ダン リスキン/著 小山 重郎/訳 「母なる自然があなたを殺そうとしている」読了
なかなかセンセーショナルなタイトルで、プロローグはヒトヒフバエのウジムシに寄生された著者の体験談から始まる。
ヒトヒフバエは蚊やハエの体に卵を産み、そいつらが人間にくっ付いたときに卵が皮膚に乗り移ってそこで孵化して人間の皮膚の中に潜り込んで成長するそうだ。ネットでその姿を調べてみると、もう、思い出すだけでもおぞましい姿をしている。
著者はそれをベリーズでのフィールド調査の際にもらってきたらしく、手術をして取り除く必要があったという。
そういう体験からかどうかはわからないが、自然志向を是とする世の中に対して警鐘というか、皮肉たっぷりにそういう志向を揶揄している。
それはこんな言葉からうかがえる。
『私達が現代的問題から逃れるためには、我々のルーツに戻って人間が数千年前に行っていたできるだけ単純な行動/食事/生活に戻ることだと言われてきたが、数千年前の人々が30歳台までしか生きられなかったという基本的なことを無視している。』
確かに自然というものは優しいだけではなく危険や恐怖を感じさせる一面を持つというのは誰でも知っているし、だからと言ってすべての人が自然に背を向けているわけでもない。現代の文明は自然の恐怖の部分からは逃れて、そのいいところだけを享受するすべをすでに手に入れている。だから寿命も数千年前から倍以上に伸びたのだ。だからそうやって自然の素晴らしい部分だけを喫すればそれでいいと思うのだが、著者は相当な皮肉屋かそれとも、こういった編集方法とタイトルを使えばちょっと変わった動物の習性や逃れられないDNAがもたらす性(本当にそんなものがあるのなら・・)を書くにしても本が売れるかもしれないという打算があったのかどちらかだろうと思うのだ。著者は生物学者なので自然現象の恐怖みたいなものにはまったく触れられていない。
内容については、人間が直接、何かの油断の末に被ってしまうような危険な生物の紹介はごくわずかで、ほとんどが奇妙な生態をもつ生物の紹介となっている。そこのところはタイトルの趣旨とはかなりかけ離れているのであるが、そういった生物の紹介や行動の部分も面白いといえば面白い。
その編集方法も凝っていて、人類に破壊をもたらすとされるキリスト教の「七つの大罪」になぞらえてまとめている。
こういう罪になぞらえているというということは、少し油断をすればあなたも危険な自然の一面の犠牲になりますよ。ということなのかもしれないが、この本に書かれているような生物に遭遇するためにはかなりディープな場所にまで行かないと無理なような気がする。
それよりもアニサキスやマダニのほうが僕にとっては身近な存在なのである。
その七つの大罪に沿って内容を書いていきたいと思う。
① 貪欲
この罪では生物の生き残りのための行動について書かれている。
動物が時に見せる、共同作業的な行動は感動的なものなのではなく、個別のエゴイスティックな行動の積み重ねがそのように見えるだけなのである。
有名な皇帝ペンギンの越冬行動は、映画では寒さに耐えるため、みんながひと固まりになって、一致団結、順番に外にいる仲間を塊の内側に引き込む代わりに中心にいる仲間が外に出て仲間を寒さから守っているというのだが、その本当の行動原理は外側にいる、寒くて仕方がない個体が暖を取ろうと強引に中に入ろうとして中の個体たちが外にはじき出されるという動きの繰り返しが交代々々に寒さに耐えているというけなげな姿に見えるだけであるというのだ。
羊の群れもそうで、敵がやって来るとひと固まりになって逃げ惑うが、これも、自分よりも1匹だけ遅い羊が喰われてくれると残りはみんな助かるから一匹だけには勝とうという走り方が自然とひとつの塊をつくっているだけで、しょせんは個々が生き残りたいというだけなのである。
しかし、人間だけはちょっと違う。全員がエゴイスティックな行動をすると、大体は体力に勝る雄が生き残る可能性が高くなる。しかし、人間には女子供は守ってやるべきだという考えがあったりする。タイタニック号の事故では、女性の生還率が70%だったのに対して男性の生還率はわずか20%だったそうだ。
そこはある意味、男にとっては自然が守ってくれない危険な部分であると言えなくもない。
② 情欲
この罪以降では、生物はDNAに操られた「生体ロボット」であるという考えを基にして話が進められる。この考えはリチャード・ドーキンスの、「利己的な遺伝子」という本で有名になったけれども、DNAが自身の遺伝情報を未来に伝えていくために人間を危険な目に遭わせているというのだ。
