★Massy’sOpinion
*慎太郎 刈り
僕の頭は小さい時から所謂、「坊ちゃん刈」だった。桐生へ疎開した時もそのまま。小学校5年で浜田山に帰って来た時もそのまんま。成蹊へ入ると旧制高校風の所謂、蛮から時代の風俗の坊主頭、今で言えば「いじめ」で上級生から呼び出しを受け、坊主頭にさせられた。慶応へ入ると坊ちゃん刈も沢山居て直ぐ又長髪にした。野球部に入った確か夏、所謂、「スポーツ刈」に渋谷道玄坂上の「坂本美容室」で刈り上げて貰った。此の美容室は評判が良く仲間が10人位通っていた。隣が女性用の美容室で、その仲間の中には、そこの女の子と結婚した奴もいた。一度、何か野球試合の大会で負けて、全員丸坊主にさせられた事がある。慎太郎の「太陽の季節」が芥川賞を貰って有名になり、当時、慎太郎の頭がこのスポーツ刈りで一躍「慎太郎刈」が大流行に成った。社会人に成って、当時、新橋の銀座よりの角に「ㇽピノ」と言うバーがあったが、学生時代ラグビー部の先輩に、連れて行って貰った事がある。其処の「オーナーママ島田さん」は、後の日産社長石原さんの日産経理課時代の部下だったOGで、僕の事を「日産の慎太郎」と言って贔屓にして呉れた。その後、銀座7丁目に引っ越したが、そのビルが大学野球部の先輩、加藤さんのビルだった。約60年に成る随分長い付き合いに成った。僕のボトルの番号は「57041」僕の職番だった。
*イントロ 三保敬太郎
戦後日本が最も元気だった高度経済成長の時代、ある天才ジャズピアニストがショウビジネスの世界で大いに活躍を遂げた。音楽界だけに留まらず、俳優、タレント、映画監督、エッセイスト、レーシングドライバー等々、どの分野でも一流だった才人である。ほかにもスキーはオリンピック候補級の腕前、自前でアイスホッケーのチームを持つなど多趣味で知られた人物であった。その名は、三保敬太郎。しかしながら豊かな才能を持ち過ぎた者の宿命であろうか、1986年に51歳という若さで世を去ってしまう。彼は、1934年10月17日生まれ。存命であれば88歳裕次郎と僕と同年生まれである。或る時、日産自動車の川又社長当時の秘書室長Yさんから、「君、三保君と友達だったね、僕は三保君のお父様に面接を受けてコロンビアに入ったんだよ」と言われて、初めて敬太郎君の父上が偉い人だったんだなあと判った。43歳で日本コロムビアの社長を務めたこともある実業家の三保幹太郎を父に持つ敬太郎は東京に生まれ、幼稚舎から大学まで一貫しての慶応ボーイであった。7歳からピアノを始め、高校時代にはピアニストの守安祥太郎に師事。16歳でバンド、クール・ノーツを組んでプロのジャズピアニストとなる。慶應義塾大学を卒業した翌年TBSに演出部員として入社した。1961年には2度目の芸術祭奨励賞も受賞している。彼は、高校2年の時バンドを組んでから夜の仕事をし出した。学校は遅刻するばかりその内、「代返をして呉れ」と言う事になり、僕は午後野球の練習に行きたいので、交換条件を結んだが、当時、彼はモテモテで朝方迄遊び歩いていた。それでも彼はその年、優等生に成っている。これは僕に取っては凄い刺激になった。或る夏、別荘か借りたのか知らないが、葉山の森戸海岸に部屋があり其処へ遊びに行ったクラスメートが「三っちゃ凄いよ、部屋に行ったら衣紋掛に女のストッキングが何本も掛かって居るんだ...」その後の話はご想像に任せるが、その当時の葉山は豊かな自然に恵まれた海岸だった。逗子、葉山、鎌倉に住んで居た慶應の連中は我々都内に住んで居る者には一種の憧れの的だった。兎に角、敬太郎との話は忘れもしない社会人で初めて給料を貰った次の日に箱根へドライブに行ったが、此の事は、次の機会に書くことにしよう。
*太陽の季節
慎太郎が「太陽の季節」を発表したのは、大学2年の時、僕が高校3年の時である。裕次朗の名前は「大きい奴がいる...」と言う事で聞いてはいたが学校では2度位しか見た事はなかった。しかし、三保の事で書いたが、湘南方面から来る奴は、遊び人が多く僕らの様に練習に追われる連中は、湘南方面から来る奴らが何か流行の先端を行って居るようで羨ましくて仕様が無かった。「太陽の季節」を読んでみるとまさしく校内で聞いて居た様な話ばかり...「これは弟の裕次郎がやって居いる事を題材にしたな」玉突きで賭けをして、負けて自殺する話、興奮した性器で障子を破る話、なんて上記した敬太郎の話から類推できるだろう。慎太郎が旧来の小説の書き方よりダイナミックに青春の様々な行為を表現したのは、「何か兄貴が弟のやって居る事羨んで書いている」様な気がしたものだ。当時とすれば、よく出版社も取り上げたものだと思う。
