冨岡一成 「江戸前魚食大全 日本人がとてつもなくうまい魚料理にたどりつくまで」読了
来年は東京オリンピックというのでテレビも新聞も東京ばかりがとりあげられている。NHKスペシャルも「東京ミラクル」、正月の特番ドラマも「家康、江戸を建てる」だ。
なんで東京ばかりやねんと思いながら僕も東京の魚食文化の歴史についての本を読んでみた。
魚の流通といえば築地の中央卸売市場だが、あそこは関東大震災のときに日本橋にあった魚河岸が移転してきたものだ。その魚河岸の発祥というのが、将軍家に魚を献上していたご用達の網元たちが残った魚を売りさばくために立ち上げた市場であった。そして、その御用達という人たちは徳川家康が摂津だから大阪市北部あたりの佃という在所から呼び寄せた漁師たちであったそうだ。
食材としての魚と言うのは管理が大変だ。人口が少ないときには江戸湾内で漁獲で十分まかなえてはいたけれどもそうも行かなくなってくると、房総や相模からも流通させなくてはならなくなってくる。本来、貨物の流通は治安取り締まりのために、中継地点を設けて江戸市中に直接入らないように管理されていたそうだが、魚ではそうも行かないので特別な鑑札をもって一気に魚河岸まで運んでいたそうだ。それを「通し馬」制度というのだが、それでも鮮度は落ちる。とくに脂の多い魚は足が速い。マグロは下魚であったというのは鮮度が保てないという理由であった。そして、魚の保存のために生まれたのが塩蔵や干物、佃煮の文化なのである。
市場が大きくなって仲買業者が増えてくると新規参入も増えてくる。そこで威勢を放ったのは大和屋助五郎という奈良出身の仲買商であった。助五郎は真鯛を生かしたままストックして必要なときに必要なだけ将軍家に献上できるシステムを作ったことでのし上がってきたそうだ。
漁獲のいろいろな方法を関東に伝えたのは紀州をはじめとした関西の漁師たちという話は有名だが、この真鯛の蓄養についても、沖で上げた真鯛の空気抜きを発明したのも紀州の漁師だったそうである。助五郎もそういう人たちのひとりである。
そこはもう、お上の威光を背にした特権組と外部から入ってきた新興勢力とのせめぎ合いと覇権争いの世界であった。
時代は下って明治からは軍事目的のため、それからの高度成長を支ええるための海浜の埋め立てによって江戸前の漁業は成り立たなくなり、昭和37年12月に東京湾の漁業権はすべて放棄されたそうだ。
江戸では鮨、うなぎ、天ぷらなど様々な食文化が花開いてゆくわけだけれども、うなぎの蒲焼というのは、「江戸前」という言葉の発祥となったほど、最初は高級料理(というか、こだわりの強い)料理であったが、鮨や、天ぷら、懐石料理というのは振売や屋台といったところで庶民が食べる気軽な食べ物であったものがどんどん格式が高くなっていった。今でも蒲焼の専門店に行くとそこそこ格式が高いのだろうがほとんどのお店は座敷まではなかなか用意をしていないだろう。そう考えると、うなぎは上から下へ降りてきて、鮨や天ぷらは下から上に上っていった料理のようである。
漁法しかり、魚河岸のシステムを作り上げた人々にしろ、そのほとんどが京や大阪の上方が由来になっていることがよくわかる。料理にしても、鮨の起源は琵琶湖だし、うなぎを開いて食べる方法も関西からだ、天ぷらも上方から駆け落ちしてきた大阪商人利助と芸妓が京で流行っていた料理を屋台で始めた料理が最初だそうだ。
江戸ではそれに磨きをかけてまた改良を加えて自らの独自の文化にして仕立ててきたのだが、たまたまこの本は魚にまつわる話で、恐らくは農業にしても芸術にしてもその他諸々もとは外部、特に上方の影響を色濃く受けていそうだ。そしていつの間にかオリジナルの方をはるかに追い越してしまっている。
じゃあ、そこがどうして江戸だったのか。幕府が開かれたのが江戸であったというのはその大きな理由だろうけれども、政治の中心と経済の中心が別の都市になっている国はたくさんある。
歴史にはまったく疎いのでまったくの想像であるけれども、徳川家康は秀吉に遠ざけられて江戸に転封された。その頃は江戸の町というのはほぼ荒地しかなかったそうだ。(と正月時代劇では言っていた。)こういう人が大逆転して天下を取ったという例は多分世界中見ても希なのではないだろうか。
正月時代劇では、市村正親が、「ここを日の本一の都市にしてみせる!」と言っていたのだが、その根底には、自分をこんな辺鄙なところへ追いやった秀吉、それに加えて京や大阪への恨みがあったのは間違いがないだろう。多分、その執念が江戸を巨大化させ、日本のすべてのものを吸い寄せるブラックホールにしてしまったのではないかと思うのだ。
何かにつけて、東京一極集中ということが話題になるけれども、きっとそれは関西の文化圏から弾き飛ばされた家康の怨念とあきらめ、なんのことはない、すべての下地はこっちにあるんだと言って少しだけ溜飲を下げてみるのが負けたほうの生き方なのだろうと思うのだ。