例えば、自然分娩の危険性、これは近代的な社会で医療が発達して母子ともに命の危険はほとんどないが、そういう手助けがない世界そこでは出産というのは非常に危険が伴うものである。また、ある種のクモたちは交尾のあとオスはメスに喰われるという危険を冒してまで交尾に臨む。そういう危険を承知で繁殖行動をするというのはDNAのなせるわざだというのが著者の見解だ。
子孫を残すということと情欲の関連性については微妙だが、人間には子供を長期間育てるというおこないがあるが、それについて、面白い見解があった。
『究極的に、偉大なDNAを見つけようとする行動は全デートゲーム(交尾相手を見つけること)の基礎をなしている。人間にとって、ロマンティックな愛はその不可欠な部分である。しかし、ロマンスには真に「自然な」ものではない。それは大部分の動物の性生活にはないものである。』
子供を成長させるには時間がかかるが、『人間の子供時代が長いことが私達がロマンティックな愛を持っている唯一の理由である。』
なるほど、と思える見解である。
③ 怠惰
この罪では寄生虫について書かれている。寄生虫というのは、宿主には何の利益も供与せずに自分だけ恩恵を被っている存在のことをいう。お互いに利益供与し合うもの同士は共生という。寄生虫が怠惰な存在かどうかというのは疑問だが、プロローグのヒトヒフバエといい、この章に登場するトキソプラズマといい、なかなか容姿もやっていることもグロテスクな存在である。
寄生者のいない動物種を見つけることは決してないというほど動物には寄生虫がくっ付いているらしく、僕の体のどこかにも何かがくっ付いてるのかと思うとゾッとする。しかし、よく考えたら、僕も会社の寄生虫なので会社をゾッとさせているのかと思うと申し訳ないと思ったりする。
生きた宿主の体内に卵を産む動物を「捕食寄生者」と呼ぶ。こういう生物も恐ろしいが、昆虫を例にとると、すべての昆虫種のうち、10%を占めるらしい。普通の生活をしていると、出会うことはないけれどもそんな恐ろしい生き物もかなりポピュラーな存在だそうだ。こういうところにも、DNAの利己的な部分が現れているのかもしれない。
④ 暴食
この罪では、食べること、もしくは体の中に別の生物を取り込むことによって新たな能力を得るということについて書かれているのだが、やっぱりこれもなぜ”罪”としなければならないにかというのは疑問である。
人間はカロリーの90%以上を25万種の植物のうちにたった14種類から得ているそうだ。ほとんどの植物は毒を持っているか、人間が消化することができない成分を持っている。そんな中、細心の注意をはらって食べてきたというのが人間が植物を食べてきた歴史である。それは人間が生き延びるためにやってきたというだけであり、例えば生きた動物を殺して食べるということも同じで、他の生物の命を奪うということが罪というのならそれも認めるしかない。人間には他の動物が持っていない罪という意識を持ってしまったというのは確かなことだ。
著者はそういった罪についてこんな書き方をしている。
『菜食主義はより自然主義だが、我々はカエルを食べるコウモリを非難しない。ならばどうして肉を食べる人間が非難されなければならないのか・・。』
だから、この罪は人間が自分自身に与えた罪ということになる。
⑤ 嫉妬
この罪については、動物がおこなう横取りや盗みについて書かれている。人間がほかのひとから食べ物を盗むと罪になるが、動物がテレビでそういう行為をしているところを見ても特に何も思わない。釣りの世界では魚のそういう習性を利用して魚を釣っているのは間違いがない。これには異論があるかもしれないが、魚が1匹だけしかいないところで目の前にルアーを通してやってもまず食いつかない。これが2匹いるところだと、どちらか1匹が興味を示すと別の1匹が盗られるものかとルアーに食いつくという場面はよくあることなのである。これが嫉妬という感情なのかどうかはわからないし、この章ではサルの嫉妬の実験というのが取り上げられているが、これも、読んでいるだけではこじつけすぎていて、やっぱり嫉妬などという罪は人間だけが持っているとしか思えないのである。
⑥ 怒り
この罪では、相手に苦痛を与えるという行為を取り上げている。
