石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

(連載)「挽歌・アラビア石油:ある中東・石油人の随想録」(4)

2013-04-10 | その他

2013.4.10

1977(昭和52)年 胡蝶の夢の始まり

 1977年1月4日の「御用始め」は社長の年頭の挨拶の後、職場でコップ酒を酌み交わしながら同僚・上司と新年を寿いだ。和服姿の女性社員たちが新年の気分を盛り上げる。酔いが回り始めたところで他の部署を訪れ「今年もよろしく」などと挨拶し、適当なところで散会する慣わしであった。営業担当者たちはお得意先回りに出掛け、内勤者たちは和服姿の女性を引き連れて明治神宮に参拝、親しい男同士は雀荘に向かった。

 当時の日本企業全体が高揚感にあふれていたが、特にアラビア石油の「御用始め」は以前の会社にはない華やかな雰囲気に包まれていることに強い印象を受けた。オイルショック(第一次)により売上高が急伸、経常利益日本一となり世間から一躍注目されているためであろうと自分なりに解釈した。しかし松の内が明けたあとも社内の雰囲気に大きな変化はない。世間には高度成長期のモーレツ社員があふれていたが、アラビア石油の中ではむしろ世間一般の「モーレツ」ぶりを蔑む社員が少なくなかった。夕方5時の終業時になると殆どの社員が帰り支度にかかる。残業を行うのは6時間の時差があるサウジアラビアの現場と打ち合わせる原油出荷部門や、期末決算(アラビア石油の決算期は12月であった)の経理部門など限られた部署であった。未だ社内に知人の少なかった筆者はそのまま郊外の自宅に向かうことが多かったが、昨年までと比べ余りに早い帰宅に妻が驚いたほどである。

 それでも仕事に慣れ、社内の雰囲気にも慣れると居心地良さが体に染みついてくるものである。中途入社組に対する先輩たちの対応も温かい。そもそもアラビア石油そのものの歴史が若く、30代後半以降のベテラン社員は一人残らず他社からの転職組である。途中入社に対するアレルギーが無く、上下意識よりも仲間意識が強い。それは相手の名前の呼び方にも表れていた。苗字と名前を短く詰める呼び方はその代表的なものであった。

 その一人に「エンリンさん」と呼ばれる部長がいた。本名は遠藤麟一郎。「エンリン」部長は好人物の中年男性であるが、仕事の切れは抜群であった。ただ連日酔いの醒めやらぬ赤ら顔で昼近くに出社、夕方は一歩会社を出ると連絡が取れなくなるというはみ出し者でもあった。アル中気味で既に体はボロボロ、翌年胃潰瘍のため53歳の若さで亡くなった。死後に元中央公論編集長で作家粕谷一稀が「二十歳にして心朽ちたり」を出版した。「エンリン」氏が海軍主計少尉として終戦を迎え、東大に復学、仲間とともに雑誌『世代』を創刊した異能の男であることをその本で知った。『世代』は戦後の思想の混乱期に一世を風靡した雑誌で、彼はその当時すでに「エンリン」の愛称でその人柄と才気煥発ぶりが広く知られていた、と著者の粕谷氏は追想している。「エンリン」氏がどのような経緯でアラビア石油に入ったか知らないが、筆者が見たころの「エンリン」部長はまさに「二十歳にして心朽ち」、自ら無頼の輩を演ずる痛ましい姿であった。

  「エンリン」氏を含め普通の会社ではお目にかかれないような人物が社内には数多くいた。会社とは一割のデキる人間と一割のお荷物人間、残る八割が普通のまじめな人間で成り立っていると聞かされたことがあるが、アラビア石油はその比率が世間の会社と違っていたようである。それでも会社は日本一の高収益を誇っていた。すべて石油のおかげだった。

 この年、国内では巨人の王貞治が本塁打世界最高記録を樹立、海外ではエジプトがイスラエルを承認、アラブ世界に大きな亀裂が生じた。しかし筆者にとってはアラビア石油における「胡蝶の夢」の始まりだった。

(続く)

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