先日、古典落語と古典芸能について、ちょこっとブログに書きましたが、その後、いろいろとネタに事欠かない(?)大阪・橋下市長が、補助金カットでもめている「人形浄瑠璃文楽」を鑑賞して、「保護の必要性は感じたが、二度目は見たいとはあまり思わない」的な発言をした、と、ニュースでありました。
うーむ、いろいろ反発もあるかもしれないけど、一理あるなぁ~と、落語の世界と比較してそう思ったりもしました。
古典落語もそうだけど、文楽も成立したのは江戸時代、当時はリアルタイムで娯楽的な興行だったのに、現代の平成の世ではそれがなんだか「文化・歴史・伝統」的な、お堅いイメージになってしまっている、現代の世とはいろいろそぐわないところがある、もちろん世代を超えて通じる、人情とか親子の愛とかっていうのもあるけど、解説がないとわかりにくい世界観っていうのもあるわけでして。
市長が、二度目はあまり見たくない、っていったのはそういったところから来るんじゃないか?と思うんだな~。
落語の世界も、三遊亭円丈師匠の本とか読んでると、少々以前までは、古典じゃないと落語じゃない、落語は芸であり高尚である的な見方をする人が大手だったそうで。
「昭和の名人」とかを崇拝し、それと同じように演らんのはけしからん、的な人々。
当然、そーいう人は大体年配の男性。
しかし、彼らは次第に、若い観客、落語の面白さに気づき、古典も新作もそれぞれに楽しむというのを知っている観客に追いやられ、とうとうほとんど絶滅したそうだ。。。
文楽も、今、この、古典の呪縛という時代なんじゃないかな~?と思う。
熱心、というか、よく舞台を見にいったり、文楽の協会に意見したりする観客の好み的に、「昔からの忠実な再現」をメインにすえている、っていうか。
で、「一見様、お断り」的な感じで、「オレだけは分かる、ほかのヤツラは見る目がない」みたいな感じの人の方が多いのかな?と思ったり。
伝統は伝統で、確かに大切ではあるけど、伝統だから=大切、そのまま守り伝えることが最優先、という考え方ばかりにとらわれすぎるのもどうかな~?とも思う。
その伝統を演じたりとか、見たりする人々は現代の人々、私たちであるわけだから、その現代の人がどうその伝統を捕らえて、どう伝えて生きたいのか?伝統に自分たちも加わって、同時に歴史に参加して後の世代に伝える、そういったある程度の革新も必要ではないかな~?と、思う。
江戸時代の話が、現代人の市長には物足りなく映ったようだが、たとえば上映の前後で、話の舞台になった時代背景とか人々の常識とか、そういったのを解説で加えていくとかしたら、もっと違ったかも。
見る人それぞれによって、社会経験とか興味分野とか、下地が違うのは当たり前なので、もし自分が面白くなかったと感じたら、ではなぜ、どこか面白くなかったのか?ほかの人はどう思うのか?どうして、面白くない展開に作る側はしたのか?とか考えていったとしたら、舞台背景を調べたりとか、当時の人々の暮らしを知るとか、そういった舞台には出てこない下地の常識的な事を知る、そしたらもっと(多分)面白くなれるんじゃないか?と思いました。
見せる側の工夫も必要とは思うけど、見る側の工夫というか、見方を広めて深める必要もあるかもなぁ、と思ったりして。
その一例といってはなんですが・・・
Good Night, and Good Luck (2005) Trailer
2005年公開の映画で、「グッドナイト&グッドラック」という、ジョージ・クルーニーが監督し、自分も助演で出演して、確かその年のアカデミー助演男優賞を取った映画。
これが日本公開された時、と・ある漫画家が、連載で映画エッセイをイラスト付きで書いてたのを読んだんだけど・・・
その感想が、「わけ分からん、つまらん」と、ありまして^_^;
私は、すごく面白かった、この映画、「ペンは剣より強し」というのが大テーマになると思うんだけど、いくら結果的にはそれが証明されたとは言え、そこにいたるまでの「ペン」の人々の苦労、犠牲、葛藤は相当であったわけで。
それでも、自分たち「マスコミ」の平等な報道として人々に伝えるという使命を遂げようと、頑張る男たちを描いた映画でして。
十分、私は面白かったんだけど、なのになぜ、このマンガ家さんはこの映画の面白さが分からないんだろうか?
