石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

指導力が問われるサウジ新石油相アブドルアジズ王子(AbS) (上)

2019-10-08 | 中東諸国の動向

 

(English Version)

 

(Arabic Version)


1.サウジ新エネルギー相に初の王族

 サウジアラビアのエネルギー相がAl-Falihからアブドルアジズ・ビン・サルマン王子(以下AbS)に交替した[1]。新大臣は59歳(1960年生)、サルマン国王の4男でありムハンマド皇太子(以下MbS)の異母兄である(「サルマン国王家々系図」参照)。1960年のタリキ石油・鉱物資源相を初代とする石油大臣は、その後のヤマニ、ナーゼル、ナイミそして先代のFalihに至るまでいずれもテクノクラートであり、王族大臣は初めてである。世間はこのことに驚いている。

 

 AbS新大臣は1982年に石油鉱物資源大学(KFUPM)を卒業、1987年にナーゼル石油相(当時)付きとしてキャリアをスタートして以来一貫して石油(エネルギー)省に勤務するベテランのオイルマンである。その間には日本との合弁事業であるアラビア石油の取締役、あるいはOPEC本部勤務の経験もあり、2015年以来エネルギー・鉱物資源省副大臣としてAl-Falih前大臣をサポートしてきた(ちなみに王子と前大臣はKFUPMの同期生)。王子の40年近くにわたる経験は申し分なく、また内外にわたり石油業界に広い人脈を有し、彼の今後の活躍に疑問を挟む余地はなさそうである。

 

 但し義弟でありながら今やサウジアラビアの実質的な独裁者であるMbSとの関係は微妙である。また石油問題は今や国際的な政治問題と深く関連している。同じOPEC加盟国であるイラン、あるいは非OPECの雄ロシアとのOPEC+(プラス)協調問題に加え、世界最大の産油・ガス国である[2]と同時に、サウジにとって不可欠の盟友である米国との関係など、アブドルアジズ新エネルギー相は複雑な外交力学に立ち向かわなければならない。

 

2.王子の性格は?

 実質的なデビューとなった9月のアブダビ石油会議におけるアブドルアジズ王子の言動を見る限り彼は見るからに育ちの良さを示す温厚な中年紳士である。OPECのBarkind事務総長も王子は経験と知識に富み決して感情的にならないと高く評価している[3]。但しこれを鵜呑みにはできない。任命の翌日Al Falih前エネルギー相と並んで記者会見を行ったとき、AbSは感極まって声を詰まらせるというemotional(感情的)な一面を見せている[4]

 

 Arab Newsは、王子が大学以来の数十年に及ぶAl Falihとの交友関係を思い起こしたためと好意的に報じているが、少しうがった見方をすれば常にアラムコ出身のテクノクラートに後塵を拝し、さらには父サルマンの寵愛を受けて皇太子に上り詰めた25歳も年下の異母弟ムハンマドに対して、アブドルアジズは自分の出世が遅れた上に、異母弟の下に立つという現状に感情が高ぶったと考えられなくもない。

 

 また石油政策を論じる彼の談話にはしばしば西洋文学あるいは話題のドラマから借用したpedantic(衒学的)な表現が見られる。それは世界のエネルギー情勢を左右するサウジアラビアの石油相に必ずしもふさわしいとは思えない。例えば上記の記者会見で、王子は英国の人気ドラマ”Upstairs, Downstairs”にひっかけて、自分は階下の台所で国と国王のために働きたい、と答えている。またある時はサウジアラビアが2030年にエネルギーの輸入国になるのでは、との質問に、自分はラ・ラ・ランドのシナリオを論じるほど暇では無い、と答えている。さらに最近のドローン攻撃に対する設備復旧見通しに対して「アラムコは不死鳥のごとくよみがえる」といった表現を連発している[5]

 

 もちろん王子が着実に石油政策を実現するならば問題ないが、思惑通り運ばなかった場合に相変わらずpedanticな表現であいまいな取り組みに終始するなら、彼の国内外での信用が色あせると危惧するのである。

 

(続く)

 

本件に関するコメント、ご意見をお聞かせください。

荒葉一也

Arehakazuya1@gmail.com



[1] Prince Abdulaziz bin Salman appointed Saudi Minister of Energy

2019/9/8 Saudi Gazette

http://www.saudigazette.com.sa/article/576685/SAUDI-ARABIA/Prince-Abdulaziz-bin-Salman-appointed-Saudi-Minister-of-Energy

[2] レポート「石油・ガスの生産と消費で米国が四冠:BPエネルギー統計2019年版石油+天然ガス篇」参照。

http://mylibrary.maeda1.jp/0479BpOilGas2019.pdf

[3] Saudi Prince Abdulaziz bin Salman’s oil diplomacy makes mark at Opec+ meeting debut

2019/9/13 Gulf News

https://gulfnews.com/business/energy/saudi-prince-abdulaziz-bin-salmans-oil-diplomacy-makes-mark-at-opec-meeting-debut-1.66398765