例えば、シャチは狩りをした相手を食べやすくするため、動かなくなるまで相手を痛めつけるそうだ。そこには容赦のない怒りが存在するようにも見えるというが、一方、著者は、『餌の痛みや苦痛を最小にすることには何の利益もない。なぜなら進化は利己主義を好むからだ。』とも書いていて、『自然は、動物から想像できない痛みと苦痛を互いに浴びせかける場所となってきた。』とも書いている。毒液を持った動物は、防御のため、もしくは狩りをした相手を動かなくさせるために苦痛を与えるが、それも自然の世界の普通の姿なのである。
⑦自惚れ
この罪のところまできて、やっと著者がどうして自然界での生物の行動を「罪」に例えてきたかということがわかってきた。
これらの罪というのは、すべて、知性をもった人間だけが罪として感じるものであって、どの生物もそれが罪なことだとはまったく感じていない。
残酷と思えることでもそれは自然界で生物が生きていくためには当たり前のことであるが、そういう知性をもった人間が、「自然主義」とか「ナチュラルに生きる」というのは実は非常に不自然なことであると言いたいようだ。
利己的という言葉も人間世界ではエゴイスティックで非人間的な考えだと思われるが、『その動物がDNAの利益を上回るコストで自らを犠牲にする実例は1つもない。動物は利己的である。従って、「ひもつき」でない純粋な愛は存在することができない。しかし、人はそうではない。それについては少しの自惚れを持ってもいいのではないだろうか。私達は動物であるが、彼らのように行動する必要はない。』と著者は言い、科学技術を含め、人間しか持っていない能力をそれは不自然だからという理由で否定するのは間違っているというのである。例えば、遺伝子組み換え食品を否定する人は、今後も増え続ける人口を養っていくには人間が手を加えた食材を使わない限り限りなく自然を圧迫し続けるということを認識しなければならないというのである。
この手の著作というのは、自然であることが最良で人工的なものは悪であるという論調が多いけれども、そもそも人類だけが自然界の中で不自然な存在なのだからその能力をいかんなく発揮して自然のなかで折り合いをつけて存在していくべきなのだという考えは新鮮であったのだ。
最初は本の編集のやりかたが奇をてらいすぎているのじゃないかと思ったけれども、そこに深い意味を隠していたというのは編集の妙であるといえるんじゃないかとさすがにプロは違うと感心してしまったのである。
なかなかセンセーショナルなタイトルで、プロローグはヒトヒフバエのウジムシに寄生された著者の体験談から始まる。
ヒトヒフバエは蚊やハエの体に卵を産み、そいつらが人間にくっ付いたときに卵が皮膚に乗り移ってそこで孵化して人間の皮膚の中に潜り込んで成長するそうだ。ネットでその姿を調べてみると、もう、思い出すだけでもおぞましい姿をしている。
著者はそれをベリーズでのフィールド調査の際にもらってきたらしく、手術をして取り除く必要があったという。
そういう体験からかどうかはわからないが、自然志向を是とする世の中に対して警鐘というか、皮肉たっぷりにそういう志向を揶揄している。
それはこんな言葉からうかがえる。
『私達が現代的問題から逃れるためには、我々のルーツに戻って人間が数千年前に行っていたできるだけ単純な行動/食事/生活に戻ることだと言われてきたが、数千年前の人々が30歳台までしか生きられなかったという基本的なことを無視している。』
確かに自然というものは優しいだけではなく危険や恐怖を感じさせる一面を持つというのは誰でも知っているし、だからと言ってすべての人が自然に背を向けているわけでもない。現代の文明は自然の恐怖の部分からは逃れて、そのいいところだけを享受するすべをすでに手に入れている。だから寿命も数千年前から倍以上に伸びたのだ。だからそうやって自然の素晴らしい部分だけを喫すればそれでいいと思うのだが、著者は相当な皮肉屋かそれとも、こういった編集方法とタイトルを使えばちょっと変わった動物の習性や逃れられないDNAがもたらす性(本当にそんなものがあるのなら・・)を書くにしても本が売れるかもしれないという打算があったのかどちらかだろうと思うのだ。著者は生物学者なので自然現象の恐怖みたいなものにはまったく触れられていない。
内容については、人間が直接、何かの油断の末に被ってしまうような危険な生物の紹介はごくわずかで、ほとんどが奇妙な生態をもつ生物の紹介となっている。そこのところはタイトルの趣旨とはかなりかけ離れているのであるが、そういった生物の紹介や行動の部分も面白いといえば面白い。
その編集方法も凝っていて、人類に破壊をもたらすとされるキリスト教の「七つの大罪」になぞらえてまとめている。
