イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「センスの哲学」読了

2024年09月15日 | 2024読書
千葉雅也 「センスの哲学」読了

よく読まれている本らしい。この本の存在を知って貸し出し予約してみるとすでに数人の予約が入っていて、僕の後にも数人の予約が入っている状態だった。

「センス」と「哲学」、一見まったく無関係のように思えるが、著者は哲学の知識を使ってセンスのよい人間を目指そうというのである。フロイトやラカン、ベルクソン、カントなどの考えたが紹介されている。
この本でいうセンスとは、美術や芸術を鑑賞、理解ができる“センス”を指す。魚を釣るセンスがあるというのとはちょっと違う。ファッションセンスというのとは少し近いかもしれないが・・。
そして、センスの定義とは、“直感的”にそれを理解できる能力という。そのためには作品が訴えていることを考えるよりその流れを読む方がよいというのである。

ドラスティックな解釈かもしれないが、作品が訴えたいことを探るより、ストーリーなり絵画なりの表現に見える、「うねりとビート」を追いかけるのが正しいというのである。
著者はそれを“脱理解”と表現しているが、作品が抽象化すればするほど、「うねりとビート」を感じることが必要であるという。
「うねりとビート」・・。よくわからないが、著者は、複雑な生成変化を「うねり」と言い、存在/不在の明滅が「ビート」だという。

確かに、映画を観ているとときにはそう思うことがある。創作をする人はその作品に何らかのメッセージを込めていると思ってしまうのだが、どうしてもそれがわからないことがあり、やっぱりセンスがないなと思うと同時に、この映画をまったく理解できていないと思うのである。しかし、うねりとビートを感じるというのであればその観方も変わってくる。

そもそも、作家は、『問題を解決するために作品をつくるのではなく、問題を「抱えている」から作品を作る。個人が抱えている、自分では十分自覚できていないような問題をめぐって作品が生み出される。』のだから、その作品を、観たり、読んだりしている側の人間がわからないのは当然であると納得できるのである。
現代国語のテストの問題を解くような観方や読み方をするのはダメだということだ。
だからまず、「うねりとビート」を感じ、その後に美術史なり文学史を学んで時代の流れを理解し、センスを磨くのが王道なのだろうと思える。美術史や文学史の勉強までいかなくても、その作家の人生をたどることでもその作品の意味を垣間見ることができるかもしれない。
と、いいながらも、著者が表紙のデザインとしえ選び、「うねりとビート」を見出す例として挙げているラウシェンバーグという画家の「Summer Rental+1」からは著者のいう、「うねりとビート」を感じとることができない・・。
困ったことだ・・。

コメント
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