギリシャ人が、フランス領事館前に小間物店を開いていた。1911年の辛亥革命の影響で蒙自でも西欧的なものへの焼き打ち事件が起こり、彼らの店も焼かれた(一説では自分で焼いたという)。その後、フランス政府の後押しで多額の賠償金をせしめ、ホテルを開いた。」とこの場所を説明しています。35年間、経営していたそうなので、ちょうど、「東亜」の学生たちが泊まったころ、彼のホテルだったことになります。
当時、この地にどれぐらいのギリシャ人がいて、ホテルを経営していたのかはわかりませんが、彼の奥さんが日本人だった可能性はけっこう高いのではないでしょうか。とすると、この地のコスモポリタンぶりは私の想像をはるかに超えて、プチ・魔都・上海状態だったのかも知れません。
*一つの食品の項だけで長くなっております。飽きずにおつきあい下さる方々、本当にありがとうございます。独特の風味を持つ米線の製法に次回からうつりたいと思っています。今後とも、よろしくお願いします。
【閑話休題・戦前のビジネススクールにて】
まったく話はそれますが、東亜同文書院の学生たちの旅行日誌がおもしろくてハマっています。(以前にも書きましたが、この学院は1901年に上海にビジネススクールとして日本人によって開校され、卒業生は商社に勤めるなど、主に中国方面の仕事で活躍しました。卒業年度に必ず中国各地を旅行し、調査日記を残しているのです。)
私の大学時代はまさにバブル時期で、私を含めた多くの学生が詰めの甘い計画のまま、旅に出て各地で迷惑をかけたりしていますが、昔からあったのだなあ、という感じです。
たとえば旅で出会う社会人の助言が、耳になかなか届かない。マンガチックなほどです。
1928年に昆明在住の日本人の雲南領事が「土匪(盗賊)にあったら、荷物は欲しがるだけあげなさい。命あっての物種なのだから」と、親切にさとしているというのに、彼らときたら「土匪ごときに頭を下げろというのか。我々は日本男児だ。」とかえって領事を軽蔑する始末。案の定、昆明から出るとすぐにピストルを持った人に脅されたり、蹴られたりとさんざんな目にあうのです。
また、こんなところにも日本人が住んでいたのか、と思うような箇所も。
学生たちがデン越鉄道で北上し、蒙自県で宿を取ったときのこと。ギリシャ人が経営するホテルに泊まると、その奥さんは日本人で島原の出だったとか。その日の食事は久々に日本食が食べられた、と感激しています。
現在、蒙自の中心である、南湖のほとりにしゃれたクリーム色のフランス風洋館があり、観光名所の一つとなっています。
今は、中国人が経営する西洋料理店となっていますが、こここそ、かつてギリシャ人が経営していた有名なホテルなのです。『紅河旅游』という本には、
「カルロスというギリシャ人が、フランス領事館前に小間物店を開いていた。1911年の辛亥革命の影響で蒙自でも西欧的なものへの焼き打ち事件が起こり、彼らの店も焼かれた(一説では自分で焼いたという)。その後、フランス政府の後押しで多額の賠償金をせしめ、ホテルを開いた。」とこの場所を説明しています。35年間、経営していたそうなので、ちょうど、「東亜」の学生たちが泊まったころ、彼のホテルだったことになります。
当時、この地にどれぐらいのギリシャ人がいて、ホテルを経営していたのかはわかりませんが、彼の奥さんが日本人だった可能性はけっこう高いのではないでしょうか。とすると、この地のコスモポリタンぶりは私の想像をはるかに超えて、プチ・魔都・上海状態だったのかも知れません。
*一つの食品の項だけで長くなっております。飽きずにおつきあい下さる方々、本当にありがとうございます。独特の風味を持つ米線の製法に次回からうつりたいと思っています。今後とも、よろしくお願いします。