イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

『「無」の科学』読了

2021年05月24日 | 2021読書
ジェレミー・ウェッブ/著 水谷 淳/訳 『「無」の科学』読了

真っ黒な地に、「無」と書かれた表紙が印象的だった。人間生活では、無意味、無関心、無気力とネガティブなイメージがある。まあ、僕みたいな人間だ。仏教の世界だと仏の世界の広がりの大きさを表すありがたい言葉だったりする。
だから、「無」という文字は、”何もない”という意味と”最も大きい”という意味を持っていそうだが、そのうち、”何もない”方の意味合いにしぼっていくつかのことがらについて書かれている。
この本は「ニュー・サイエンティスト」という雑誌に連載されたものをまとめたもので、著者はその編集長をしていた人だそうだ。

取り上げられたテーマは、宇宙から生物学、数学など幅が広い。
その中で、「無」「何もない」というキーワードを元に話題を取り出している。
例えば、無の世界から始まった宇宙でおこるさまざまなこと話。生物学では薬も何も使わなくても治ってしまうという自己治癒(プラシーボ効果)や何もしないことについておこるさまざまなことについて、数学では無そのものである「0」について。そんな感じで、それぞれの話題から派生してゆく話題、そんなことがテーマごとではなく細切れに編集されているので大体が読みながら同時進行で感想文を書いている僕にとってははなはだ書きにくい。この本でもひとつのテーマが終わるごとに、もっと詳しく、もしくは関連したテーマを知りたかったらOOページから読んでください。と書かれているくらいだ。

だから今回は、取り上げられている話題の中から、これは知らなかった、これは面白いという項目を抜き出して書き残していきたいと思う。
まずは宇宙について。
重力
太陽系で、各星の重力の影響を受けずにいられるところをラグランジュポイントという。ガンダムの世界でスペースコロニーが建造されている地点だ。
ここに出てくるのは「重力地形」というものだ。これは、星々からうける重力が同じ地点を結ぶと等高線のような形になるというものだ。太陽では標高が最大になり、ラグランジュポイントではそれが0になるという具合らしい。そして、その重力の等高線に沿って宇宙船が進む場合、推力が必要なくなるという。等高線と同じだからそれはどこまでも続いている。経済的な未来の宇宙船はおそらく重力地形をたどりながら太陽系内を旅することになる。違うところに行きたければ違う等高線に移動するためだけに推力を使う。ただ、この方法だと素早い動きができず、どこへ行くにもものすごい日数が必要になるらしい。はたして効率一辺倒の世の中で受け入れられるだろうか・・。この技術が実用化されている時代はきっと心身ともに平和な時代に違いない。

真空
真空には真の真空というものがないらしい。それは宇宙の中でも同じで、空間の中にはどこを切り出しても数個の原子が漂っているという。それとは別に、宇宙空間では、常に粒子が生まれては消滅しているという沸騰状態が真空の真実の姿であるというのが量子論から導き出せる結果だ。
真空の中の力に「カシミール効果」というものがある。非常に小さい距離を隔てて設置された二枚の平面金属板が真空中で互いに引き合う現象をいうのであるが、真空のゆらぎがその力の元になっているそうなのだが、何もないものが揺らぐという時点でなんだか矛盾していると思うのは凡人の限界を示しているということなのだろう。
将来的にはナノマシンを作るときに重要になってくるらしい。

絶対零度
摂氏マイナス273.15度、これが絶対零度だ。高温というのは限りなく高い温度があるけれども、低温はこれ以下はない。すべての物質の振動が停止し何も動かなくなってしまうので下がりようがない。そもそも、温度とは物質の振動から生まれるなどということを知らなかった。僕の体温はどこが振動しているのだろうか・・。
絶対零度は実現できないそうだが、限りなく近づくことはできる。ヘリウムや水素を液体にまでしてやるとこんな状態になる。そこでは、それぞれの原子は超流動体というものになる。摩擦係数がゼロになり、粘性がなくなり、容器の壁を上ったりするらしい。まるで妖怪人間ベムのようだ。そして超電導の性質を持つ。こんな状態になると、今度はちょっとやそっとじゃ温度が上がらなくなるらしい。放っておいても冷たいままというのはどういうことなのだろうか・・。
絶対零度というと、「三体」にも出てくる。三体文明が太陽系に送り込んだ小型トラックほどの大きさの探査機は殻壁が絶対零度の金属でできており、それは原子が運動していないので超緻密構造が実現されており、どんな衝撃に対しても耐えられるというものだった。宇宙戦艦も貫通してゆくというすさまじい威力を持っていたが、そこまで冷えていると、ボディの中も絶対零度ですべての原子の活動が止まってしまって、機械として機能していないんじゃないかと心配になってくるのだが・・。

