雲南、見たり聞いたり感じたり

雲南が中心だった記事から、世界放浪へと拡大中

昆明の飲み水14

2013-03-16 12:24:27 | Weblog

写真上は、昆明よりをはさんで南に位置する昆陽市・鄭和公園の頂に建つ鄭和像。全長6メートルはあろうかという巨大な石像だ。写真下は像のある鄭和公園から眺められる景色。昆陽の町並みとその先に滇池(2005年3月撮影)。
 公園の中心部には鄭和が父のために建立した父を讃える文を刻んだ石碑とその墓が静かに安置されている。街中には「鄭和故居」と書かれた建物もあった。

 鄭和が仕えた永楽帝の死後、鄭和が宦官という低い身分だったこともあり、金食い虫のばかげた事業だと、鄭和と大航海に関するものはほとんど歴史的に抹殺されてしまったので貴重な場所ともいえる。
 ちなみに鄭和はイスラム教を信仰する回族。イスラム商人のネットワークもたくみに活用していたのでは、ともいわれている。いまでもこのあたりは、雲南で一番回族が多く暮らす場所である。

【都市全体を水洗する?】
もう一つ、昆明市政府が行った驚くべき方法があった。日本ではこのような方法がとられたことはないのではないか。
以前、昆明を訪れた司馬遼太郎は、次のようなことを書いていた。
「ヨーロッパの人々が世界一周を成し遂げる以前に、明の宦官・鄭和が永楽帝の命令を受けて中国からアフリカまでの航海を成し遂げている。鄭和が海から遠い昆明付近出身なのが不思議だったが、昆明に来て、その理由がわかった。」と。

 昆明には滇池をはじめ巨大な湖沼群がある。鄭和は滇池であり、かつ中国で2番目の水深をもつ撫仙湖の近くの街で幼少期を過ごしていた。その後、彼は幼少期に捕縛され、明朝の宦官とされ、ついには1405年から33年の間に300隻もの大艦隊を率いてアフリカまでの航海を7回も成し遂げる数奇の運命をたどることとなる。

 また、その彼の過ごした頃の昆明は水の「まち」だった。
 明より遡ること100年前の元代初期、モンゴル帝国から派遣された昆明の統治者は、運河や灌漑設備、水流調節装置などの整備に並々ならぬ力を注いで、昆明周辺の多くの湖沼をつなぎ、遠くベトナムまでの水路を確保してしまった。こうして昆明は内陸にもかかわらず、水運の発達した街へと変貌をとげた。その時の都市大改造が今なお、生きているのである。

 まず、今まで歩いた盤龍江から滇池は一本道でつながっている。これは自然の賜だが、そこに付随して運河が都市のすみずみまで網の目のように張り巡らされ、今や暗渠となった場所こそあれ、それらはすべて今なお、滇池につながっているという。

 そこで、なんと上流の松華坝ダムから鉄砲水のように水を放ち、川の汚れを水洗トイレのように滇池に流してしまう、という方法が考案され、実施されたのだ。
雨期に松華坝ダムの水が十分に溜まったので、その洪水防止の意味もあった。
(つづく)
*いつもお読みくださり、ありがとうございます。先週は日本の中世からの水運をささえた瀬戸内海の塩飽水軍の活躍した地に行ってきました。村上水軍は知っているけど塩飽って? という方もいらっしゃるでしょう。今年4月から10月まで瀬戸内国際芸術祭で、瀬戸内海の島々に行きやすくなりますので、ぜひどうぞ。かつて人が島からあふれるほど、暮らし、活気にあふれていたという本島などに行かれてみるのもおもしろいですよ。このあたりの方々は、本当に話し好きで人当たりが良いのにびっくり! 歴史的に東南アジアから中国、日本の北側まで多くの往来があり、磨かれていった伝統が残っているのでしょうか?
 鄭和も、幼少に過ごした地に、いろいろと影響を受けて大事業の礎となったことでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする