イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「未来の年表 人口減少日本でこれから起きること」読了

2021年10月10日 | 2021読書
河合雅司 「未来の年表 人口減少日本でこれから起きること」読了

「穏やかな死を」なんて前回のブログに書いてみたけれども、本当に穏やかな死を迎えることができるのだろうかとこんな本を読んでみた。この本は椎名誠の本で紹介されていたのだが、けっこう話題になった本らしい。
人口減少という問題をキーワードにして、これから先、約50年の間にどんな問題が起きるか、そしてそれに対処するためには今から何をすべきか、そういうことが書かれている。

まず、日本の人口だが、2015年に1億2700万人超だったものが、出生者が2016年に初めて100万人を切り、このままいくと現在の予想では2055年には9000万人以下になるそうだ。そして問題なのが、高齢者の比率が増え、労働力人口の比率が著しく減ってしまうことだ。
まあ、今でもそうだが、どこを見ても確かにご高齢の人たちがよく目立つ。僕がいた業界もまさにそのとおりで、そのご高齢者に企業の存続がほぼゆだねられているのではないかという感じであった。記憶は不確かだが、売り上げの4割くらいは65歳以上の年齢の人たちの買い物であったと思う。あと10年経ったらその人たちも半分くらいは買い物に来てもらえないほど体が弱り、そうなったらわが社は一体どうなるのかと考えたりしていたことがあったがこれはわが社だけの問題ではなく、日本の社会にも同じようなことが起こりつつあるというのがこの本の内容である。
会社の場合は、おそらく取り返しがつかないような事態が起こる頃にはすでに退職しているはずなのでどうにでもなれというくらいにか思っていなかったけれども、僕の人生がどうなるのかとなってくるとそこは知っておかねばならない。
僕は今57歳だが、父親が死んだ年齢まで生きるとしたらあと14年、男性の平均寿命くらいの80歳まで生きるとしたらあと23年だ。これくらいの残り時間ならなんとか逃げきれるかと思っていたけれども、どうもそれまでにもじわじわといろいろな問題が周りに起こってきそうである。

人口減少の大きな要因になるのは団塊の世代の家族である。団塊ジュニアを含めるとこんな年表となる。
2021年 団塊ジュニア世代が50代になる
2023年 企業の人件費がピークとなる
2024年 団塊世代がすべて75歳以上になる
2040年 団塊ジュニア世代がすべて65歳以上になる
2042年 高齢者数がピークになる
2050年 世界人口は97億3000万人
      団塊ジュニア世代がすべて75歳以上になる

世間では2025年問題として、団塊の世代がすべて75歳以上となるときが危ないと言われている。
医療費の高騰、年間死亡者数の増大、それにともなう空き家問題、地方の空洞化、インフラの維持・・・。問題はさまざまだが、著者は2042年がもっと危ないという。この年はどんな年かというと、高齢者数(65歳以上)がピークを迎える年である。団塊ジュニア世代がすべて高齢者となり、その親世代も90歳台でまだ生きているという状態だ。
若者世代が高齢者を支えるという年金構造で見ると、現在でも高齢者ひとりを若者世代2.3人で支えているという状態で、2042年ごろになるとひとりでひとりを支える肩車構造になるという。
この年、僕は78歳。生きているかどうか微妙なときだ。そのときに本当に誰かに支えてもらえるような社会なのか、確かに不安になる。
おカネもそうだが、受け入れてくれる介護施設は満杯で、家でひとり咳をしながら寝たきりみたいなことになっているかもしれない。まあ、それも自業自得で、その後は色々な人に迷惑をかけるが、誰にも面倒をかけずに孤独死するというのもいいのじゃないかとひそかに思っていたりする。
現在でも未婚の男性の率というのは5人に一人くらいはいるらしい。そんな人たちは孤独死の候補になる可能性があるわけで、この頃になると、けっこう孤独死というのも普通に見られるようになるのかもしれない。