こういう罪になぞらえているというということは、少し油断をすればあなたも危険な自然の一面の犠牲になりますよ。ということなのかもしれないが、この本に書かれているような生物に遭遇するためにはかなりディープな場所にまで行かないと無理なような気がする。
それよりもアニサキスやマダニのほうが僕にとっては身近な存在なのである。
その七つの大罪に沿って内容を書いていきたいと思う。
① 貪欲
この罪では生物の生き残りのための行動について書かれている。
動物が時に見せる、共同作業的な行動は感動的なものなのではなく、個別のエゴイスティックな行動の積み重ねがそのように見えるだけなのである。
有名な皇帝ペンギンの越冬行動は、映画では寒さに耐えるため、みんながひと固まりになって、一致団結、順番に外にいる仲間を塊の内側に引き込む代わりに中心にいる仲間が外に出て仲間を寒さから守っているというのだが、その本当の行動原理は外側にいる、寒くて仕方がない個体が暖を取ろうと強引に中に入ろうとして中の個体たちが外にはじき出されるという動きの繰り返しが交代々々に寒さに耐えているというけなげな姿に見えるだけであるというのだ。
羊の群れもそうで、敵がやって来るとひと固まりになって逃げ惑うが、これも、自分よりも1匹だけ遅い羊が喰われてくれると残りはみんな助かるから一匹だけには勝とうという走り方が自然とひとつの塊をつくっているだけで、しょせんは個々が生き残りたいというだけなのである。
しかし、人間だけはちょっと違う。全員がエゴイスティックな行動をすると、大体は体力に勝る雄が生き残る可能性が高くなる。しかし、人間には女子供は守ってやるべきだという考えがあったりする。タイタニック号の事故では、女性の生還率が70%だったのに対して男性の生還率はわずか20%だったそうだ。
そこはある意味、男にとっては自然が守ってくれない危険な部分であると言えなくもない。
② 情欲
この罪以降では、生物はDNAに操られた「生体ロボット」であるという考えを基にして話が進められる。この考えはリチャード・ドーキンスの、「利己的な遺伝子」という本で有名になったけれども、DNAが自身の遺伝情報を未来に伝えていくために人間を危険な目に遭わせているというのだ。
例えば、自然分娩の危険性、これは近代的な社会で医療が発達して母子ともに命の危険はほとんどないが、そういう手助けがない世界そこでは出産というのは非常に危険が伴うものである。また、ある種のクモたちは交尾のあとオスはメスに喰われるという危険を冒してまで交尾に臨む。そういう危険を承知で繁殖行動をするというのはDNAのなせるわざだというのが著者の見解だ。
子孫を残すということと情欲の関連性については微妙だが、人間には子供を長期間育てるというおこないがあるが、それについて、面白い見解があった。
『究極的に、偉大なDNAを見つけようとする行動は全デートゲーム(交尾相手を見つけること)の基礎をなしている。人間にとって、ロマンティックな愛はその不可欠な部分である。しかし、ロマンスには真に「自然な」ものではない。それは大部分の動物の性生活にはないものである。』
子供を成長させるには時間がかかるが、『人間の子供時代が長いことが私達がロマンティックな愛を持っている唯一の理由である。』
なるほど、と思える見解である。
③ 怠惰
この罪では寄生虫について書かれている。寄生虫というのは、宿主には何の利益も供与せずに自分だけ恩恵を被っている存在のことをいう。お互いに利益供与し合うもの同士は共生という。寄生虫が怠惰な存在かどうかというのは疑問だが、プロローグのヒトヒフバエといい、この章に登場するトキソプラズマといい、なかなか容姿もやっていることもグロテスクな存在である。
寄生者のいない動物種を見つけることは決してないというほど動物には寄生虫がくっ付いているらしく、僕の体のどこかにも何かがくっ付いてるのかと思うとゾッとする。しかし、よく考えたら、僕も会社の寄生虫なので会社をゾッとさせているのかと思うと申し訳ないと思ったりする。
生きた宿主の体内に卵を産む動物を「捕食寄生者」と呼ぶ。こういう生物も恐ろしいが、昆虫を例にとると、すべての昆虫種のうち、10%を占めるらしい。普通の生活をしていると、出会うことはないけれどもそんな恐ろしい生き物もかなりポピュラーな存在だそうだ。こういうところにも、DNAの利己的な部分が現れているのかもしれない。
④ 暴食
