イラクのクウェイト侵攻(1990年)と湾岸戦争(1991年)
1990年のイラクによるクウェイト占領(湾岸危機)から翌年1月の湾岸戦争にかけてアラビア石油は会社存亡の危機に遭遇した。一連の出来事がアラビア石油の歴史で最も暗いものであったことは間違いない。この時、筆者はマレーシアで石油開発に従事していたため当時の現地カフジ及び東京本社の状況を自分の言葉で語る資格は無いと思う。従ってここではその間の事実関係を時系列で紹介するにとどめる。以下の記述は湾岸戦争後の1993年に発行されたアラビア石油社史「湾岸危機を乗り越えて~アラビア石油35年の歩み」から抜粋したものである。
1990(平成2)年
8月2日 イラク軍、クウェイト侵攻
8月5日 社員の家族、カフジ退避日本帰国
(8月6日) (国連安保理、対イラク経済制裁決議)
8月7日 クウェイト在住日本人、全員大使館に避難
(8月8日) (ブッシュ米大統領、サウジアラビアへの米軍派遣発表)
8月10日 東京本社に緊急対策本部設置
(8月18日) (中山外相、サウジアラビア訪問)
8月19日 小長副社長、社員激励のため現地カフジ訪問(翌20日、ナーゼル石油大臣と折衝)
8月22日 クウェイト事務所員・家族、人質としてイラクへ移動
(8月25日) (イラク、人質を戦略地点に移送)
(8月29日) (イラク、人質のうち女性と子供を解放)
10月1日 江口社長、社員激励のためカフジ訪問
(10月6日) (海部首相、サウジアラビア訪問)
(11月3日) (中曽根元首相、イラク訪問、日本人人質25人解放)
(11月29日) (国連安保理、対イラク武力行使を容認)
12月7日 クウェイト事務所員人質解放(12月12日、日本人人質全員帰国)
1991(平成3)年
1月13日 カフジ鉱業所に爆撃退避シェルター59ケ所完成
1月16日 カフジ油田操業停止、サウジアラビア当局よりアラビア石油全社員に退避指示
1月17日 イラク軍ロケット砲によりカフジ攻撃開始。日本人48名、陸路ダンマンへ退避開始。
(1月17日) (多国籍軍、バグダッド空爆開始)
1月29日 日本人社員、アテネ経由で成田帰国
1月30日 カフジ地上戦勃発(多国籍軍12名、イラク軍30名戦死)
(2月26日) (イラク軍、クウェイト撤退、油井700本を爆破、炎上さす)
(2月28日) (イラク、国連決議受諾。湾岸戦争終結。)
3月16日 カフジ復帰のための準備作業開始
4月27日 カフジ従業員(日本人、アラブ人等)全員職場復帰、操業再開準備開始
5月2日 クウェイト事務所再開
6月2日 原油生産再開
(6月5日) (自衛隊掃海艇、クウェイト沖到着、掃海作業開始)
6月11日 出荷再開第1船「高千穂」カフジ出港
(11月6日) (クウェイト油田火災鎮火)
これは社史に記録された事実のほんの一部である。社史に書かれなかった事実はさらに数十倍以上あり、当時の模様の全てを伝えることは不可能である。しかし上記を一瞥しただけでもクウェイト及びカフジのアラビア石油の社員たちが極限の状況に置かれていたことはご理解いただけるであろう。結果的にただ一人の犠牲者も出さずに済んだことはまさに奇跡的とも言える。この間、東京本社においても男性社員が会社に泊まり込み、24時間体制で現地との連絡或いは関係機関との折衝に当たったことは言うまでもない。
(続く)
(追記)本シリーズ(1)~(20)は下記で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf
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・米議会の妥協成立受けて原油価格アップ。Brent$110.77, WTI$102.30。
・ロシアエネルギー相:来年1月からLNG輸出を自由化の方針。近くGazpromと中国CNPCがガス貿易で合意。 *
・イラク石油相:石油輸出増加の見通し。中国から現行60万B/Dから100万B/Dの増量要請。
*ロシア、中国の天然ガスの輸出入に関しては下記参照。
「BPエネルギー統計レポート2013年版:天然ガス編」
