1.部品商の廃業
親父の没後僕の父親は金太郎祖父さんの長男、姉1人、弟が二人の4人兄弟だった。祖父さんは「株や」と聞いて居る。住まいは四谷1丁目、女中さんが5人位居たと言う事。親父が小学生の頃、祖父さんが投機に失敗して、どん底の生活に成り、親父はパンを買いに行くのもお金の価値もパンの値段も解らず戸惑ったと云う話を聞いた事がある。親父はそれでも中学には進めた様だ。金太郎祖父さんの親父は増上寺の僧兵の親玉だったとか、それで我が家の菩提寺は芝公園の安蓮社と言う、増上寺の偉いお坊さんのお墓が沢山ある小さなお寺で、もう170年位経っている。親父の弟二人は高等小学校卒業後、直ぐ学徒動員で兵隊に成り、支那に派遣され、終戦を迎え、戦後引き上げて来た。親父は中学を出ると、日加商会と言う自動車部品商に入り3年位して、21歳で結婚して部品商を開業したのである。太平洋戦争中は、多くの企業が合併させられて修理屋2件と部品屋の3軒が合併させられて、日之出自動車と言う会社に成ったのである。当時、三井物産が田村町に在り、ヤナセ自動車の創業社長は三井物産の自動車部から独立したそうだ。当時、大倉男爵邸は今のホテルオオクラの所にあり大倉男爵は自動車が好きで、愛宕下に東京自動車商会と言う自動車屋を開かせるほどだったと言う。戦後、輸入車の販売が盛んになり、新橋から赤坂見附までの両側には色んな自動車会社が軒を連ね、東京のデトロイトと言われた時代が在る。僕は5~6歳の物心ついた頃からあの辺は良く知っている、もう本当に数少ない人間に成ってしまった。また自動車の移り変わりも良く解っている。太平洋戦争末期には、人間魚雷のエンジンは自動車のエンジンを使った物もあり、日之出自動車は、整備技術を買われてその仕事もして居たので、親父は純軍属扱いで、徴兵を免れたらしい。
・商売の状況
僕が大学1年の時、社会の夏の宿題で、「industry &community」地域と産業例えば南部の鉄瓶とか...のレポートを出せと言われた。僕は野球の練習があり地方には行けないので、「何で、芝、港区には自動車屋が多いのか?」と言う事にしようと思い、整備工場の組合や部品商の組合を尋ねてレポートを書いた。その事が後年役にたった。当時、港区には約500軒位の大小取り交ぜた自動車屋があった。当時は、東京都は清掃事業も清掃局で自動車を持ちと全体でも車を保有し、整備工場も持っていた。都庁の指名願いを取って居たのは3軒の部品屋しかなかった。部品商も整備工場が買いに来て呉れた時代から、配達をする時代に変わって来た。採算は厳しくなるばかり、「良く配達手数料を貰わなくてはやっていけない」と言う話をしたものだ。親父は良く「在庫は儲けのカスじゃなくてはいけない」と言って居た。細かいビス1本、ワッシャ―1枚何んてとても棚卸なんて出来やしない。
・売り上げ 月500万、 仕入れ 月150万 粗利率目標25% 在庫簿価 600万
人件費120万
部品の販売以外にクラッチディスク、ブレーキシユウのライニングの張替えをやって居たがこれは工賃仕事で、暇な時には店員みんなでこの仕事に掛かっていた。僕自身も休みの時にはアルバイトでホンダのシユウを80枚リベットを打った事がある。懐かしい思い出だ。確か一枚5円だったかな。親父が死んだ後、或る時、店の売り上げ利益率が18%に落ちた月があり(維持目標22%)、「もうこれではやっていけないな」部品屋を辞めて僕は会社勤め、「店は女で出来る喫茶店にしよう」と決心した。この時は、生まれて初めて、銀座の日動画廊の前の占い師に占って貰った。占い師は、「あなたは大衆に関係した仕事が向いている」と言われた。勿論、ワイフ同行で見て貰った。
転業する決心をしたけれど、従業員に話をするのは、一番辛かった。或る時、夜皆と言ってももう5人しか居なかったが、集まって貰い話をした。皆、苦しい事情は分かって居たので、整理の方法を話、理解して協力を頼んだ。
・在庫整理
商売で1番大事なものは在庫管理である。当時の商売の規模は、覚えて居る範囲で記してみよう。大体、色んな大学の自動車部は当時、自動車ブームの走りで人気が高く、持って居る車は35年製位のフオードが多かった。そういう古い車のエンジン回りの部品なんか結構在庫があった。各校の自動車部の学生には、「あの部品屋へ行って見ろ、部品有るかも知れないぞ...」と結構知名度はあった。古い車の部品在庫は、親父の趣味の部分も多かったと思う。いよいよ、転業の準備に入った。とても在庫部品の帳簿価格とは見合わない。換金できる在庫の価格は、160万と踏んだ。仕入れたばかりの物は仕入れ先に事情を話し、引き取ってもらう事にした。大体当時部品業界の仕入れは、120日の手形払いが60%位あった。利が薄いからどうしても資金が不足する。親父の代からこういう状態だった。従って資金の準備は、在庫の簿価との差が一番多く約400万と予算を建てた。
