イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

天気晴朗なれども・・・。

2017年01月05日 | Weblog
毎年、元旦の次の休みは釣りに行って、その後に給油を兼ねて港そばの神社を巡るのが恒例になっていたが、今年の2回目の休みは北風が強くて海に出ることはできなかった。

残念ながら今年は神社めぐりだけになってしまった。
いつものとおり、玉津島神社、塩釜神社から東照宮、天満宮、近所の漁港の恵比寿神社を経て僕の港の集落の氏神様へ。

      

港に戻りちょっとだけ船の修理、
舵と油圧装置を繋いでいる部分の境目の隔壁が錆びてしまっていて低くなり大雨が降るとラバーのカバーの中に雨水が入ってしまうようになっていた。再び100均のまな板を登場させ、隔壁に合うサイズに切り出し、コーキング剤で貼り付けてみた。

作業前がこれ

 

作業後がこれ


(元々、タコのテンヤを作ろう思って

調べてみると、前のオーナーさんも同じようなことをしていたようで、コーキング剤のカスが隔壁の周りに貼りついていた。いつの間にか外れてしまったのか、それともうまくいかなくて外してしまったのか、僕の修理もうまくいっているのだろうか。
まあ、当分は様子見だ。

そしてもうひとつ年末にやっておいた修理というか仕掛けというかの確認。
僕の船の艫のところはなぜかいつも鳥のフンで汚れている。オーニングの片隅をお気に入りの鳥がいるらしのだ。


(これは掃除をして日が浅いのでこれくらいでおさまっている。)

CDロムを吊り下げてみたりしたが効果がなく、あきらめてはいたのだが、ふと、100均の猫避けマットを思い出した。
止まっていると思われるフレームにタイラップでトゲを再現してみた。



これは効果があったようで、約1週間経ってもフンの被害は増えていない。
まあ、これも寒くて鳥がどこかへ避難しているだけかもしれないのでやっぱり様子見というところだ。

どちらもうまく機能してくれれば少しだけ快適になるのではあるが・・・。


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「高僧伝 道元」読了

2017年01月05日 | 2017読書
松原泰道 「高僧伝 道元」読了

いままで何冊か読んだ、「高僧伝」のシリーズを古本屋で見つけたのでこんどは道元禅師編を買ってみた。

道元の思想は、「悉有仏性(しつうぶっしょう)」という言葉から始まる。この言葉は、「すべてのものは仏の心(=仏性)を備えている。」という意味だが、すでに仏性をもっているならどうして人は修行をしなければならないのか。という疑問を持ち、その解を求めて中国に渡ったそうだ。

仏性は確かに人の心には備わっている。しかしそれを見つけるためには自分というものを極限まで捨て去り、そうしながらも自分自身を見つめ続けることが必要であると書かれている。
それを禅師は「仏道をならうといふは、自己をならふなり。」と表現した。

自分を捨て去りかつ自分自身を見つめるというというのはどういうことなのだろう。
釈迦の教えは、簡単に言うと、人生は苦しみに満ちている。それから逃れるためにはすべてを捨て去ることだ。というように思うが、人が苦しいと思う要因というのは人それぞれに違うのだから自分を見つめなおしてそこを見つければ解決策があるのではないかというようなことなのかと思ってみたが、どうもそうではないらしい。自分の苦しみの根源を考えることがすでに迷いであり、ただひたすら座り続けること(只管打坐)をすれば自然とさとりの世界に入れるという。それを心身脱落というそうだが、そのための形而下での努力が座禅をすることや各種の作法を実践することであるというのが僕がわかる範囲の大体の内容だ。

しかしながら、自分の迷いや悩みの元をそぎ落としてしまうと、タマネギをどんどん剥いていくと何もなくなってしまうのと同じように自分がなくなってしまうのではないだろうかと心配になってくる。達磨から数えて6代目の祖である慧能という人の言葉に「本来無一物」という言葉があるそうだが、悟りというのはそんなものなのかもしれないし、本書でも、仏性はどの人も同じものを持っている。最終的には他人と同化さえできるのだと、これは道元禅師の言葉なのか著者が言っていることなのかはわからないが最後のほうでそのように書かれている。

ちょっとSFっぽくなってくるのであるが、それでは自分だけが修行しても相手も修行してくれていないとどんどん苦悩の元がこっちに押し寄せてくるだけなのではないかと考えてしまうのはまだまだ座り方が足らないということなのだろうか。
ウチの会社の上層部の人たちも一緒に座禅してくれるというのなら僕も喜んで只管打坐すのだけれども・・・。

しかし、このシリーズの表紙を見ていつも思うのだが、道元禅師のお顔はこんなのだった
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