この罪では、食べること、もしくは体の中に別の生物を取り込むことによって新たな能力を得るということについて書かれているのだが、やっぱりこれもなぜ”罪”としなければならないにかというのは疑問である。
人間はカロリーの90%以上を25万種の植物のうちにたった14種類から得ているそうだ。ほとんどの植物は毒を持っているか、人間が消化することができない成分を持っている。そんな中、細心の注意をはらって食べてきたというのが人間が植物を食べてきた歴史である。それは人間が生き延びるためにやってきたというだけであり、例えば生きた動物を殺して食べるということも同じで、他の生物の命を奪うということが罪というのならそれも認めるしかない。人間には他の動物が持っていない罪という意識を持ってしまったというのは確かなことだ。
著者はそういった罪についてこんな書き方をしている。
『菜食主義はより自然主義だが、我々はカエルを食べるコウモリを非難しない。ならばどうして肉を食べる人間が非難されなければならないのか・・。』
だから、この罪は人間が自分自身に与えた罪ということになる。
⑤ 嫉妬
この罪については、動物がおこなう横取りや盗みについて書かれている。人間がほかのひとから食べ物を盗むと罪になるが、動物がテレビでそういう行為をしているところを見ても特に何も思わない。釣りの世界では魚のそういう習性を利用して魚を釣っているのは間違いがない。これには異論があるかもしれないが、魚が1匹だけしかいないところで目の前にルアーを通してやってもまず食いつかない。これが2匹いるところだと、どちらか1匹が興味を示すと別の1匹が盗られるものかとルアーに食いつくという場面はよくあることなのである。これが嫉妬という感情なのかどうかはわからないし、この章ではサルの嫉妬の実験というのが取り上げられているが、これも、読んでいるだけではこじつけすぎていて、やっぱり嫉妬などという罪は人間だけが持っているとしか思えないのである。
⑥ 怒り
この罪では、相手に苦痛を与えるという行為を取り上げている。
例えば、シャチは狩りをした相手を食べやすくするため、動かなくなるまで相手を痛めつけるそうだ。そこには容赦のない怒りが存在するようにも見えるというが、一方、著者は、『餌の痛みや苦痛を最小にすることには何の利益もない。なぜなら進化は利己主義を好むからだ。』とも書いていて、『自然は、動物から想像できない痛みと苦痛を互いに浴びせかける場所となってきた。』とも書いている。毒液を持った動物は、防御のため、もしくは狩りをした相手を動かなくさせるために苦痛を与えるが、それも自然の世界の普通の姿なのである。
⑦自惚れ
この罪のところまできて、やっと著者がどうして自然界での生物の行動を「罪」に例えてきたかということがわかってきた。
これらの罪というのは、すべて、知性をもった人間だけが罪として感じるものであって、どの生物もそれが罪なことだとはまったく感じていない。
残酷と思えることでもそれは自然界で生物が生きていくためには当たり前のことであるが、そういう知性をもった人間が、「自然主義」とか「ナチュラルに生きる」というのは実は非常に不自然なことであると言いたいようだ。
利己的という言葉も人間世界ではエゴイスティックで非人間的な考えだと思われるが、『その動物がDNAの利益を上回るコストで自らを犠牲にする実例は1つもない。動物は利己的である。従って、「ひもつき」でない純粋な愛は存在することができない。しかし、人はそうではない。それについては少しの自惚れを持ってもいいのではないだろうか。私達は動物であるが、彼らのように行動する必要はない。』と著者は言い、科学技術を含め、人間しか持っていない能力をそれは不自然だからという理由で否定するのは間違っているというのである。例えば、遺伝子組み換え食品を否定する人は、今後も増え続ける人口を養っていくには人間が手を加えた食材を使わない限り限りなく自然を圧迫し続けるということを認識しなければならないというのである。
この手の著作というのは、自然であることが最良で人工的なものは悪であるという論調が多いけれども、そもそも人類だけが自然界の中で不自然な存在なのだからその能力をいかんなく発揮して自然のなかで折り合いをつけて存在していくべきなのだという考えは新鮮であったのだ。
最初は本の編集のやりかたが奇をてらいすぎているのじゃないかと思ったけれども、そこに深い意味を隠していたというのは編集の妙であるといえるんじゃないかとさすがにプロは違うと感心してしまったのである。