[4] Oil output deal is here to stay, new Saudi minister vows

2019/9/9 Arab News

https://www.arabnews.com/node/1551986/saudi-arabia

[5] Saudi energy minister says oil output to be fully restored by end of the month

2019/9/17 Arab News

 

https://www.arabnews.com/node/1555711/saudi-arabia

 

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見果てぬ平和 - 中東の戦後70年(9)

2019-10-08 | その他

(英語版)

(アラビア語版)

 

(目次)

 荒葉 一也

E-mail: areha_kazuya@jcom.home.ne.jp

 

第1章:民族主義と社会主義のうねり

 

3.イスラエル独立(その1):ユダヤ人の祖国建設運動

 本章のタイトル「民族主義と社会主義のうねり」は、戦後の中東アラブ諸国独立のエネルギーの源を意味しているが、ユダヤ人たちはそれより少し早く祖国建設を始めている。戦後一貫してアラブ諸国の歴史に最も大きな影を落としているユダヤ人の国イスラエルはそれまでの中東二千年の歴史とは全く異質な国家の出現であった。

 

ユダヤ人(と言われる人々が)2千年前にパレスチナを追われ「ディアスポラ(離散)の民」としてヨーロッパ移り住み、各地で迫害を受け辛酸をなめた末、1946年に漸く先祖の地パレスチナにイスラエルを建国した壮大な歴史ドラマはすでに数多の書物で語られてきた。詳細はそちらでお読みいただくとして、ここでは20世紀以降のイスラエル建国史はについて簡単に触れてみたい。

 

 19世紀後半にヨーロッパで「アンティ・セミティズム(反セム民族)」運動がヨーロッパに吹き荒れた。セム民族とはアラビア語、ヘブライ語など中東を起源とするセム系の言語を使用する民族の総称であるが、当時のヨーロッパでは「反セミティズム」は「反ユダヤ主義」そのものであった。ディアスポラの民は各地で「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人居住地区に閉じ込められ、差別を受けてひっそりと暮らしていたのであるが、反ユダヤ主義の高まりの中でユダヤ人を狙い撃ちした事件が続発した。

 

政治的な事件として有名なのはフランスの「ドレフュス事件」である。1894年、フランス陸軍のユダヤ人大尉ドレフュスがドイツに対するスパイ容疑で逮捕された。事件は後に冤罪であることが立証され、大尉は1906年に無罪判決を獲得した。12年にわたる裁判闘争は文豪エミール・ゾラの政府弾劾書簡の発表などフランスを揺るがす大事件となったのである。また社会的な出来事としては19世紀末の帝政ロシアに広がった一連のユダヤ人大量虐殺事件「ポグロム」をあげることができる。「ポグロム」は第二次大戦中のドイツの「ホロコースト」と並ぶ悲惨な出来事であり、当時のヨーロッパの庶民が如何にユダヤ人を毛嫌いしていたがわかる。

 

 このような社会環境に置かれたユダヤ人たちがヨーロッパ以外の土地に安住の地を求めるようになったのは無理のないことである。そして多くのユダヤ人が「新世界」アメリカに移住したが、中には自らの祖国「ホームランド」建設を夢見る者たちもいた。ヨーロッパ諸国の白人為政者たちもヨーロッパ以外の土地にユダヤ人のホームランドを与えることが足元の社会不安をなくす妙案であると考え、この構想を後押しした。いわば体の良いユダヤ人追っ払い政策である。

 

 しかし20世紀の地球上に新しい国家を建設できる耕作可能な無人の土地などあるはずがない。そこでイギリス政府は中央アフリカの植民地はどうかと提案した。黒人の原住民がいるがそれは英国の力でどうにでもなるからである。しかし祖国建設運動の指導者ヘルツェルたちはあくまで祖先が2千年前に追放されたパレスチナでの祖国復活を主張した。彼らは「シオンの丘へ帰れ(シオニズム)」と「土地なき民を民なき土地へ」を合言葉とし、祖国建設運動は激しさを増していった。

 

 困ったのは英国政府である。パレスチナはオスマン・トルコの支配下にあり、しかもこれまで2千年にわたりアラブ人が住み慣れた土地であり、決して「民なき土地」などではない。無理に入植させれば先住民のアラブ人と紛争が起きるのは目に見えていた。

 

 その時ユダヤ人に格好の追い風が吹いた。第一次世界大戦の勃発である。戦費調達に苦しむ英国はユダヤ人富豪ロスチャイルドに頼った。その見返りとしてロスチャイルドが要求したのがパレスチナにおけるホームランド建設を英国に約束させることであった。それがバルフォア宣言である(プロローグ第6節「英国の三枚舌外交―バルフォア宣言」参照)。

 

こうして英国はユダヤ人の資金的バックアップを得て首尾よく戦争に勝った。そしてフランスと交わしたサイクス・ピコ協定(プロローグ第5節「英国の三枚舌外交―サイクス・ピコ協定」参照)によりパレスチナを委任統治領とした。これでパレスチナでのユダヤ人のホームランド建設(イスラエル建国)の障害はなくなったのである。

 

(続く)

 

 

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