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通海の民族⑨ 回・蒙民族が集うわけ

2014-07-05 16:01:01 | Weblog
写真は昆明で6月の雨期の始まりを告げるぐずりがちな天候の続く一時期のみに、市場や道路脇で出回っていた枇杷(びわ)の実(2004年6月撮影)。たった一本のひもで、傷つきやすい枇杷を紡ぎ上げて、ブドウの房のようにつり下げて売る器用さに感嘆。
 けっこう、重い。日本のように4個や6個といった少ない単位の売り方は、この形なので、まず不可能だ。
 漢字は日本・中国共通で発音は「ピーパー」とほぼ同じ。味も日本と同じだった。

【野菜製造基地にも】
 話は甘酒からだいぶ逸れましたが、通海は元、明時代の雲南開拓の要請にそって、回族、モンゴル族の屯田地を統括する地として長く存在感を放っていました。やがて水上交通と陸上交通の要から杞麓湖の縮小などで交通の重要地ではなくなり、寒村に。

 注目されなくなった土地だからこそ、中国の激動の政治の荒れ狂うなかでも回族村、雲南で唯一のモンゴル族村がおだやかに生き残れる地となることができたといえます。

 1990年代になり、また通海を通過する昆明から建水をつなぐ道路が建設され、重要な経由地となり、漢族を中心とした甘酒主体のドライブインが大盛況に。

 さらに雲南各地から海外への幅広い商業ルートを持つ回族が中小製造工場や輸出向け野菜を通海で作るようになりました。大根やキャベツなどの野菜は、日本へも漬け物などの加工品としてきていますし、政府指定の有機野菜「緑色野菜」の認定を受けた畑もこの地に多くあります。

 このように輸出する事業が軌道に乗ったため、雲南各地から大量の肉体労働者がバスに乗って集まるようになりました。
 歴史的に様々な民族が暮らしていたことから、よそ者への懐が比較的深い場所として雲南でも認知され、いまも多くの人が気兼ねなく集える場所となったのでした。

【刀製品に秀でた地】
 また甘酒業に精を出すのは、おもに漢族で、回族、モンゴル族は別の暮らし方をしています。

 回族が多く暮らす納古鎮では中小企業が400社以上あるといわれているなかで、刀製品や手工業製品を製作する工房が多くあります。これは、かつて大量の軍用品を工場請負していたところが多かったため。これも遡れば土木事業の知識に優れていた回族が700年前にサイード・シャムスッディーンに請われて雲南にやってきたことが淵源となっているのです。
伝承ですが、明初期、雲南統治の中心となった沐英が、南方の反乱鎮圧に赴いた時、迷い込んだ村で一振りの立派な短刀を手に入れたことがあったとか。つまり、この回族の村では当時、刀身づくりなどの特殊技術集団が存在していた、というわけです。
その後、中華人民共和国成立後は軍用品を、改革開放期になると、いち早く民間向け工業品へと転換できたのも、長い歴史を生き抜いたネットワークと技の蓄積、といえましょう。

近年、多くの作業労働員が通海へ仕事を求めてやってきても、トラブルもなく、住む場所がすんなり提供され、通海をとっかかりに農作業から、工場作業、土木工事へとすんなりと移行できるのも、苦労の末に生きのびた多民族の英知に支えられた、ともいえるでしょう。              (この章おわり)

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