そして、著者はその対策を、「日本を救う10の処方箋」として示している。現政府(この本が書かれた当時は安倍政権であったが。)は「外国人労働者の受け入れ」「AIの活用」「女性の労働力の活用」「高齢者の労働力の活用」という、労働力を増やして経済を回そうという政策になるが、これには限界があるとして、「戦略的に縮む」「豊かさを維持する」「脱・東京一極集中」「少子化対策」をキーワードにした政策を提言しているのだ。
現政権への批判として、「外国人労働者の受け入れ」に対しては、外国人が増えすぎることへの危険性を懸念する。現在の労働力を確保するために見合う労働力を外国人で賄おうとすると、外国人の人口が増えすぎて、日本の国が外国人に乗っ取られてしまうというのである。そのまえに、主にアジア地域から集まってくる外国人であるが、この頃には向こうも経済成長を遂げ、わざわざ日本に働きにくる外国人なんていなくなっているというのだ。「AIの活用」はどうだろう、これは著者のいうことは確かで、AIってそれほど賢くもなく、人間の代わりになるためにはもっと長い時間がかかりそうだ。「女性の労働力の活用」については、日本は家族が介護をする場合が多く、これだけ老人が増えてくると女性の力は家族介護に回らざるをえないのではないかという。「高齢者の労働力の活用」では、これは個人差があるのでどうかわからないが、75歳になってまだ働けと言われてもな~と思ってしまう。
そういうことだからこれらの政策は現状の問題解決にはならないという。
それに対する10の処方箋とはこんなものだ。

①高齢者を削減するために新たな年齢区分を作る。
  高齢者の線引きを75歳にし、働ける人は働いてもらう。
②24時間社会からの脱却をし、労働力不測の解消をする。
  便利な生活を抑制してその分の労働力を他の産業に回す。
③非住居エリアを明確化し、コンパクトな街づくりでインフラの維持費を削減する。
④都道府県を飛び地合併。
  協力できる自治体は地続きでなくても行政を一本化する。たとえば新幹線でつながった都市などを合併する。
⑤国際分業を徹底し、国として得意な分野に資本を集中させる。
⑥匠の技を活用し、地方に埋もれている技術や産業を掘り起こし、高付加価値製品の開発をおこなう。
⑦国費学生制度で国家に必要な人材育成をおこなう。
⑧日本版CCRC(高齢者が健康なうちに入居し、終身で過ごすことが可能な生活共同体Continuing Care Retirement Community)を作り、中高年を地方に移住させる。
⑨セカンド市民制度を創設し、第二の定住先を作り、二重生活を進めることで比較的楽に地方移住を推進し、納税も第二の定住先に分配することで税収も分配する。
⑩第3子以降に1000万円の給付をして出産数を増やす。

なかなかよい提案にも思えるが、これを民主主義、資本主義の国で実現させようとすると憲法から改正してゆかねばならないのではないだろうか。
住居エリアを制限するというのは憲法に保障された居住移転の自由に真っ向から抵触しそうだ。そして、⑩の財源は社会保障循環制度という考えで、死んだときにそれまで公費で賄われてきた社会保障サービス分のお金を返還させるというものだが、何も残さずに死んだ人からは取れない。なにがしかの財産を残した人たちだけから取るというのでは財産権の侵害になるのではないだろうか。そもそもだが、この本には、出生者の減少は出生率が下がっているのが原因ではなく、出産可能な年代の女性の人口が減っているからだと書かれている。1000万円もらえたら3人でも4人でも産もうと思う人は出てくるだろうが、それにも限界があるというものだ。②の24時間社会からの脱却といっても、サービスは自由競争のなかで行われるものだ、それを制限するとなるとそれはもう資本主義の社会ではなくなる。
①の新たな年齢区分を作るという案に至っては、よくわからない。区分を変えて人は若返るのだろうか。
そこで考えてしまうのが、腐った民主主義よりも、公正な独裁者の元の専制政治のほうがはるかに健全ではないのかということだ。人材を含めて資源を最も効率的に運用しようというのが著者の考えであることはよくわかる。それは、『拡大路線でやってきた従来の成功体験と決別し、戦略的に縮むことである。』という言葉にもよく現れているが、経済は成長しなければならないという資本主義の根本を否定することであり、極論では社会主義に移行することを意味するのではないかと思う。少なくともこの、「日本を救う10の処方箋」を成功させるためにはそうならなければ無理だろう。だから選挙があっても誰もそういう主張はしない。負けるとわかっているからだ。新しい総理も、「新しい資本主義」としか言っていない。基本は資本主義の作法にのっとり、そこには成長ありきというのが前提なのである。「分配なくして次の成長はない。」と言っているが、「成長はしません。今保有している国の全財産を国民に公平に分配することを目指します。そのために社会の構造を変えます。気に入らない人はこの国から出ていってください。ただし財産は持ち出させません。」なんて言い始めたら、誰もその人に投票はしないだろう。
だから、おそらく「日本を救う10の処方箋」はただ、この本に書かれただけのこと終わるのは間違いがなく、未来の年表に書かれたようなことがすべて現実となっていくのかもしれないし、水道橋の崩落もそのひとつだったのかもしれない。
民主主義の社会では不都合な真実は隠しきれるところまでは隠し通されるというのが常だから・・。
ただ、この年表の2021年には何が起こるか書かれていたかというと、『介護離職者が急増する。』であった。今のところそんなニュースは聞かないので案外当たっていそうで当たっていないのがこの年表かもしれないのでこれほどまでにトホホと思わなくてもいいのかもしれない。

