続き
雨は未だ降り続いています
どうやら今日は一日、振り続けるのかもしれません
(大涯西郎、最南端に立つ)
(直ぐ下のクレ崎と呼ばれる岩が最南端)
雨水をタップリ含んだ芝の上はジュブジュブとし場所を選ばないと靴を濡らします
数台の観光バスが見られましたが其処を歩いているのは二人の男性の姿のみ
ヒッソリと静まり返っていました
本州最南端に立ち左程の感慨が湧かないのは多分、降りしきる雨のせいでしょうか
きっと、芝の上に腰を下ろし水平線を眺めながら風や波の音に耳を傾けた時こそ
ひしひしと潮岬旅情は胸に迫ってくるのかもしれません
有料の潮岬灯台は写真だけに留め此処には不釣り合いな串本タワーで昼食をとり
次の目的地へ向かいました
雄さんが注文した「メガ丼」と言うどんぶりもの、名の通りボリューム感が凄いでしょう
お味は???
メガとは魚の名前?と思っていましたら、デッカイと言う単位を表すメガだったんですね
下の写真は真珠の養殖でしょうか
右に橋の架かる島が見えています
地図を開きますとその島は串本節で知られる大島でした
♪ 此処は串本 向かいは大島 中を取り持つ巡航船
昔はこの様に巡航船が本州と島とを繋ぐ唯一の交通網だった訳ですが
今は立派な橋ができ難なく行き来が出来る様になったわけですね
先ず私達はトルコ記念館を訪れてみました
難破したトルコ軍艦エルトゥールル号を日本の漁船が救助に向かった史実は余りにも有名な海難事故ですが
その舞台がここ大島の熊野灘であった事は恥ずかしながら私達は知りませんでした
明治23年(1890)9月16日の夜の事です
中は撮影が禁止されていましたが、その時に殉職した587人(生存者は69名)の遺品や
エルトゥールル号の模型や写真などが数多く展示されておりました
こうしてトルコと日本の友好の絆は生まれた訳なんですね
二枚目の写真は小窓からコッソリ写した海難事故現場で昔から海の難所として知られた場所だそうです
「海難1890」が近年、トルコ、日本の合作で映画化され
その時に用いた品々が記念館の近くに残されていました
これからもトルコと日本の友好は続いて行く事でしょう
島内に海金剛という名勝地が有ると聞き行ってみる事にしました
海金剛への駐車場に建つ奇抜な建物は日米修好記念館です
案内板には2隻のアメリカ商船がここ「前の浜」に寄港した事が記されていました
すなわち黒船来航の62年前に日米間との接触は有ったのだそうです
椿のトンネルを潜り左に日本最古と言われる雨に煙る樫野崎灯台を見ながら先端部分を目指しますと
木々が途切れた場所から思いもかけない絶景が広がりました
朝鮮半島の金剛山(私、登りました)から、その名をとった鋭く切り立った三角形の岩礁
パンフレットを見ますと
この荒々しい景観はマグマから出来た岩が太平洋の荒波によって削られて出来たと書かれていました
海が荒れた時などは凄い迫力なのでしょうね
ここの島のあちらこちらで柑橘類が多く見られます
こんな景色を目にしますと頭に浮かぶのは蜜柑で財をなし後に材木で巨万の富を得た<fon</font>
紀伊国屋文左衛門その人物でしょうか
串本と大島を結ぶ串本大橋を渡り次は楽しみにしている橋杭岩へ向かいます
橋杭岩は旅に出る前から絶対に見逃せない場所でした
石英粗面岩という大小43の海食奇岩が屹立する写真を観た時に
自然の造形の見事さに身震いするほどの感動を覚えたものでした
実際、林立する岩を前に立って見ますと自然の成せる技に驚嘆する心の裏に
何処か人工物を並べた展示会場の様にも見えてくるのは
余りにも規則正しく整列しているせいでしょうか
岩の一つ一つを眺めていますと色々な形に見えてくるのも面白いですね
教を唱える僧に従い背中を丸めて頭を垂れる尼や弟子たち
そうした像を清める様に時折り白波が立つ様は壮観な光景でした
今日は街の宿泊案内所へ出向き民宿「恵比寿屋」さんを紹介して頂き
久し振りにユッタリした夜を迎えました
一枚目の写真は「いいですね、私は和歌山以外、出た事がないんですよ」と話す案内所のご主人
商売柄なのでしょうが低姿勢で有り話し上手な方でした
紹介された民宿は擦れ違いは絶対できそうにない路地を奥へ入った場所でした
迎えにでた女将さんを見て「大丈夫かなぁ」と雄さん
しかし出された心の籠った食事を見、一変で印象を変えた様子
「これ、女将さんが一人で作ったんですか?とても美味しいです」
普段あまり世事を言わない雄さんですが不自由な足にも関わらず
一生懸命な姿が心を打ったのでしょう
雄さんは気に入らないと、ズバリ言ってしまうタイプなので私は神経を使うのです
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