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(アラビア語版)
(目次)
第1章 民族主義と社会主義のうねり(22)
038.英雄ナセル:東西両陣営を手玉に取るアラブの星(3/3)
これに対してナセルはソ連のフルシチョフ書記長を味方に引き入れアスワン・ハイダムを建設、さらにスエズ運河の国有化を宣言したのである。英仏はこれに猛烈に反発、イスラエルを巻き込み第二次中東戦争が勃発した。戦闘そのものは軍備に勝る英仏イスラエル合同軍が主導権を握りイスラエルはシナイ半島を占領、スエズ運河は閉鎖された。アカバ湾突端の町エイラートは第一次中東戦争に続いて二度目の戦闘に巻き込まれ、戦争が終わってみれば周囲はユダヤ人ばかりでエジプト人たちは姿を消してしまった。エイラート郊外に住むパレスチナ人小作農のザハラ家は難民となり、8歳になった息子を連れて国境を接するヨルダンの港町アカバに逃れた。
第二次中東戦争は開戦の端緒となったスエズ運河の名前を受けて別名「スエズ戦争」とも呼ばれているが、米国を含めた国際世論は英仏及びイスラエルに終始批判的であった。この結果、ナセルは戦闘に負けたものの外交で勝利し、これによりアラブ世界で一躍ナセルの名声が上がった。彼は東西いずれの陣営にも属さない第三世界の指導者の一人に祭り上げられるのである。当時の第三世界の指導者にはナセルのほか、インドのネール首相、中国の周恩来首相、ユーゴスラビアのチトー大統領、インドネシアのスカルノ大統領などがおり、このうちナセル、ネール、周恩来、スカルノはアジア・アフリカの各国首脳に呼びかけ、1955年にインドネシアのバンドンで第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)を開催する。この頃がナセルの絶頂期であった。
(続く)
荒葉 一也
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