第3章:アラーの恵みー石油ブームの到来
4.富の分け前を求めてー湾岸産油国に殺到する出稼ぎ
1960年代は石油の消費量が急激に増加した結果、中東の産油国に石油開発ラッシュが巻き起こった。OPECの資料によれば サウジアラビア、クウェイトおよびイラクの1960年と1970年の生産量は、サウジアラビアが130万B/Dから380万B/Dへ2.9倍に増加、クウェイトは170万B/Dから1.8倍の300万B/Dに、そしてイラクも97万B/Dから155万B/Dに増えている。
1960年代は石油の消費量が急激に増加した結果、中東の産油国に石油開発ラッシュが巻き起こった。OPECの資料によれば サウジアラビア、クウェイトおよびイラクの1960年と1970年の生産量は、サウジアラビアが130万B/Dから380万B/Dへ2.9倍に増加、クウェイトは170万B/Dから1.8倍の300万B/Dに、そしてイラクも97万B/Dから155万B/Dに増えている。
生産量が増加すれば歳入も増え各国の財政は急激に豊かになった。各国の支配者たちがそれを自分とその一族の懐に入れたのは当然であるが、それでもなお有り余る豊かなオイルマネーはインフラの整備、教育・医療の改善など国家の近代化に注ぎ込まれた。石油発見以前のサウジアラビアとクウェイトは極めて貧しく、教育や医療が全く行き渡らない前近代社会であったが、一気に近代国家に衣替えし始めたのである。
カネがあるから建物、道路、橋、港湾などのインフラ整備は難しくない。ヨーロッパの建築コンサルタントに設計を依頼し、トルコやエジプトの業者に工事を発注、労働者はインド、パキスタンの安い労働力で賄う。学校や病院についても同じこと。必要な教材或いは医療機器を揃えることもカネ次第で何とでもなる。
こうして「ハコもの」はカネで片が付く。問題はヒト。インフラを維持するのは人間であり、学校の教師或いは病院の医師などの人材も必要である。それまで満足な学校や病院のなかったサウジアラビアやクウェイトには教師や医師が殆どおらず、学校や病院を急増したイラクでも教師や医師の絶対数が足りない。
生徒或いは患者とのコミュニケーションが重要な教師や医師はアラビア語を話せることが必須である。アラビア語を話せる人材が必要なのは教師や医師のような分野ばかりではない。経済発展に伴い商業も活況を呈し始めたが、当時のサウジ人やクウェイト人は帳簿をつけたり簡単な釣り勘定すらできない。人材の供給源はエジプト人、パレスチナ人、レバノン人、ヨルダン人たちであった。人材を求める湾岸産油国と富の分け前を求める双方の需要と供給がマッチし、彼らは出稼ぎ人となってイラク、クウェイト、サウジアラビアの湾岸産油国に殺到した。
パレスチナ難民の教師シャティーラが息子のアミンを連れて1956年にクウェイトに移り住んだことはすでにふれた。第二次中東戦争でイスラエル領エイラートから隣町のヨルダン領アカバに逃れたザハラの一家もヨルダンでの生活が一向に楽にならないため15歳になったばかりのザハラを出稼ぎのため一人でクウェイトに行かせた。彼は零細商店の小僧になった。
クウェイトは難民を支援するという大義名分のもと大量のパレスチナ人を積極的に受け入れた。しかしクウェイト人たちは難民に同情した訳ではなく彼らを安い賃金で働く労働力として酷使した。それは形を変えた奴隷制度であった。砂漠のテント生活から一足飛びに豊かな都市生活に移ったクウェイト人はほとんど無学で粗野であったため、富の分け前を求めて群がり集まった出稼ぎのパレスチナ人たちを残酷で横暴に取り扱った。ザハラはじっと耐え忍び、安い給料の殆どを故郷の家族に送金したのであった。家業で習い覚えた経理の知識を糧に24歳の時イラクに出稼ぎに出たアンマンの商人の息子カティーブの身の上も似たようなものであった。
その頃、クウェイトとサウジアラビアの中立地帯で石油の開発に乗り出した日本企業も人材が必要になり、数度にわたり募集広告を出した。1961年の最初の募集でアミン・シャティーラが採用され、その後ザハラも1968年に採用された。二人はともにパレスチナ難民であったが、応募書類のアミンの国籍欄はパレスチナのままであり、ザハラの国籍はヨルダンとなっていた。アミンの父親はパレスチナ人であることを誇りとし、いつか故郷のトゥルカルムに戻り教師を続けられる日の来ることを信じて国籍を変えなかった。一方ザハラ一家は数次の中東戦争を経て故郷の農地を取り戻すことはもはや不可能であると悟り、仕事を得るのに少しでも有利なようにと国籍をヨルダンに変更していた。彼らは以後パレスチナ系ヨルダン人と呼ばれることになる。
ヨルダン人のカティーブも転職組の一人であった。中東の石油会社は給料も良く、なによりも社会的な地位が高い。カティーブが故郷アンマンの両親に石油会社への転職を伝えると両親は手放しで喜んだ。ただ両親はその石油会社が名も無い日本企業であることに若干の違和感を抱いたが、第二次大戦後も欧米に踏みにじられたままのアラブの現状を思うと、廃墟から不死鳥のごとく蘇った日本に一抹の清涼感を覚えたのであった。
祖国パレスチナの復活を信じたパレスチナ人、ヨルダンに帰化して新しい人生を目指したパレスチナ系ヨルダン人、そして将来の豊かな生活を夢見るヨルダン人 ― 3人のアラブ人は運命に引きずられつつペルシャ湾沿岸の小さな町で日本の石油会社の従業員として同じ職場で働くことになったのであった。
(続く)
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荒葉一也
E-mail; areha_kazuya@jcom.home.ne.jp
Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642
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