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0275BpGas2013Full.pdf
・期待を下回るシェールガス投資、生産増に寄与せず:Shell社幹部、世界エネルギー会議で語る。 *
*「世界のシェールガス資源量」(米EIAデータ)参照。
http://members3.jcom.home.ne.jp/maeda1/1-D-3-50.pdf
シェールオイルおよびシェールガスに関する米EIAのデータを下記に掲載しましたのでご参照ください。
・シェール・オイルの国別資源量(Top 10):http://members3.jcom.home.ne.jp/maeda1/1-D-2-52.pdf
・シェール・ガスの国別資源量(Top 10):http://members3.jcom.home.ne.jp/maeda1/1-D-3-50.pdf
・シェールオイル・ガス合計の国別資源量(Top 10):
ミリ:カナディアン・ヒルと日本人墓地
ミリはボルネオ島の北岸マレーシアのサラワク州にある。天然ガスで有名なブルネイと国境を接し、その間をバラム川が流れている。ミリの町は南シナ海に面し、すぐ後ろにカナディアン・ヒルと呼ばれる小高い丘がある。丘の背後は鬱蒼とした熱帯のジャングルが果てしなく広がりやがて高い山脈へと続く。山脈の反対側はインドネシア領カリマンタンであり、山脈の東端にはボルネオ島の最高峰キナバル山がそびえている。
ミリが石油の町と呼ばれるようになったのは1910年に英国シェル石油が商業量の石油を発見した時から始まる。通常の石油発見がそうであるようにミリの丘の麓では古くから黒い燃える液体が地中から沁み出していた。日本の秋田県や新潟県も同じような現象が見られ江戸時代には「臭う水(くそうず)」(異臭を放つ液体)と呼ばれ、灯油ランプ或いは防水塗布剤として利用されていた。明治以降商業的な生産がおこなわれるようになり、これが日本の石油産業の始まりとなったことは本稿第7回で触れたとおりである。
カナディアン・ヒルは地質学的に言えば褶曲構造の頂部が地表に現れたものである。褶曲構造はいわばお椀を伏せたような形でありその中に石油或いは天然ガスが溜まっている可能性が高いため、頂上から真下に井戸を掘るのが石油開発の基本セオリーである。こうして1910年にシェル石油はミリ油田を発見したのである。試掘井を掘るためにカナダから働きに来ていた技師が丘の上から南シナ海に沈む夕陽をながめ、「まるで故郷と同じ風景だ」とつぶやいたことからこの丘はそれ以来カナディアン・ヒルと呼ばれるようになった。
この丘の上には試掘井の記念碑と共に日本人墓地がある。太平洋戦争が始まった翌年日本陸軍はミリ油田を占領、日本から石油技師を徴用して艦船や航空機の燃料工廠とした。占領後わずか2年でミリ油田は連合軍に奪還されたが、この時陸軍は徴用工を置き去りにして撤退した。残された民間人の石油技師たちは軍隊から叩きこまれた「生きて虜囚の辱めを受けず」の言葉に縛られ、着の身着のままで町の背後のジャングルに逃げ込んだ。しかしそこはマラリア或いは吸血動物の蛭などの世界であり、多くの日本人は命を失った。氏名も死亡場所も解らないまま死んでいった民間徴用工を弔うために戦後丘の上に無名墓地が建てられた。熱帯ジャングルの中にある墓碑は放っておくとすぐに雑草に埋もれてしまうが、時折草をむしり花を手向けてくれる奇特な華僑が地元におり、墓はこぎれいに守られている。筆者もミリ赴任中、墓地を訪れはるか半世紀昔にこの地で石油開発に従事し死んでいった先達に思いを馳せた。
しかし著者が半世紀前の戦争を思いやっていたまさにその時期にアラビア石油は本物の戦争に直面したのであった。1990年8月、イラクが突如クウェイトに侵攻した。クウェイトは半年の間イラクに占領された後、翌年1月多国籍軍により漸く解放された。いわゆる「湾岸戦争」である。クウェイトと国境を接するカフジはまさに戦争の最前線の町となり、アラビア石油は会社存亡の危機に陥ったのである。
(続く)
(追記)本シリーズ(1)~(13)は下記で一括してご覧いただけます。
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