マクロ的には難題がいっぱいだが、ミクロ的、それは僕の生活についてだが、今住んでいる場所は意外と便利で人口減少もそれほど深刻でもなく、だからインフラも弱体化するようには思えない。銀行が無くなるとか、交通手段が消えるとかはおそらく心配することはないだろう。体がどこまで動くか、おカネはどこまで続くかは心配だがその時はその時だろう。
世を憂うというような立場でもなく、なんとか逃げ切る。それだけが目標だ。

結局は心配を煽って読者数を稼ごうというのがこの本の編集方針だったということだろうか・・。
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加太沖釣行

2021年10月08日 | 2021釣り
場所:加太沖
条件:中潮 7:17満潮
潮流:4:37転流 8:10 上り2.6ノット最強
釣果:マアジ4匹 マルアジ1匹 チャリコ1匹

今日も付き添いで病院に行かねばならない。ただ、予約は午後からなので午前9時頃までなら加太で釣りができる。
サビキをやろうか、カワハギを狙ってみようか、二者択一だが、潮の流れを見るとマアジ狙いが妥当だろう。
今日は3時間の勝負だ。

できるだけ釣りをする時間を稼ぎたいので保険のタチウオは封印。今日も名人は早くから出船しているが、釣れているのだろうか・・。



帰りの道中の時間も短縮したいので今日は田倉崎周辺でダメでもなんでも粘るつもりにしている。釣れていないのか、この海域にはまったく船がいない。四国沖ポイントから少し離れた漁礁周辺からスタート。



幸先よくすぐにアタリがあった。中サイズのマアジだ。時々バラシはあるもののコンスタントにアタリは出る。しかしそれも30分ほどで終わった。
毎回そうだが、マアジは朝一のアタリだけですぐに食わなくなってしまうのが普通なのだろうか。前回の釣行ではアタリが無くなった時を同じくして潮の流れが変わったが、今日は風向きは変わったようだけれども潮の方向は変化がなかった。魚の心理学の本ではマアジの動きは早朝が活発だと書いていたが、そのとおりなのだろうか・・。

別のポイントを目指して四国沖ポイントへ。ここには数隻の船が釣りをしていた。期待を込めて仕掛けを下すと、錘が海底に到達したと同時にフッと軽くなってしまった。さて、これは食い上げのアタリかと思うと同時に嫌な予感が頭をよぎった。
もう、ひと月くらいになるだろうか、加太の海全域にサバフグが湧いているという噂を耳にしていた。とにかくめったやたらと糸を喰い切るらしい。高仕掛けでもタチウオテンヤでもまったくお構いなしだそうだ。悪いことに、PEラインのメートルごとの目印になっている白いマーカーをシラスかなにかと間違えて喰いついてくるのですべての仕掛けがバッサリ消え失せてしまうというのだ。タチウオのテンヤもPEラインもけっこう高価なものだが、和歌山市も大阪南部も釣具屋から在庫が無くなったという嘘みたいな本当みたいな噂も聞くほどだ。和歌山市は水も無くなるが釣具も無くなっていくのだろうか・・。
その間に、多分3回は加太の海にやってきているはずだが、一度もそんなことに遭遇をしたことがなかったけれども、嫌な予感は的中し、仕掛けがクッションゴムごと消えてしまっていた。これは間違いなくサバフグの仕業だろう。僕のPEラインは相当使い込んでいて染料も落ち、マーカーも判別できないほどになっているのでサバフグも何を目標に喰いつけばよいかと悩むところだろうが、それならばと仕掛けとリーダーを繋ぐサルカンを目標に定めたようだ。スナップを引っ掛けるチチワをバッサリとやられた・・。



気を取り直して新しい仕掛けを投入。今度も一投目すぐに軽くなり、あれ、またやられたか・・。ん、重みはあるぞ、仕掛けは無事だ。また、アタった。抜けた。まだ付いてる。抜けた・・。軽すぎる・・。またやられた・・。
今度は仕掛け側のチチワを喰われた。



これではやってられない。朝一に釣った場所に移動してみるがサバフグもいないがほかの魚もいない。もっと上ってみようとテッパンポイントまで移動した。
ここでもすぐにアタリがあったがバラしてしまった。多分サバフグではない。ここはもう真鯛のポイントだろうと誘い方を変えると小さなチャリコが掛かった。潮流の時刻を勘案するとこのまま真鯛狙いということも考えたが、仕掛けをあっけなくロストしたことのショックは続き、また、残り1時間ではなにほどのこともできまいとあっさり終了。
無風快晴というまことに気持ちのいい海面だが仕方がない。



