石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

米国の原油生産、二年連続で世界一:BPエネルギー統計2019年版解説シリーズ石油篇(7)

2019-06-30 | BP統計

BPが恒例の「BP Statistical Review of World Energy 2019」を発表した。以下は同レポートの中から石油に関する埋蔵量、生産量、消費量等のデータを抜粋して解説したものである。

 *BPホームページ:

http://www.bp.com/en/global/corporate/energy-economics/statistical-review-of-world-energy.html

 

(米国の生産量、世界一の1,500万B/D!)

(4)主要産油国の生産量の推移(1990年、2000年、2010年及び2018年)

(図http://bpdatabase.maeda1.jp/1-2-G03.pdf 参照)

 産油国の中には長期的に見て生産量が増加している国がある一方、年々減少している国もある。ここでは米国、サウジアラビア、ロシア、イラン、イラク、中国、ブラジル及びベネズエラの8カ国について1990年、2000年、2010年及び2018年の生産量の推移を見てみる。

 

米国とサウジアラビア及びロシアは2018年の生産量がいずれも1千万B/Dを超えており、中でも米国が他の2国を引き離す圧倒的な生産量を誇っている。1990年以降三か国の順位は目まぐるしく変化しており、1990年はロシアの生産量が1,034万B/Dで3か国の中では唯一1千万B/Dを超えていた。ロシアに次ぐのが米国の890万B/D、サウジアラビアは3カ国の中で最も少ない711万B/Dであった。

 

しかし1990年代はロシアがソ連邦崩壊の後遺症で生産が大幅に落ち込み、また米国も油田の老朽化等で生産量が落ち込む一方、サウジアラビアは新興国のエネルギー需要の増加を取り込んで生産量が拡大した。この結果2000年の3か国の生産量はサウジアラビアが最も多い912万B/Dで、米国は773万B/D、ロシアは658万B/Dにとどまった。

 

2000年代に入るとロシアの生産量が急速に回復し2010年には1千万B/D台を回復し世界一の座を取り戻した。サウジアラビアも1千万B/D近くまで生産を伸ばす一方、米国は減退傾向が続き755万B/Dにとどまりロシアとは300万B/D近く格差が開いた。

 

ところが2010年代に入ると様相が一変する。米国でシェールオイルの生産が本格化し、サウジアラビアおよびロシアを一気に追い抜いてトップに躍り出たのである。2018年の米国の生産量は2010年の2倍の1,531万B/Dの生産を達成している。これに対してサウジアラビアおよびロシアは1,229万B/D及び1,144万B/Dと1千万B/Dを超えたものの、トップ米国との差はむしろ広がっている。

 

 イラン、イラク及び中国各国の1990年、2000年、2010年及び2018年の生産量を比べると、1990年から2010年まではイラン、中国、イラクの順であり、中でもイラクはイラン、中国よりもかなり少なかったが2018年はイラクの生産が急増しイランに肉薄、中国は生産が減退する兆候をみせている。イラクは1990年のクウェイト侵攻で石油の禁輸制裁を受け、2003年のイラク戦争とその後の経済停滞で原油の生産・輸出が極端に低迷していたが、最近は政情が安定、生産及び輸出が伸びている。

 

 人口が桁違いに多い中国は消費量も今や米国に次ぎ世界第2位であるが(次章「石油の消費量」参照)、国内生産量は伸び悩み最近では減少傾向に転じている。中国は現在も高い経済成長率を維持しており、石油需要が増加しているにもかかわらず生産が需要に追い付かないのは国内の石油資源不足が原因である。

 

 ブラジルとベネズエラの南米二大産油国は対照的である。ブラジルの1990年の生産量はわずか65万B/Dであったが、2000年には128万B/D、2010年は213万B/D、更に2018年には268万B/Dと1990年の4倍強に増えている。一方のベネズエラは1990年224万B/D、2000年311万B/Dとブラジルを大幅に上回り中国と同レベルの生産量を誇っていたが、2018年にはここで比較した8カ国の中では最も低い151万B/Dに落ち込み、ブラジルより大幅に少ない状況である。世界一の石油埋蔵量を誇る(前章「埋蔵量」参照)ベネズエラの生産量が落ち込んだのは米国の禁輸政策に為政者の失政が重なり経済が破綻しつつあるためである。

 

(石油篇生産量完)

 

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        前田 高行         〒183-0027東京都府中市本町2-31-13-601

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見果てぬ平和  中東の戦後70年 ( 二 )

2019-06-30 | その他

(英語版)

(アラビア語版)

 

プロローグ

 

2. ヨーロッパとアジアをつなぐ中東

 

 世界六大陸の中で最大のユーラシア大陸(Eurasia)はその英語名が示す通りヨーロッパ(Euro)とアジア(Asia)を合成した言葉である。それではヨーロッパとアジアの境界がどこかと言えば、境界線の一つが現在のトルコのボスポラス海峡であるとするのがほぼ常識的な見方であろう。ボスポラス海峡の西側がイスタンブールであり、海峡の対岸にあるウスクダラはアジアの入り口となる。日本が建設したボスポラス大橋は、まさにヨーロッパとアジアを結ぶ架け橋なのである。そしてウスクダラからトルコの首都アンカラのあるアナトリア高原一帯は「小アジア」と呼ばれている。