*売掛金2ヶ月分 約1000万
*手形落札分 仕入れ月400万x4ヶ月1600万x60%=960万幸い都庁が多かったので、未収には成らず、但し、入金時期は確定できなかった。
*買掛金については、「手形は全部必ず落とします。当月の仕入れ分は半額にして下さい」
と交渉させた。
その他にガソリンスタンドをやって居た僕の親友の所にお願いして、毛羽たきやプラグは随分、買って貰った。彼のスタンドは、事業用のユーザーが多く、Yシャツやサングラス迄置いてあった。皆、運転手さんが買って行って、ガソリン代と一緒に成るそうだ。と言う話も以前聞いて居たので、事情話して協力して貰った。
・資金繰りと調達
資金は金融機関から借り入れをしなくては遣っていけない。廃業資金何て名目で調達出来はしない。新規事業の計画とそれに伴う利益からの返済計画が必要だ。これは、至極当たり前の事。一つ問題は、都庁に対する売掛だった。予算が決らないと納入部品に対する支払いが行われない。そこで、考えた挙句、部品商を閉鎖せざるを得ない状況を、内容証明の用紙に書いて、清掃局の事業所長あてに出した。これは、効果が有って3月末までに一度に振り込まれた。屹度、「内容証明でも出されたら困る」と思われたのだろう。後は、店舗の改築資金とその後の事業計画組んで富士銀行から保証協会の保証付き条件で約3000万円を調達した。勿論、祖母のへそ繰り預金を除いて、自分たちの僅かな貯金も全部廃業資金に充当した。充当資金を準備して、振り出してある手形を、「現金で払うからか戻させてほしい」
「当月の仕入れ分は現金で払うから、半額にして欲しい」と交渉をさせたが、星野商会と言う店は、「手形の期日は伸ばしてもいい...額面通り払って呉れ...」と言われた。色々、考えたが、「増田商会に信用が在るんだな...」と考えてて、そこだけは額面通りに手形を落した。
大洋商会と言う会社の営業マンは、東京日産の僕の勤めている居る所まで、「如何して呉れるんだ」と言って来た。「君良い営業マンだね。他所の会社は僕の所へ来たくても、来ないよ...部品屋は給料安いだろ...君ならもっといい所、世話してあげるよ。」と云って帰してしまった。
・手形の事と引っ掛かり
親父が急逝して、僕とワイフが、手形の事など、知識がある訳はなかった。当時は、金融のシステムも今日とは全然違うし、学校でも習ったことは無い。経理士はついて居たが、全て経理士先生の言う通り...或る時、ワイフが「経理士の先生が手形を貸してくれ...印鑑は何でもいいから...と云うので実印は押さなくて貸したわ」 「馬鹿、お前何して居るんだ。手形は何の印鑑でも有効に成るよ。経理士は変えよう...」と云って経理士を首にした。手形全盛の時代で、それ位、我々も無知だった。融通手形は親父の代の人たちが、増田商会から独立した連中の店も殆どが使っていた。まあ、増田の信用があったと言へば格好は良いが、相手がキチンと手形を落してくれればいいが、危険である。そこで、手形の期日を増田の手形の3日前にして貰う様にした。一度、月70万位買ってくれるお客さまがあり、その会社が倒産する情報が先方の専務から入った。売掛は100万位に成る。夜、お店の番頭さんと葛飾まで行った。先方の社長一家は誰もいない、専務だけが居た。「お宅が潰れると、家も潰れます家の番頭さんも子供は小さいし生活できません.幾らかでも払って下さい」と頭を畳に擦り付けてお願いした。未だ金庫に20万位の現金と70万位の手形が5枚位あった。最後は、相手の専務に「貴方も大変でしょう。後で5万円バックしますよ。」と云って金庫の中の手形と銀行に残っている現金相当の小切手を切って貰った。家の店から独立した中で、一番しっかりして居る人の所へ行き、「こういう手を売って来たけれど...」「ヒロちゃん 駄目だよ 手形に裏判がないよ...」それから、すっ飛んで葛飾へ戻り、先方の専務に裏判を貰って来た。翌朝、朝8時に葛飾の銀行の門が開くのを待って居て、無事大口の引っ掛かりを防ぐことが出来た。僕が、今迄、約束をして払わなかったのは、この5万円だけである。車も随分売って来たけれど一度も引っ掛かったことは無い。