来年は東京オリンピックというのでテレビも新聞も東京ばかりがとりあげられている。NHKスペシャルも「東京ミラクル」、正月の特番ドラマも「家康、江戸を建てる」だ。
なんで東京ばかりやねんと思いながら僕も東京の魚食文化の歴史についての本を読んでみた。
魚の流通といえば築地の中央卸売市場だが、あそこは関東大震災のときに日本橋にあった魚河岸が移転してきたものだ。その魚河岸の発祥というのが、将軍家に魚を献上していたご用達の網元たちが残った魚を売りさばくために立ち上げた市場であった。そして、その御用達という人たちは徳川家康が摂津だから大阪市北部あたりの佃という在所から呼び寄せた漁師たちであったそうだ。
食材としての魚と言うのは管理が大変だ。人口が少ないときには江戸湾内で漁獲で十分まかなえてはいたけれどもそうも行かなくなってくると、房総や相模からも流通させなくてはならなくなってくる。本来、貨物の流通は治安取り締まりのために、中継地点を設けて江戸市中に直接入らないように管理されていたそうだが、魚ではそうも行かないので特別な鑑札をもって一気に魚河岸まで運んでいたそうだ。それを「通し馬」制度というのだが、それでも鮮度は落ちる。とくに脂の多い魚は足が速い。マグロは下魚であったというのは鮮度が保てないという理由であった。そして、魚の保存のために生まれたのが塩蔵や干物、佃煮の文化なのである。
市場が大きくなって仲買業者が増えてくると新規参入も増えてくる。そこで威勢を放ったのは大和屋助五郎という奈良出身の仲買商であった。助五郎は真鯛を生かしたままストックして必要なときに必要なだけ将軍家に献上できるシステムを作ったことでのし上がってきたそうだ。
漁獲のいろいろな方法を関東に伝えたのは紀州をはじめとした関西の漁師たちという話は有名だが、この真鯛の蓄養についても、沖で上げた真鯛の空気抜きを発明したのも紀州の漁師だったそうである。助五郎もそういう人たちのひとりである。
そこはもう、お上の威光を背にした特権組と外部から入ってきた新興勢力とのせめぎ合いと覇権争いの世界であった。
時代は下って明治からは軍事目的のため、それからの高度成長を支ええるための海浜の埋め立てによって江戸前の漁業は成り立たなくなり、昭和37年12月に東京湾の漁業権はすべて放棄されたそうだ。
江戸では鮨、うなぎ、天ぷらなど様々な食文化が花開いてゆくわけだけれども、うなぎの蒲焼というのは、「江戸前」という言葉の発祥となったほど、最初は高級料理(というか、こだわりの強い)料理であったが、鮨や、天ぷら、懐石料理というのは振売や屋台といったところで庶民が食べる気軽な食べ物であったものがどんどん格式が高くなっていった。今でも蒲焼の専門店に行くとそこそこ格式が高いのだろうがほとんどのお店は座敷まではなかなか用意をしていないだろう。そう考えると、うなぎは上から下へ降りてきて、鮨や天ぷらは下から上に上っていった料理のようである。
漁法しかり、魚河岸のシステムを作り上げた人々にしろ、そのほとんどが京や大阪の上方が由来になっていることがよくわかる。料理にしても、鮨の起源は琵琶湖だし、うなぎを開いて食べる方法も関西からだ、天ぷらも上方から駆け落ちしてきた大阪商人利助と芸妓が京で流行っていた料理を屋台で始めた料理が最初だそうだ。
江戸ではそれに磨きをかけてまた改良を加えて自らの独自の文化にして仕立ててきたのだが、たまたまこの本は魚にまつわる話で、恐らくは農業にしても芸術にしてもその他諸々もとは外部、特に上方の影響を色濃く受けていそうだ。そしていつの間にかオリジナルの方をはるかに追い越してしまっている。
じゃあ、そこがどうして江戸だったのか。幕府が開かれたのが江戸であったというのはその大きな理由だろうけれども、政治の中心と経済の中心が別の都市になっている国はたくさんある。
歴史にはまったく疎いのでまったくの想像であるけれども、徳川家康は秀吉に遠ざけられて江戸に転封された。その頃は江戸の町というのはほぼ荒地しかなかったそうだ。(と正月時代劇では言っていた。)こういう人が大逆転して天下を取ったという例は多分世界中見ても希なのではないだろうか。
正月時代劇では、市村正親が、「ここを日の本一の都市にしてみせる!」と言っていたのだが、その根底には、自分をこんな辺鄙なところへ追いやった秀吉、それに加えて京や大阪への恨みがあったのは間違いがないだろう。多分、その執念が江戸を巨大化させ、日本のすべてのものを吸い寄せるブラックホールにしてしまったのではないかと思うのだ。
何かにつけて、東京一極集中ということが話題になるけれども、きっとそれは関西の文化圏から弾き飛ばされた家康の怨念とあきらめ、なんのことはない、すべての下地はこっちにあるんだと言って少しだけ溜飲を下げてみるのが負けたほうの生き方なのだろうと思うのだ。