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宜良ダックを探して⑦

2011-08-21 17:07:28 | Weblog
写真は、宜良のアヒル農場。上林苑のアヒルは詰め込みではない、もっとのびやかに育てられたアヒルだったことだろう。

【宜良烤鴨の歴史②・来源】
 ともかく、ここで習いおぼえた技術に注目してみましょう。

最初は、南京、永楽帝より北京に首都が移った明朝(1368年~1644年)。
最後には清に追われ、明の遺臣達によって南明政権が作られ、一部は弘光帝をまつりあげました。その皇帝に遣えた談遷が、かつての宮廷の暮らしぶりをつぶさにつづった本があります。

 明の皇宮の食料生産基地だった「上林苑」で飼育されていたアヒルの数が書かれているのですが、それをみると、

「アヒルは上林苑に2624羽飼育されていた。(供給先は年間で)光禄寺では産み落とされた8000羽を使い、太常寺ではアヒルの卵240匹を供え物とし、また監では年ごとにアヒルのヒナ75羽、アヒルの卵2万5000個などをいただいていた。内府にはアヒルの卵3万個を供応していた(『棗林雑俎』逸典」(清・談遷編)という力の入れよう。これだけ読んでも、明ではアヒル料理が発展していたことがわかります。

 ただ、そのころの料理にダックの丸焼きはあったかどうか。
一説によると、「北京ダック」の料理法は、南京方面から伝わったと言われています。
 
 続く清朝。最も栄えていた6代皇帝の乾隆帝(1711年- 1799年)はダックの丸焼きが大好きだったようです。というのも宴席料理のお品書きが今でも残っているのですが、そこに見られるからです。しかも乾隆帝は北京から江南まで最高2000人のお供を連れて6度も出かけ、その地で気に入った料理人を北京へスカウトするほど、南方の料理を熱愛した、というのです。

 皇帝の宴席料理ともなると、原料のアヒルは良質な南京産。当時、冷凍保存技術はないので、水上輸送するには、生きたまま、となります。運動不可能な狭い船内でエサを与え続けることになるので、北京に着く頃にはぶくぶく肉が付いてしまう。以後、北京ダックは、太ったアヒルが使われるようになったのだという説も。

 ちなみに乾隆期に南京から北京までの輸送の日数を調べようと、相当、調べたのですが、あまりはっきりとはわかりません(年間どれぐらいの量が輸送されたか、そのシステムなどに関する論文は沢山あるのですが。)
 南京から北京へ年貢米を届ける最終期日が9月1日と定められていること、旧暦でその頃の南京での収穫時期が6月下旬なので、収穫の手間や集める手間などで1ヶ月差し引いて、輸送日数は約1ヶ月ぐらいでしょうか。ちなみにその当時に旅行した外国からの使節団(琉球使節団や絵師などの日記)の日数などを見ると、だいたい、北京への到着に2ヶ月半かかっています。

 長江から北京へと結ぶ大運河が最も栄えたのも乾隆期。通行税率33.1%かかるので、庶民が口にするにはあまりに高値の華の無謀な長距離輸送ですが、明代に培われたアヒル養殖の技術を思うと、清朝初期なら南京のアヒルを皇帝が食べるのも、ありか、と思えてきます。

(つづく。次回は、製法の話となります。お楽しみに、してくれるかなあ。)
コメント
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