石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

湾岸小国以外はほとんどが世界100位以下:世界平和指数(2019年版)(1)

2019-06-25 | その他

(MENAなんでもランキング・シリーズ その12)

 

 中東北アフリカ諸国は英語のMiddle East & North Africaの頭文字をとってMENAと呼ばれています。MENA各国をいろいろなデータで比較しようと言うのがこの「MENAなんでもランキング・シリーズ」です。「MENA」は日頃なじみの薄い言葉ですが、国ごとの比較を通してその実態を理解していただければ幸いです。なおMENAの対象国は文献によって多少異なりますが、本シリーズでは下記の19の国と1機関(パレスチナ)を取り扱います。(アルファベット順)

 

 アルジェリア、バハレーン、エジプト、イラン、イラク、イスラエル、ヨルダン、クウェイト、レバノン、リビア、モロッコ、オマーン、パレスチナ自治政府、カタール、サウジアラビア、シリア、チュニジア、 トルコ、UAE(アラブ首長国連邦)、イエメン、

 

 これら19カ国・1機関をおおまかに分類すると、宗教的にはイスラエル(ユダヤ教)を除き、他は全てイスラム教国家でありOIC(イスラム諸国会議機構)加盟国です。なおその中でイラン、イラクはシーア派が政権政党ですが、その他の多くはスンニ派の政権国家です。また民族的にはイスラエル(ユダヤ人)、イラン(ペルシャ人)、トルコ(トルコ人)以外の国々はアラブ人の国家であり、それらの国々はアラブ連盟(Arab League)に加盟しています。つまりMENAはイスラム教スンニ派でアラブ民族の国家が多数を占める国家群と言えます。

 

 第12回のランキングは、NGOグループVision of HumanityがThe Economist Intelligence Unit (EIU、英国の経済誌エコノミストの一部門)のデータをもとに取りまとめた「The Global Peace Index 2019」からMENA諸国をとりあげて比較しました。

 

*Vision of Humanityのホームページ:

http://visionofhumanity.org/app/uploads/2019/06/GPI-2019web003.pdf

 

1.「The Global Peace Index」について

Global Peace Indexは、各国の平和の程度およびそれを維持するための機能を指数化し、ランク付けしたものである。2007年に実施された第1回調査ではその対象は121カ国であったが、その後毎年着実に増え、今回の2019年版では163カ国を対象に調査が行われている。因みにMENA諸国については19カ国1機関全てが評価付けされている。

 

平和指数はEIU社の国別調査員と外部ネットワークの協力を得て作成されている。指数は小型破壊兵器(銃、小型爆発物など)の入手の容易さ、国防費、汚職、人権に対する尊重の度合いなど24項目をベースにして作成されたものである。

 

「世界平和指数」の査定結果には以下のような特徴が見られる。

・      平和の度合いは収入、教育制度、地域一体化のレベル等の指標に関連している。

・      平和な国の多くは政府の透明性が高く、汚職が少ない。

・      小さいが安定した国は平和のランクが高い。

 

(続く)

本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。

        前田 高行         〒183-0027東京都府中市本町2-31-13-601

                               Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642

                                  E-Mail; maeda1@jcom.home.ne.jp

 

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米国の原油生産、二年連続で世界一:BPエネルギー統計2019年版解説シリーズ石油篇(6)

2019-06-25 | BP統計

BPが恒例の「BP Statistical Review of World Energy 2019」を発表した。以下は同レポートの中から石油に関する埋蔵量、生産量、消費量等のデータを抜粋して解説したものである。

 *BPホームページ:

http://www.bp.com/en/global/corporate/energy-economics/statistical-review-of-world-energy.html

 

(米国の増産でシェアが長期低落傾向のOPEC!)

(3)石油生産量の推移とOPECシェア(1970~2018年)

(図http://bpdatabase.maeda1.jp/1-2-G02.pdf参照。)

1970年の世界の石油生産量は4,807万B/Dであったが、その後1979年の第二次オイルショックまで生産は大きく増加、1980年には6,294万B/Dに達した。その後価格の高騰により石油の消費が減少した結果、1985年の生産量は5,734万B/Dにとどまった。1980年代は石油の生産が歴史上初めて長期にわたり減退した時期であった。

 

1990年代に入ると石油生産は再び右肩上がりに増加し始めた。そして1995年(6,784万B/D)以降急激に伸び2000年に7,452万B/D、2005年は8千万B/Dを突破して8,179万B/Dに達している。これは中国、インドなど新興経済国の消費量が急増したことが主たる要因である。その後2000年代後半は原油価格の急騰とそれに続く景気後退で石油生産の増加は一時的に鈍化したが、2010年代は再び増勢に転じ2018年の生産量は9,472万B/Dに達している。

 

 地域毎のシェアの変化を見ると、1970年は中東の生産量が29%でもっとも多く、北米28%、ロシア・中央アジア15%、アフリカ13%、中南米10%と続き、アジア・大洋州は(3%)と欧州(2%)のシェアは小さい。その後北米の生産が停滞する一方、中東及びアジア・大洋州の生産が伸び、現在(2018年)では中東のシェアが34%と飛び抜けて高い。北米は1980年代には欧州・ユーラシア地域にも追い抜かれ2000年代半ばにはシェアは17%まで落ち込んだが、その後シェール・オイルの生産が急増したことにより2018年のシェアは24%に高まっている。

 

 石油生産に占めるOPEC加盟国のシェアの推移を見ると、1970年は48%であり、世界の石油生産のほぼ半分を占めた。しかし1970年代後半からシェアは下落し85年には30%を切った。その後80年代後半からシェアは回復し、1995年以降は40%台のシェアを維持している。2018年のシェアは42%である。

 

2014年後半から石油価格が急落する中でOPECは価格よりもシェアを重視する方針を打ち出したが、OPECのシェアは思ったほど伸びなかった。その背景にあったのは近年急激に生産を拡大し価格競争力をつけてきた米国のシェール・オイルであった。シェール・オイルの追い落とし策としてOPECが掲げた低価格政策は2016年半ばに行き詰まりを見せた。

 

このためOPECはロシアなど非OPEC産油国を巻き込んでOPEC・非OPECの協調減産体制(いわゆるOPEC+体制)を作り上げ、2017年1月から2018年12月まで合わせて180万B/Dの減産体制をとった。これにより価格は反転し消費国から増産要請が出たこともあり、OPEC+は今年前半に120万B/Dの減産を継続中である。今年後半については7月初めのOPEC総会及びOPEC+による生産調整会議で決定されることになっており、専門家の間では今年前半の減産体制が下半期にも引き継がれるであろうとの見通しが有力である。

 

なお長期的な需給で見ると石油と他のエネルギーとの競合の面では、地球温暖化問題に対処するため太陽光、風力などの再生可能エネルギーの利用促進が叫ばれている。さらに石油、天然ガス、石炭の炭化水素エネルギーの中でもCO2排出量の少ない天然ガスの人気が高い。このように石油の需要を取り巻く環境は厳しいものがある。その一方、中国、インドなどのエネルギー需要は今後も拡大するとする見方が一般的である。基幹エネルギーである石油の需要は底堅く、今後も増えていくものと予測される。

 

供給面で特筆すべきことはシェール・オイル、サンド・オイルなど「非在来型」と呼ばれる石油が商業ベースで生産されるようになり、特に米国におけるシェール・オイルの生産には目を見張るものがある。このような技術的要因に対して政治的・経済的な要因としてはイランに対する経済制裁が強化され、また有力産油国のリビア、ベネズエラの治安及び経済が悪化している。一方需要面では米中の貿易摩擦による世界景気の減退が懸念されており、供給と需給の両面で石油市場の不安定要因が増している。

 

(続く)

 

本稿に関するコメント、ご意見をお聞かせください。

        前田 高行         〒183-0027東京都府中市本町2-31-13-601

                               Tel/Fax; 042-360-1284, 携帯; 090-9157-3642

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見果てぬ平和  中東の戦後70年(1)

2019-06-25 | 中東諸国の動向

(英語版)

(アラビア語版)

プロローグ

1.スエズ運河グレート・ビター湖の会談

 

 第二次世界大戦における連合国の勝利が確実となった1945年2月14日。スエズ運河北部に位置するグレート・ビター湖。そこに浮かぶ米国の最新式巡洋艦クインシー号上で米国大統領フランクリン・D・ルーズベルトはサウジアラビア初代国王アブドルアジズ・ビン・アブドルラハマン・アル・サウド(通称:イブン・サウド)と首脳会談を行った。

 

 ルーズベルト大統領は直前の4日から11日までクリミア半島のヤルタで英国チャーチル首相、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)スターリン書記長と3者会談を行い(ヤルタ会談)、第二次大戦後の新しい世界秩序や日本の無条件降伏について話し合っている。

 

ルーズベルト大統領はヤルタ会談終了後マルタ島経由で直ちに帰国する予定であった。しかしマルタで戦艦クインシーに乗艦したルーズベルトは米国本土に向かうのではなく、地中海におけるドイツの潜水艦Uボートによる攻撃の危険を冒してクインシーをスエズ運河に回航させ、サウジアラビア国王と会談を行った[1]。大統領が帰国前の貴重な時間を割き危険を冒してまで国王と会談したことは、彼自身及び米国が戦後のアラブ世界の盟友としてサウジアラビアを重視していたことを何よりも明白に物語っている。

 

米国がサウジアラビアを重視した理由の一つは同国の地下に眠る石油資源にあった。第一次世界大戦でドイツの猛攻にあったフランスのクレマンソー首相が当時の米国大統領ウィルソンに宛てた「石油の一滴は血の一滴」と言う有名な電文があるが、第二次大戦でその価値がますます実証され、戦後の経済復興にも不可欠なものであることはルーズベルトならずとも誰の目にも明らかだった。

 

 両世界大戦の谷間の1930年前後にイラク及びクウェイトで大油田が発見され、ペルシャ湾が大油田地帯であることが立証された。その掉尾を飾るのが1948年の米国石油企業による世界最大のサウジアラビア・ガワール油田発見である。70数年後の今もガワール油田の埋蔵量を上回る油田は発見されておらず、今後もこの記録が破られることは無いであろう。第二次大戦中の石油の消費量は第一次大戦時の実に百倍に達しており、米国は新しく発見する以上のペースで消費し石油の供給が先細りになっていることを大統領は憂慮していた。米国としては戦争が終わり次第一刻も早くサウジアラビアの油田の開発に乗り出すことで、石油を安定的に確保するとともに合わせて戦後の世界エネルギーの覇権を握りたかったのである。

 

 そしてもう一つルーズベルトにはアブドルアジズの支援を取り付けたい外交問題があった。それはパレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人の紛争を回避するための支援である。第一次大戦中に英国がユダヤ側とアラブ側それぞれに約束したバルフォア宣言とフセイン・マクマホン協定によりユダヤ人もアラブ人もパレスチナの土地を巡って独立運動を強めており、両者の対立はもはや抜き差しならない状況になりつつあった。とは言えルーズベルト以前の大統領時代から米国の一貫した方針はユダヤ人の移民と入植を支援することであった。ルーズベルトは会談前にも折に触れてアブドルアジズに書簡を送り、土地と移民をめぐるユダヤ人とアラブ人の衝突をいかにして軽減するかについて国王の助言を求めた。しかし米国同様アブドルアジズ国王の方針も一貫しており、紛争を回避する方法はパレスチナへのユダヤ人の移民を止める以外にない、というのがアブドルアジズ国王の回答であった。

 

 将来に困難な問題を含みつつも両者の会談は非常に友好的なものであった。アブドルアジズはアラビア半島制圧の度重なる戦闘により満身創痍、足を引きずる身であったが、1メートル90センチの巨躯は見る者を圧倒し、カリスマ的指導者の風格があった。さらに彼は表裏の無い宗教的な生活を送っており、それらのことからルーズベルトはアブドルアジズに人種や宗教の偏見を超え個人的な親しみを感じたようである。

 

会談後、ルーズベルトはこう力説している。

「アラブ対ユダヤの問題については、サウジアラビア国王との話し合いによって、これまで幾度となく国務省からの文書で知らされてきた以上の、より得難い多くの内容を、たった1回の会談から得ることができた[2]。」

 

なおルーズベルト大統領は帰国後、連合国の勝利を目前にした4月12日に脳卒中のため現職大統領のまま63歳の若さで亡くなっている。ルーズベルトとアブドルアジズの会談は第二次大戦後最初の歴史的意義の大きい「西と東の出会い(West meets East)」なのであった。

 

(続く)

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

 

 

ホームページ:OCIN INITIATIVE(http://ocininitiative.maeda1.jp/index.html) 

 

(目次)

 

 



[1] レイチェル・ブロンソン著「王様と大統領 サウジと米国、白熱の攻防」(佐藤陸雄訳、毎日新聞社刊)P.71参照

[2] 同上P79

 

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