最果タヒ 「夜空はいつでも最高密度の青色だ」読了
先日、同じタイトルの映画を観た。エンドロールに原作者として最果タヒの名前がでてきた。この人って詩人じゃなかったかしら、小説も書くのかなと思いながらこの本を借りてみたら、原作はやっぱり詩集だった。
この映画の監督である石井裕也がこの詩集にヒントを得て脚本を書いたということである。
詩集を読みながらあのシーンはこの詩から生まれたのかなどと想像できるのかと思ったけれども共通点は唯一、タイトルにもなっているフレーズが含まれている一編を主人公が詠みあげている部分だけであった。その詩はこのようなものだ。
『都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。
夜空はいつでも最高密度の青色だ。
きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、きみはきっと世界を嫌いでいい。
そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。』
タイトルは「青色の詩」という。
詩集は難解そのものだ。それぞれの詩には意味と理由があるはずだと思いながら何度か読み返すが僕には全然わからない・・。
映画のストーリーはというと、都会の中の最低辺に生きる若者たちが、今は這い上がれないと知りながらも小さな希望の灯りを点しながら愛を育むというような内容であったが、詩集の方にはそれとはうらはらに「死」という言葉がたくさん出てくる。
「都会は死を隠そうとしている」というのは石井裕也が監督した別の映画に出てくるセリフで、この詩集の舞台も都会であろうと思われるものが多い。著者はそんな都会の中で「死」という言葉を必死で探しながら、生きるとは、愛とは何なのかを自身の心の中に見つけようともがいている。そんなイメージが僕の中に浮かんでくる。結局、すべてを無に帰す「死」ではあるが、それを肯定し、それこそが生きることなのだとしている。
また、著者はあとがきで、『100%誰かに理解してもらえるなら、そんな人間、この世界にいる意味がない。憂鬱が、かわいく見えて仕方がなかった。人には話せないような、汚い感情、正論だとか優しさだとかで押しつぶされていく、そういう悩み、膿。あってはならないとされている感情が、好きだ。感情にあってはならないなんて、ありあえないのに、それでも押し殺すその姿が好きだった。どんなに因数分解したって理解を得られないだろうそんな感情が、その人をその人だけの存在にしている。人は、自分がかわいいのだということをもっと知るべきだ。』という文章を書いていた。
人と人はわかり合えないということさえ愛おしいものだと書いている。
自分を理解してほしいと思うことは暴力であって自分の想像以上に他者は自分を理解できず、そして、自分も理解できないから自由なのであると、だから、他者をかわいいと思うとも書いている。
後ろ向きな言葉を集めながら実は前を向いている詩集であると思ったのである。
本当は後者の、自身の内面と他者の内面とのギャップと同一性に言及したかったのだというのが著者の意味と理由だったのだとは思うが、僕には前者の意味と理由を強く感じた。先に映画を観てしまったというところもあったのだとは思うが・・。
と、言いながら、やっぱりよくわからない。せめて、「うねりとビート」を見つけることはできないかと思うのだが、やっぱりそれも見えない。奥が深いのである。
この詩集は著者が30歳の時に出版されたもので、きっと若い人が色々な悩みを抱えながら読むものだと思うのだが、60歳の中老にも悩みはある。ミッドライフクライシスと呼ばれるようだが、キャリア(というようなものは何もなかったが・・)、人間関係を振り返り、これでよかったのかと思うと同時に、残りの人生をお金の問題を含めて考えて思い悩むのである。だから、こういう詩集を読んだとしても恥ずかしくはないのである・・。
この感想文を書きながらテレビを観ていると、「寅に翼」のテーマソングのフルコーラスが放送されていた。その歌詞はこの詩集のテーマとよく似ているような気がした。
こういうテーマが親しまれるというのは、自分らしさを維持しながら他人の心と折り合いをつけて生きてゆくことが求められているのだろうなとも思うのである。
きっと寅子さんが生きた時代はひたすら自分らしさを押し殺して他人と折り合いをつけていた時代だったのである・・。
それに比べると今の時代を生きる人は少し幸せなのかもしれない。
