1986(昭和61)年:広報課長 拝命
1985年に5年ぶりに帰国、元の部署に復帰した。本社で担当した業務に対応する現地部門に赴任し、5年の赴任期間(単身の場合は3年間)を終えると再び東京本社の元の部署に復帰するという会社のルールに沿ったものである。人事、経理、技術など他の部門も同様であり、例えば本社の人事部門で働いた者は現地の人事部門に赴任し再び元の人事部に戻ると言う寸法である。こうして多くの社員は3年乃至5年の周期で東京とサウジアラビアを往復することになる。
帰国一年後、思いがけなく広報課長に任命された。前任者がサウジアラビアに再赴任したためである。実は広報課は会社が前任者を処遇するために新設したものであり、従って二代目課長と言うことになる。前任者は現地で原油の出荷を担当していたため、帰任後は本社の営業部に戻ったが上層部と折り合いが悪く、本人の処遇に困った会社が広報課長のポストを創設したという訳である。
実際のところ課とは名ばかりで課長1名、課長代理1名、女性課員1名だけのミニ組織であり、社内報を発行することと新聞、雑誌など社外のメディアに対応することが仕事である。広報と言えば一般的に派手なイメージがあるが、アラビア石油ではむしろメディアに最小限度の顔しか出さないことが求められた。会社の唯一の商品である原油の販売先は精製会社に限られており企業広告を出す必要がないと言う論理である。
広報課が付き合うメディアにはメジャーとマイナーの二種類があった。メジャーなメディアは読売、朝日、日本経済新聞、NHKなどの大手報道各社である。彼らは石油精製企業の業界団体である石油連盟と同じビルに記者クラブを構えていた。一方、マイナーなメディアは業界紙と呼ばれ、石油タイムズ、油業報知など日刊紙の「開発記者クラブ」と石油文化、石油グラフなど月刊誌の「石油ジャーナリストクラブ」の二つがあった。
当時の石油業界は合併・再編を経た現在に比べて企業数が多かった。精製業界の頂点に立つのが「元売り」と呼ばれる企業であり、日本石油、三菱石油、共同石油(3社はその後数度の合併を経て現在のJXホールディングとなる)、昭和シェル石油、出光興産、コスモ石油などがあった。この他に東亜燃料工業(現東燃ゼネラルグループ)などの精製専業が数社あり、さらにアラビア石油が設立した富士石油のような石油化学コンビナートの原料供給を目的としたコンビナート・リファイナリーと呼ばれる精製企業が全国各地に7社あり、これらは業界団体「新石会」を結成していた。
以上の石油精製販売企業が「下流部門(ダウン・ストリーム)」と呼ばれる企業群である。これに対して石油開発事業を行う企業群が「上流部門(アップ・ストリーム)」であり、当時はアラビア石油、石油資源開発、帝国石油及びインドネシア石油(両社は後に合併し国際石油開発帝石、INPEX、となる)の四社が業界の中核であった。石油開発会社と呼ばれる企業はこの他100社以上あったのであるが、これらは石油開発のリスクを軽減するために石油公団(現独立行政法人「石油天然ガス金属鉱物資源機構」)が資金の8割を出資し個別の開発案件ごとに設立したプロジェクト会社であった。これらのプロジェクト会社は探鉱が失敗すると清算され石油公団の損金は国民の血税で補てんされる仕組みである。実際には殆どのプロジェクト会社は探鉱に失敗していたが、欠損を表面化させないため会社を無理矢理存続させるケースが続出、隠れた損失は雪だるまのように膨れ上がっていた。これらプロジェクト会社のトップは通産省(現経産省)の天下りだったこともあり「臭いものに蓋」式に問題は先送りされていた。
因みにこの年(1986年)、日本では社会党の土井たか子が日本初の女性党首となり、海外ではソ連のチェルノブイリ原子力発電所で大事故が発生している。
(続く)
(追記)本シリーズ(1)~(13)は下記で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf
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