と思いましたが、ふと、その理由に思い当たるところもあった。
っていうのは、この映画ってそもそも「アメリカ近代史に知識がある人が見ている事が前提」の映画だったから。
アメリカでは説明する必要もないほどの、大きな時代の波、流れであったので、それをいちいち説明っぽく解説したら、それはアメリカ人にとってはかえってうそっぽいわけで。
日本では、たとえば「桃太郎」とか「かぐや姫」って言ったら、タイトルだけ言えばほとんどの日本人なら、どういった登場人物でそういった時代で、どういった展開で、っていうのが言わんでももう「常識」的に下敷きになっている、ので、その説明をする必要はないわけだ。
でも、それが日本の事をほとんど知らないという人に対しては通じない、のと同じ事なんだろうなぁ、と気づいたのでありました。
もちろん、私も知らない事の方が多いわけだから、知識がないからわからなかった的な映画とかはかなりあります。
特に、欧米圏じゃない国の映画とかはそういうのがありますね~。
でも、自分が分からない、自分の常識の物差しから測ってわかならい=つまらない、にしてしまうのは違うかな~?と思ったんですな~。
もしかして、理解できなかったここは、何か理由があるのかも??とかって、調べてみたりとか(ネット社会はその点ありがたい)してみた上で、それでもつまらないのか?ってまでやらんとフェアじゃないような気がするんですがね~。
まぁ、その漫画家さんは「自分の視点至上主義」的な人で、たまたま「見方の間違い」的記述があったので、指摘したら「個人の見解の違いですから。不快に感じさせてしまったのならすみません」というような返事しかもらえなかったので。
あー、なんか、「ロード・オブ・ザ・リング」の字幕騒動の、戸田奈津子女史のいいわけみたいだな~、と思ったりしました(爆)
で、文楽から話はそれたけど、その後、文楽業界でも駅前で人形といっしょに宣伝したりと広報活動などにも力を入れるようにしてきたそうだ。
とにかく、最初の一歩を進んでもらいたい・・・という、その意欲は感じられましたね~。
文楽は、私的には「能」よりは分かると思うんだが(苦笑)
うーむ、いろいろ反発もあるかもしれないけど、一理あるなぁ~と、落語の世界と比較してそう思ったりもしました。
古典落語もそうだけど、文楽も成立したのは江戸時代、当時はリアルタイムで娯楽的な興行だったのに、現代の平成の世ではそれがなんだか「文化・歴史・伝統」的な、お堅いイメージになってしまっている、現代の世とはいろいろそぐわないところがある、もちろん世代を超えて通じる、人情とか親子の愛とかっていうのもあるけど、解説がないとわかりにくい世界観っていうのもあるわけでして。
市長が、二度目はあまり見たくない、っていったのはそういったところから来るんじゃないか?と思うんだな~。
落語の世界も、三遊亭円丈師匠の本とか読んでると、少々以前までは、古典じゃないと落語じゃない、落語は芸であり高尚である的な見方をする人が大手だったそうで。
「昭和の名人」とかを崇拝し、それと同じように演らんのはけしからん、的な人々。
当然、そーいう人は大体年配の男性。
しかし、彼らは次第に、若い観客、落語の面白さに気づき、古典も新作もそれぞれに楽しむというのを知っている観客に追いやられ、とうとうほとんど絶滅したそうだ。。。
文楽も、今、この、古典の呪縛という時代なんじゃないかな~?と思う。
熱心、というか、よく舞台を見にいったり、文楽の協会に意見したりする観客の好み的に、「昔からの忠実な再現」をメインにすえている、っていうか。
で、「一見様、お断り」的な感じで、「オレだけは分かる、ほかのヤツラは見る目がない」みたいな感じの人の方が多いのかな?と思ったり。
伝統は伝統で、確かに大切ではあるけど、伝統だから=大切、そのまま守り伝えることが最優先、という考え方ばかりにとらわれすぎるのもどうかな~?とも思う。
その伝統を演じたりとか、見たりする人々は現代の人々、私たちであるわけだから、その現代の人がどうその伝統を捕らえて、どう伝えて生きたいのか?伝統に自分たちも加わって、同時に歴史に参加して後の世代に伝える、そういったある程度の革新も必要ではないかな~?と、思う。