先日、同じタイトルの映画を観た。エンドロールに原作者として最果タヒの名前がでてきた。この人って詩人じゃなかったかしら、小説も書くのかなと思いながらこの本を借りてみたら、原作はやっぱり詩集だった。
この映画の監督である石井裕也がこの詩集にヒントを得て脚本を書いたということである。
詩集を読みながらあのシーンはこの詩から生まれたのかなどと想像できるのかと思ったけれども共通点は唯一、タイトルにもなっているフレーズが含まれている一編を主人公が詠みあげている部分だけであった。その詩はこのようなものだ。
『都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
塗った爪の色を、きみの体の内側に探したってみつかりやしない。
夜空はいつでも最高密度の青色だ。
きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、きみはきっと世界を嫌いでいい。
そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。』
タイトルは「青色の詩」という。
詩集は難解そのものだ。それぞれの詩には意味と理由があるはずだと思いながら何度か読み返すが僕には全然わからない・・。
映画のストーリーはというと、都会の中の最低辺に生きる若者たちが、今は這い上がれないと知りながらも小さな希望の灯りを点しながら愛を育むというような内容であったが、詩集の方にはそれとはうらはらに「死」という言葉がたくさん出てくる。
「都会は死を隠そうとしている」というのは石井裕也が監督した別の映画に出てくるセリフで、この詩集の舞台も都会であろうと思われるものが多い。著者はそんな都会の中で「死」という言葉を必死で探しながら、生きるとは、愛とは何なのかを自身の心の中に見つけようともがいている。そんなイメージが僕の中に浮かんでくる。結局、すべてを無に帰す「死」ではあるが、それを肯定し、それこそが生きることなのだとしている。
また、著者はあとがきで、『100%誰かに理解してもらえるなら、そんな人間、この世界にいる意味がない。憂鬱が、かわいく見えて仕方がなかった。人には話せないような、汚い感情、正論だとか優しさだとかで押しつぶされていく、そういう悩み、膿。あってはならないとされている感情が、好きだ。感情にあってはならないなんて、ありあえないのに、それでも押し殺すその姿が好きだった。どんなに因数分解したって理解を得られないだろうそんな感情が、その人をその人だけの存在にしている。人は、自分がかわいいのだということをもっと知るべきだ。』という文章を書いていた。
人と人はわかり合えないということさえ愛おしいものだと書いている。
自分を理解してほしいと思うことは暴力であって自分の想像以上に他者は自分を理解できず、そして、自分も理解できないから自由なのであると、だから、他者をかわいいと思うとも書いている。
後ろ向きな言葉を集めながら実は前を向いている詩集であると思ったのである。
本当は後者の、自身の内面と他者の内面とのギャップと同一性に言及したかったのだというのが著者の意味と理由だったのだとは思うが、僕には前者の意味と理由を強く感じた。先に映画を観てしまったというところもあったのだとは思うが・・。
と、言いながら、やっぱりよくわからない。せめて、「うねりとビート」を見つけることはできないかと思うのだが、やっぱりそれも見えない。奥が深いのである。
この詩集は著者が30歳の時に出版されたもので、きっと若い人が色々な悩みを抱えながら読むものだと思うのだが、60歳の中老にも悩みはある。ミッドライフクライシスと呼ばれるようだが、キャリア(というようなものは何もなかったが・・)、人間関係を振り返り、これでよかったのかと思うと同時に、残りの人生をお金の問題を含めて考えて思い悩むのである。だから、こういう詩集を読んだとしても恥ずかしくはないのである・・。
この感想文を書きながらテレビを観ていると、「寅に翼」のテーマソングのフルコーラスが放送されていた。その歌詞はこの詩集のテーマとよく似ているような気がした。
こういうテーマが親しまれるというのは、自分らしさを維持しながら他人の心と折り合いをつけて生きてゆくことが求められているのだろうなとも思うのである。
きっと寅子さんが生きた時代はひたすら自分らしさを押し殺して他人と折り合いをつけていた時代だったのである・・。
それに比べると今の時代を生きる人は少し幸せなのかもしれない。