暮しの手帖編集部/編 「美味しいと懐かしい 随筆集 あなたの暮らしを教えてください (随筆集 あなたの暮らしを教えてください 4) 」読了
「暮しの手帖」というと、朝ドラ「とと姉ちゃん」を思い出す。このドラマのモデルになったのは創刊時の編集者と、カリスマ編集長であった花森安治なのだが、今年で創刊75周年になるそうだ。雑誌がどんどん廃刊になる中、広告収入一切なしで雑誌を作り続けているのだから、これはきっとかなり奇跡的なことなのではないかと思う。
この本は、その75周年を記念して、連載されてきた随筆を選び出し4冊の随筆集として出版されたものの1冊だ。この本があまりにもよくできていたのか、電車の中で熱中しすぎて乗換駅を乗り過ごしてしまい、そのおかげで最後の乗換駅で時間をもてあましてしまったので駅ビルの本屋に行って初めて「暮らしの手帖」を手にとってみた。
掲載されていた随筆はA4サイズの雑誌のちょうど1ページ分(単行本では2ページ半)の短いものだったが、著者それぞれの思いが濃縮されているという感じだ。
花森安治の影響力が今にも続いているのか、芥川賞、直木賞作家、その他いろいろな文学賞を取った作家や科学者、俳優、各分野で一流の人たちが原稿を寄せている。まさに珠玉の随筆集と言えるのではないかと思う。すべての人の名前を知っていたわけではないが、著者紹介を読んでみると、あの本の著者だったのかとか、映画化されたものを観たことがあるぞとかいうことがいっぱい出てくる。本当に実力派ぞろいだ。だから、読み始めるとどんどんのめり込んでしまう。テーマが「食」に関することなので余計である。
収録されているエッセイを読んでいると、人との和=食の和ではないのかと思う。例えば、夫婦は元は他人同士だが、うまくいくには食の部分に共通ものがなければダメなのではないだろうか。集合のベン図の重なる部分が大きければよいがその部分が少ないと・・。
芸能人がすぐに別れてしまうのはまったく違う世界で生きてきた人たちが集まってきた世界の中で結婚しても食の部分で共通するものがほとんどないからに違いない。歌舞伎役者なんかはその典型で、ものすごく高級な食事をしている人たちの中に庶民が入っていってもうまくやっていけるわけがない。
大体、この人がどんなものを食べているかということが分かると、その人がどんな生き方をしてきたかということもわかるような気がする。器用な人は自分の嗜好を変えてゆくことができるのだろうがそんな人ばかりではない。
そして、長らく同じ食の志向を持っていたと思っていてもそれが違っていたとわかるときがある。そうなってしまうと、食事の時に急に会話がなくなる。
もう、相手のことを信じることができなくなるのである。
他人に対しても同じで、僕は人から食べ物をもらったときはまず断らない。むしろ喜んで受け取るほうだ。それは、あなたの好きなものを私も好きなのですという僕なりの表現でもある。日本人としては、一応、遠慮しておいてから改めてありがたくいただくという形をとるべきなのだろうから、まったく遠慮しない礼儀知らずだと思われているのかもしれないが、それが最適な表現だと思っている。
言葉の通じない異国の相手に受け入れてもらうための秘訣は、その人たちが食べているものを食べるのが一番だということを聞いたことがあるが、まさにその通りだと思う。
同じものを食べるということは信じることにつながるのである。まあ、その辺に生えているものや泳いでいるものをとってきて食べるという行為は、現代社会では異常であって、それを気持ち悪いと思われるのは仕方がないことかもしれないが、僕の方からするとそういう人を信じることができない。だから無口な食卓というのも仕方がないのである。
世間では定年クライシスという言葉がクローズアップされているが、ひとりのほうが自分の価値観に合ったものを食べることができるのではないかとひそかに思ったりもしている。
食べることの幸福を称賛しているエッセイを読みながら我が食の貧困を嘆いていたのである・・。
「暮しの手帖」というと、朝ドラ「とと姉ちゃん」を思い出す。このドラマのモデルになったのは創刊時の編集者と、カリスマ編集長であった花森安治なのだが、今年で創刊75周年になるそうだ。雑誌がどんどん廃刊になる中、広告収入一切なしで雑誌を作り続けているのだから、これはきっとかなり奇跡的なことなのではないかと思う。
この本は、その75周年を記念して、連載されてきた随筆を選び出し4冊の随筆集として出版されたものの1冊だ。この本があまりにもよくできていたのか、電車の中で熱中しすぎて乗換駅を乗り過ごしてしまい、そのおかげで最後の乗換駅で時間をもてあましてしまったので駅ビルの本屋に行って初めて「暮らしの手帖」を手にとってみた。
掲載されていた随筆はA4サイズの雑誌のちょうど1ページ分(単行本では2ページ半)の短いものだったが、著者それぞれの思いが濃縮されているという感じだ。
花森安治の影響力が今にも続いているのか、芥川賞、直木賞作家、その他いろいろな文学賞を取った作家や科学者、俳優、各分野で一流の人たちが原稿を寄せている。まさに珠玉の随筆集と言えるのではないかと思う。すべての人の名前を知っていたわけではないが、著者紹介を読んでみると、あの本の著者だったのかとか、映画化されたものを観たことがあるぞとかいうことがいっぱい出てくる。本当に実力派ぞろいだ。だから、読み始めるとどんどんのめり込んでしまう。テーマが「食」に関することなので余計である。
収録されているエッセイを読んでいると、人との和=食の和ではないのかと思う。例えば、夫婦は元は他人同士だが、うまくいくには食の部分に共通ものがなければダメなのではないだろうか。集合のベン図の重なる部分が大きければよいがその部分が少ないと・・。
芸能人がすぐに別れてしまうのはまったく違う世界で生きてきた人たちが集まってきた世界の中で結婚しても食の部分で共通するものがほとんどないからに違いない。歌舞伎役者なんかはその典型で、ものすごく高級な食事をしている人たちの中に庶民が入っていってもうまくやっていけるわけがない。
大体、この人がどんなものを食べているかということが分かると、その人がどんな生き方をしてきたかということもわかるような気がする。器用な人は自分の嗜好を変えてゆくことができるのだろうがそんな人ばかりではない。
そして、長らく同じ食の志向を持っていたと思っていてもそれが違っていたとわかるときがある。そうなってしまうと、食事の時に急に会話がなくなる。
もう、相手のことを信じることができなくなるのである。
他人に対しても同じで、僕は人から食べ物をもらったときはまず断らない。むしろ喜んで受け取るほうだ。それは、あなたの好きなものを私も好きなのですという僕なりの表現でもある。日本人としては、一応、遠慮しておいてから改めてありがたくいただくという形をとるべきなのだろうから、まったく遠慮しない礼儀知らずだと思われているのかもしれないが、それが最適な表現だと思っている。
言葉の通じない異国の相手に受け入れてもらうための秘訣は、その人たちが食べているものを食べるのが一番だということを聞いたことがあるが、まさにその通りだと思う。
同じものを食べるということは信じることにつながるのである。まあ、その辺に生えているものや泳いでいるものをとってきて食べるという行為は、現代社会では異常であって、それを気持ち悪いと思われるのは仕方がないことかもしれないが、僕の方からするとそういう人を信じることができない。だから無口な食卓というのも仕方がないのである。
世間では定年クライシスという言葉がクローズアップされているが、ひとりのほうが自分の価値観に合ったものを食べることができるのではないかとひそかに思ったりもしている。
食べることの幸福を称賛しているエッセイを読みながら我が食の貧困を嘆いていたのである・・。