 

 アジアの呼称は15世紀に始まる「大航海時代」に当時のスペイン、ポルトガル、オランダそしてイギリスの各国が使い始めたものである。これらヨーロッパ諸国は、現在のインドからインドネシアに至る広大な海域で互いに貿易の覇権を競い植民地支配を強めていくが、この過程でアジアという地理的概念が確立されていった。それはヨーロッパ側からの一方的な決めつけであり、彼らがアジアと一括りにした広大な地域の住民は自分たちが一つのアジアであると認識していたわけではない。早い話、日本人の全てがイスラムを信奉するアラブ人を同じアジアの人間と考えているとはとても思えない。

 

ところが中東の人々は日本も自分たちと同じアジアとみなしている。中東の人々が極東の国々を同じアジアとみなすのは、近代になりヨーロッパあるいはその流れをくむアメリカによって世界秩序が形成される過程で彼らの定義を押し付けられ刷り込まれた結果であることは間違いない。各種スポーツ競技の世界予選の区分けを見れば一目瞭然である。サッカー・ワールドカップの「アジア地区予選」は極東の日本から中東各国までまたがっている。つまりヨーロッパ人は自分たちが「ヨーロッパ」と決めた地域以外は十把一絡げに「アジア」と決めつけたのである。

 

 ただ彼らが「アジア」と名付けた地域はユーラシア大陸の大きな部分を占めている。緯度で言えば西経10度(ポルトガル)からベーリング海峡の東経180度まで地球を半周するユーラシア大陸のうち、ヨーロッパの東端イスタンブールは東経30度である。つまりユーラシア大陸の6分の5はアジアであり、ヨーロッパはわずか6分の1にすぎないのである。

 

 したがってヨーロッパ人自身もアジアを一括りにできずいくつかの地域に分けた。それは彼らから見た地理上の遠近というごく単純かつ一方的な区分であった。ヨーロッパから近い順に近東(Near East)、中東(Middle East)、南アジア(South Asia、インド亜大陸)、東南アジア(South East Asia)そして極東(Far East)と名付けたのである。極東(Far East)とは「東の果て」のことであり、聞きようによっては極東の人々に対してずいぶん失礼な言い方ともいえる。(仮に立場が逆になっていれば、英国、フランス等は西の果て「極西諸国」と呼ばれていたかもしれない!)

 

ともかくボスポラス海峡を渡ってすぐが「近東」。現在のアナトリア半島一帯であり、さらに東のレバント(現在のシリア、レバノン)及びイスラエル、イラク、イランあたりまでが「中東」である。但し近代史では「近東」と「中東」が一体化して「中近東」と呼ばれ、さらに現代では単に「中東」の呼称が一般化している。そして中東の向こうにあるのがインド、パキスタンの南アジアである。

 

ヨーロッパが南アジアに直接到達したのはアフリカ南端の喜望峰を経由する帆船ルートであった。陸上ルートはオスマントルコ帝国或いはペルシャ帝国との中継貿易に頼らざるを得ず自由な交易が阻まれていた。こうして15世紀から17世紀に「大航海時代」が訪れた。ヨーロッパ勢が海に乗り出した最大の理由はオスマン帝国の領土を迂回して胡椒や紅茶などのインド洋沿岸諸国の富を手に入れ、或いは中国の陶磁器、日本(ジパング)の金銀を手に入れるためであった。

 

こうしてヨーロッパ諸国は南アジアからインド洋の沿岸伝いに東へ東へと進出していった。帆船による点と点を結ぶ東洋進出であり、「大航海時代」は交易の時代であった。自らは有力な交易商品を持たない当時のヨーロッパ諸国は、インド洋ルートの寄港地であるアフリカ、インド、東南アジア、ジャワなどの産物を行く先々で仕入れ(あるいは略奪し)、物々交換の差益を巨大な富として自国に持ち帰った。そして蓄えた富で工業化を図り鉄砲など武器を製造するようになるとそれまでまがりなりにも対等であった交易が、19世紀には武器による侵略すなわち「植民地主義」によるアジア支配の時代に入ったのである。

 

西欧諸国にとってアジア・ルートの最大の障害はオスマントルコであったが、植民地侵略を通じてオスマントルコ支配地域は徐々に浸食され、19世紀後半の1869年にはフランスがスエズ運河を建設、その後英国が実質的な支配者となった。こうして地中海からスエズ運河、さらに紅海を経由してインド洋に至るルートが確保され西欧列強のアジア支配は確固たるものとなった。そして1914年から17年の第一次世界大戦でオスマントルコ帝国が敗れたことにより、中東から東南アジアに至る広大なアジア地域は英国、フランス、オランダの西欧植民地主義国家が支配し、彼らはアジアの富を独占したのである。

 

(続く)

 

荒葉 一也

E-mail: Arehakazuya1@gmail.com

 

 

 

ホームページ:OCIN INITIATIVE(http://ocininitiative.maeda1.jp/index.html) 

 

(目次)

 

 

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