江戸時代の話が、現代人の市長には物足りなく映ったようだが、たとえば上映の前後で、話の舞台になった時代背景とか人々の常識とか、そういったのを解説で加えていくとかしたら、もっと違ったかも。
見る人それぞれによって、社会経験とか興味分野とか、下地が違うのは当たり前なので、もし自分が面白くなかったと感じたら、ではなぜ、どこか面白くなかったのか?ほかの人はどう思うのか?どうして、面白くない展開に作る側はしたのか?とか考えていったとしたら、舞台背景を調べたりとか、当時の人々の暮らしを知るとか、そういった舞台には出てこない下地の常識的な事を知る、そしたらもっと(多分)面白くなれるんじゃないか?と思いました。
見せる側の工夫も必要とは思うけど、見る側の工夫というか、見方を広めて深める必要もあるかもなぁ、と思ったりして。
その一例といってはなんですが・・・
Good Night, and Good Luck (2005) Trailer
2005年公開の映画で、「グッドナイト&グッドラック」という、ジョージ・クルーニーが監督し、自分も助演で出演して、確かその年のアカデミー助演男優賞を取った映画。
これが日本公開された時、と・ある漫画家が、連載で映画エッセイをイラスト付きで書いてたのを読んだんだけど・・・
その感想が、「わけ分からん、つまらん」と、ありまして^_^;
私は、すごく面白かった、この映画、「ペンは剣より強し」というのが大テーマになると思うんだけど、いくら結果的にはそれが証明されたとは言え、そこにいたるまでの「ペン」の人々の苦労、犠牲、葛藤は相当であったわけで。
それでも、自分たち「マスコミ」の平等な報道として人々に伝えるという使命を遂げようと、頑張る男たちを描いた映画でして。
十分、私は面白かったんだけど、なのになぜ、このマンガ家さんはこの映画の面白さが分からないんだろうか?
と思いましたが、ふと、その理由に思い当たるところもあった。
っていうのは、この映画ってそもそも「アメリカ近代史に知識がある人が見ている事が前提」の映画だったから。
アメリカでは説明する必要もないほどの、大きな時代の波、流れであったので、それをいちいち説明っぽく解説したら、それはアメリカ人にとってはかえってうそっぽいわけで。
日本では、たとえば「桃太郎」とか「かぐや姫」って言ったら、タイトルだけ言えばほとんどの日本人なら、どういった登場人物でそういった時代で、どういった展開で、っていうのが言わんでももう「常識」的に下敷きになっている、ので、その説明をする必要はないわけだ。
でも、それが日本の事をほとんど知らないという人に対しては通じない、のと同じ事なんだろうなぁ、と気づいたのでありました。
もちろん、私も知らない事の方が多いわけだから、知識がないからわからなかった的な映画とかはかなりあります。
特に、欧米圏じゃない国の映画とかはそういうのがありますね~。
でも、自分が分からない、自分の常識の物差しから測ってわかならい=つまらない、にしてしまうのは違うかな~?と思ったんですな~。
もしかして、理解できなかったここは、何か理由があるのかも??とかって、調べてみたりとか(ネット社会はその点ありがたい)してみた上で、それでもつまらないのか?ってまでやらんとフェアじゃないような気がするんですがね~。
まぁ、その漫画家さんは「自分の視点至上主義」的な人で、たまたま「見方の間違い」的記述があったので、指摘したら「個人の見解の違いですから。不快に感じさせてしまったのならすみません」というような返事しかもらえなかったので。
あー、なんか、「ロード・オブ・ザ・リング」の字幕騒動の、戸田奈津子女史のいいわけみたいだな~、と思ったりしました(爆)
で、文楽から話はそれたけど、その後、文楽業界でも駅前で人形といっしょに宣伝したりと広報活動などにも力を入れるようにしてきたそうだ。
とにかく、最初の一歩を進んでもらいたい・・・という、その意欲は感じられましたね~。
文楽は、私的には「能」よりは分かると思うんだが(苦笑)