親父の葬式の時は、安蓮社に400人位の人が来て呉れたが。同業者、お客様皆最後の僕の挨拶を待って居るなと言う事は感じ取れた。僕が東京日産に行って居る事は知って居るし、店を如何するのか?が一番の関心事だったと思う。僕は「増田商会は続けて行きます」とだけ挨拶をした。資本金も50万から1000万にしてあるし、株式会社にしてから約75年に成る。最近、友人と良く話をする。不思議と同じ様に自営業者の子供が多く親父の話をする。親父が死んだ時,東京日産の先輩が「店は如何するんだ?株主は良いけれど、役員に成っては駄目だよ」と忠告された。親父の先輩が近所に住んで居て、朝店の前にオートバイが出て居ないと、会社へ「弘、オートバイが出て居ないぞ...」と電話が掛かって来た。本当に色んな人にお世話になった。
2.新規事業の計画
色々市場調査をしたが、当時、銀座三越にマクドナルドがオープンして、大変な人気だった。藤田伝商事の開発部に電話して、「こういう店を使いませんか?」と尋ねたら、女子社員がスラスラと答えた。
店舗は30坪以上・ 土日が50%以上聞く処・が最低条件。
直ぐ傍に、森ビルが20000㎡のビルを建てた。そのビルの収容人員は?
5㎡の一人...収容人員は4000人 (往復8000人の通行量)通行量は10000人と仮定
1%が当店の両客=100人 コーヒー1杯 120円X100人=12000円(1日の売り上げ) 粗利率85%
月間売上 12000円X25日 粗利率85% 粗利255000円
と云う予算を組んだ。コーヒーは何処から仕入れしようかと考えたが、大手の焙煎業者でなく、自分の所で店も出している処と言う事で、中央珈琲と言う処にした、今度は実働する人間である。ワイフに1週間中央珈琲に勉強に行って貰った。
何であれ月600万規模の売り上げから30万規模の売り上げに成るのだから、大変だ。3年間は無給で遣ろう。営業時間は8時から20迄として店舗のコストも出来るだけ落して改造に掛かった。テーマは「コーヒーを売れ」「清潔さを第一に」「女を売るな」と決めた。
毎週土曜日の午後は「大掃除」と決めて、僕も会社が半日だったので、毎週店に行き、先ずトイレの掃除を必ずっやった。近所の修理屋さんからは「弘君、何年出来るかな?」と言われたが必死にやって、平日は閉店後、姉貴とワイフと3人で食事に行き9時半には東京駅へ姉貴を送り届け帰宅した。店の名前は女ばかりだから、花の名前にしようと思って居たが、中々適当なものが想いつかなかった。高校野球部からの親友が「マッサン、マス兄だからマッシ―で良いじゃないの?」と言われて「そうだ!」と決めてしまった。当時、MLBに行った法政の村上投手がマッシ―と呼ばれて居たが、後日会った時に了解は取った。ゴルフの倉本がマッシ―という会社を後に作って居るが、確か、銀座に1軒小さなバーがあったが、以来、“Massy”をコールネームとしている。
・再開発の交渉
時を経て、森ビルの開発が進んで来た。予測はして居たが、交渉に来た担当者に話し合いに入る前に会社ではなく、「貴方個人としてっ僕を不当な扱いにしないように一筆書いてくれ」
僕は、基本的には賛成だから...と言って交渉に入った。矢張り取得床の提案が1階なら14坪、地下なら25坪と言う提案だった。色々考えたが、判断がつきにくい。しかし、駅の「改札の前なら地価も一階も余り変わらないだろう。広い方がいいな」1階に義弟の為に「15坪位の喫茶店が出来る所を借りてやろう」案の定、最終で各権利者の取り分を見ると僕の分が5坪位少ない。最後に成って初めに取った「一筆」が有効になり、30坪の権利が取れた。その後、ワイフの健康問題も出て、貸店舗にしてしまったが、部品商だった会社は、テナントに恵まれて賃貸業として、健全に生きつづけている。これらの経験から、色んな人の相談を受けてきたが、もう年数を経て、止める人、病に成る人、が出て来て寂しい。親を養う、兄弟を養うという必然性がない人の相談には乗らない、全くのボランティアーのコンサルである。この間、或る人のブログに僕の第一号店の人の店の事が出て居た。部品屋から喫茶店への転業が本当に良い経験に成った。振り返れば、従業員を始め、良い人々の出会いに感謝であった。
*ジジ(銀座) バンベール(恵比寿) 凡々(銀座) ポケット(赤坂) カルム(白金)
えん(日鉱)野々山(大橋)
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