*夢の湘南 長者ヶ崎
さて、僕には色んな友達がいる。先ず、野球の友達、中学、高校、大学と本当に仲良しが多くいた。遊びの友達、野球の練習が無い時は、銀座で待っていてくれる。居場所は靴磨きの伯母さんに言づけて置いて呉れる。仲間の中には裕次郎の真似をして、ハイカラ―なÝシャツを好ん着る奴もいた。遊び仲間の話は、「おい葉山へ行きたいな...そして、三保や裕ちゃん見たいに思いっきり軟派して見たいな...」大学3年の時である。「葉山で部屋を一夏借りようよ」と言う話に成って、森戸、一色は高いから...と言う事でその先は安いだろうと言う事になり、長者ヶ崎で探した。そしてある石屋さんの8畳一間を蚊帳付き、お風呂は五右衛門風呂、布団は4人分と言う事で、7月ひと月借りる事にした。確か、6万円だったように思う。東京の友人に話をすると、「泊めて呉れ」と言うのがグループで来る。兎に角、当時の長者ヶ崎の海は奇麗、慶応の広告研究会の海の家と普通の海の家の2軒だけ建っていた。静かな海岸だった。泊りに来たい連中からは、「一泊3000円取る」と言う事にした。借主の4人では、その金は釣り道具の箱の中にしまって手を付けないように約束した。殆ど一月の内20日位は、多い時には14人位の日もあり,雑っ子寐で太陽の季節や敬太郎の様な艶っぽい話には縁遠いい状態だった。それでも、海は透き通って居るし、朝日夕日は本当に奇麗、これだけは「太陽の季節」並みだった。7月の31日ひと月の夏が過ぎて、毎晩やって居た花札の勝った者から釣り道具箱を開けて配当金の分配をしたら、確か、65000円位に成っていて里帰りするK君は岡山までグリーン車で帰った。この時のことが忘れられず、翌年も同じ石屋さんにお願いして7月一月夏の葉山暮らしをする事になった。長者ヶ崎は、本当に忘れられない海岸である。「僕らの太陽の季節」だった。
*その後の石原兄弟
「立場が人を造り、人が立場をつくる」と言う格言がある。太陽の季節以降、石原兄弟は、兄は作家、弟は俳優と言う役割でしっかりと大きなタッグを組んで一時代を築きあげた。やっぱり第一作が芥川賞を受けたのは慎太郎には大きな自信に成ったのと同時に人間としての視野を大きく持つことが出来たのだと思う。その陰にあったのは、「狂った果実」等一連の映画を作った水の江瀧子プロデュサーの眼力によるところが大きいだろう。何と言ってもネームバリュウは大きい。キャッチフレーズも「慎太郎刈」もいい。次から次えと続くヒットソングも大きい。
慎太郎が政界に出て、次から次えと役割を変えながら、話題と時代のアクセントを作り出したのは本当に立派なものだった。僕は裕ちゃんとは付き合いはなかったが、同級生で、ボート部に居た奴が、裕ちゃんのスタントマンに成った。彼から結構いろいろな話を聞いた。
一方、敬太郎君は身近に付き合っていた。敬太郎君は裕ちゃんとは付き合って居ない。大橋巨泉が「11PM」で有名になったが、あのテーマソングは敬太郎君の作曲である。巨泉は裕ちゃんと仲が良かった様である。しかも、「栄光えの5千キロ」も日産の華やか時代の大作、敬太郎君もダットサンフエア―レデイーで日本グランプリに出て居る。お互いに敵愾心があったとは思わない。「縁」なのかな?不思議でならない。
石原兄弟は色んなことをやりながら勉強もした。敬太郎は全くの天才?気の向くままに何でもやった。でも、一度彼の家へ遊びに行った時、下駄箱の上にダンベルが置いてあった。ピアノを弾くためか何か解らないが、屹度、努力をして居たんだろう。皆居なく成ったが、「時代が変わったなあ」と言う想いが強い。数人の友人から「おい...慎太郎も死んじゃったな...寂しいな」と電話が掛かって来た。伸晃君も随分応援したが、石原兄弟が大きすぎたのか?今一つ自分の個性が出て来ない。石原ファミリーも一時代の「大輪の花」だったのか?
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