生物学について、
自己治癒
プラシーボ効果のお話である。何もしなくても病気を治すことができることがある。「これは効きますよ。」と言われるとその気になって砂糖水でも病気が治るのである。それは、信頼や瞑想から生まれてくるという。信頼とは医師への信頼、そういったものだ。瞑想はストレスを和らげるような脳構造の変化をもたらす。それが成長ホルモンや性ホルモンの放出をうながし、健康増進の経路が強まるという。
薬の効果を調べる治験というのは、このプラシーボ効果を限りなく排除するという目的があるらしい。新薬の治験というのは、数年間の長さと数万人単位を対象にして実験されるが、それほどプラシーボ効果というのはよく顔を出してくるということらしい。
コロナウィルスのワクチンは早々に認証されたが、これらの薬についてのプラシーボ効果はどうだったんだろう。まあ、打ってもらったら効くんだという思い込みだけでもこの際重要なのかもしれない。
そして、僕は逆に、どんな薬でも、こんなの効くの?っていつも思っている。だから風邪ひきの薬を飲んでも一向によくならないのだと分かってしまった。
逆に、暗示や催眠術で人を病気にさせたり、人を死に至らしめることができてしまうというのである。「あなたは仕事ができない。」なんて言われ続けるとどんどんその通りになってゆく。薬は効かないと思ってもそういうことは暗示にかかるというのだから僕は矛盾しているのだ・・。
この解釈を広げると、「魚が釣れる。」という自己暗示はどこまで効果があるのかということを調べてみたくなる。ただ、これは難しい証明だ。何をしても釣れないのだから・・。

麻酔
麻酔というのは、どのように薬が作用するのかいまだにわかっていないそうだ。それはなぜかというと、「意識」のメカニズムがわかっていないからだそうなのである。意識はどうして人間の心(頭?)の中に発生するかがわからないかぎりそれはわからないというのは、もう、神の領域に入ってしまわねばならないということなのだろうか・・。
ただ、麻酔薬は確かに存在し、『メカニズムがわからないままで年間何億人もの患者を死に至らないぎりぎりの瀬戸際へ導くのだから敬意に値する。』と著者はいうのであるが、これもどれだけ麻酔薬が効くかということを信じることが重要だとなってくるとしたら、いざというとき、僕は大丈夫だろうか?遠藤周作は麻酔が効き始める前に手術されたということを聞いたことがあるが、なんだか恐ろしい・・。
面白い話としては、麻酔薬の効果について、『オリーブオイルにどれだけ良く溶けるかとのあいだには強い相関関係がある。』そうだ。

何もしないことと何かをすること
運動をすることによる効果についても書かれていた。まあ、直感的にそうなんだろうなと思うので特に書くべきこともないのであるが、どうしてそういうことが立証されたかというのは、宇宙開発のためであったらしい。人間が長期間、宇宙船のような閉鎖された空間で過ごすと、体の中でどんな変化が起こるかという実験からであったそうだ。
3週間何もしないでベッドに寝続けると最大酸素摂取量は28%減少、1回心拍出量は25%減少したというのがその時の結果だったそうだ。その後、55時間のトレーニングを続けることでその機能はもとに戻った。
心臓の手術をした人でもすぐにリハビリを始めさせられるようになったのはこういった研究の成果であったらしい。
そして、この実験には30年後に続きがあって、当時、被験者になったひとが再びトレーニングに挑み、6ヶ月以内に最大酸素摂取量が当時の数値に戻ったという。年齢に関係なく、運動をすることで健康を取り戻すことができるという証拠なのだそうだ。
また、糖尿病、ガン、記憶力に改善にもつながるというけれども、そんなに運動している暇がない・・。というのが現実だ。
まあ、そこで、言い訳として、伊達政宗の「五常訓」が役に立つ。
『元来、客の身なれば好き嫌いは申されまい。今日の行くを送り、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申するがよし。』
これは、しょせん、この世へは、客人として招かれただけに過ぎない。日々を普通に過ごして子供、兄弟に、あとはよろしくねと伝えてこの世からおさらばするだけでいいんですよ。みたいな意味だと思うのだが、ただそれだけなのだから健康、健康と躍起にならなくてもいいだろうというものだ。
そういえば、師も、「入ってきて人生と呼び、出て行って死と呼ぶ。」なんて言っていた。

0(ゼロ)について
「ゼロ(0)」の概念は、元々は位取りを簡単にするために、紀元前300年前ごろにバビロニアで考え出されたが、以来、16世紀なるまで一般的に使われることはなかった。1299年には、ゼロを増やしたり減らしたりすることで取引に不正が行われるということで使用が禁止されたそうだ。
インドでは負の数の観念とともに、「座標の不動の点」としての意味付けが生まれた。位取りの中では何もないところにも0を入れることから、ものがないという概念に発展する。
そして、同じくインドのプラーマグプタは、0を数の性質をもつものして扱い始めた。計算のための数値のひとつにしたのである。
なんだか、0は0であって、座標の原点とか、位取りの記号とか、0という数値とか色々な意味があるなどということはまったく考えてもみなかった。
この、数値という意味の0は厄介だ。こんな考え方が成り立つ。
0÷1はどんな数に1を掛けると0になるかという意味と同じである。
それはゼロである。
それを発展させ、0÷0を考える。
これはどんな数に0を掛けると0になるかということを表すが、当然0である。
この、「どんな数に0を掛けると0になる」という部分だけを考えると、その数はいくらでもある。1でも2でもよいということになる。
そうなると、1=2という等式が成り立ってしまうと考えられてしまう。
これは厄介だ。
そして、実は、この厄介を解決するのが微積分らしいのだが、そこの部分は読んでいてもまったくわからないのである。

と、こんなことのほかにも色々な話題が出てくる。ひとつひとつの章が短くて読みやすく、最初はテーマがバラバラだと思ったが、それぞれが独立したトピックだと思えば途中から読むのにも苦がなくなった。
ただ、感想文としてはまったく支離滅裂になってしまったのは否めない・・。

この本の主題とはまったく関係がないが、こんな言葉も気になった。
『探せ、さらば見出すであろう、という聖書の言葉に従え。しかし、汝が探すものを見つけるがために探すなかれ』
コメント (2)
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