帰りの道中にはイルカの群れが優雅に泳ぐ姿も・・。



サバフグといい、イルカといい、加太の海はなにやらよからぬものに蹂躙されてしまっているかのようだ・・。


病院の予約は午後1時半。それまでに魚をさばいて図書館へ。
検査だけだったので2時間半の拘束で済んだとはいえ、家に帰るとすぐに刺身の準備。今日も慌ただしく1日が過ぎていく・・。



母親の付き添いだと思うから耐えられるが、これが自分の検査と治療ならこれほど待つことはできない。多分途中で勝手に帰ってしまうだろう。「待つくらいなら穏やかな死を。」というのが僕のスローガンになりそうだ。と、書きながら昨日の朝からやたらと腰が痛く、それもいつもの疲れたような痛さではなく、足の付け根から腰の奥の方に痛みがある。ちょっと歩くのもぎこちないのだが船の上ではそれもあまり痛みを感じないのはなんともわがままだ。目眩のほうも相変わらずで、昨日は久々に改札の手前で完全に視界が消えてしまった。
これは冗談ではなく本当に穏やかならぬ死を迎えてしまうのではないかと少しだけだが心配になるのである。

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「さあ、熱いうちに食べましょう  料理エッセイ集」読了

2021年10月07日 | 2021読書
入江麻木 「さあ、熱いうちに食べましょう  料理エッセイ集」読了

図書館で、食に関する本でも探して読んでみようと思いなんとなく手に取った本がこの本であった。
著者がどんな人とか、何歳の人とか、そんなことはまったく知らなかった。パラパラとめくってみると、レシピらしきものが掲載されていたので何か自分の作る料理の参考にでもなればという程度だった。

借りてからプロフィールを見てみると、小澤征爾の姑だということがわかった。ということは、小澤征悦のお祖母さんで、桑子アナの義理のお祖母さんということになる。
1923年の生まれで1988年に亡くなっていて、この本は生前に書かれたエッセイを集めて亡くなってから出版されたものだ。
実家は四谷の割烹旅館、夫はロシア貴族の末裔という超セレブな人である。ということは、小澤征悦はロシア人のクオーターということになるが、そう言われればなんとなく外人っぽい顔をしている。
娘はモデルをしていて、あまりのステージママぶりに夫から離婚を言い渡されたという。収入を得るために始めたのが料理研究家という仕事であったそうだ。小澤征爾と結婚したのは半ば略奪婚のような感じであったようだ。小澤征爾の履歴というのも読んでいると面白いというか、よくこんな面倒くさい人間関係のなかで生きているなと思えるような人である。

純日本風の家風で育った著者は結婚後に貴族としての作法やロシア料理の知識を身に付けたということだが、それが昭和の戦前から戦中にかけてというのだからよほどの意志の強さを持っていたのだろう。あの当時の外国人に抱く日本人の感覚ってほぼ宇宙人を見るような感じだったのではないだろうか。
戦後は何かと頼りにしていた義父とも離れて新たな人生を歩むことになるが、そこから料理研究家としての道を歩むことになる。
特異な料理というのがロシア風のパーティー料理というのだからもう、そこから僕みたいな人間が読む本ではなかったというのがわかる。また交友関係もアメリカ大統領の孫とか、ピカソやモネの絵の実物が部屋に飾られているという金持ちばかりだ。
当然本人も離婚したとはいえ、ロシア貴族の末裔と縁があり、世界的な指揮者の姑というのだからこいうったセレブの方々と対等に付き合えるのは当然なのだろう。
指揮者というのは家族を連れて世界中を巡る演奏旅行に出るらしい。行く先々に家を持っていて同じような人たちと常にパーティーを開いているというのがこういう人たちの生活らしい。
「今日はカクテルかしら・・。」というような言葉で、これがパーティーの種類(ランク?)を意味しているということがわかる人でなければこの本を読む資格がないのではないかと考えてしまう。本も買えないような人間が通う図書館にこんな本を置かんでもよかろうというものだ。

有名作家の子供であるという理由でセレブそうにしている人が書いた本を読んだ時は、ちょっと家系がいいからってそれを鼻にかけやがってとおもったけれども、ここまでの上流階級となるとそういった嫉妬もリミッターを超えて計測不能となってしまう。
結局、ふ~ん、こんな世界もあるのかと、何の想像もできずに読み終わり、レシピも参考にできるのかと思ったけれども、ロシア料理でしかも貴族がお食べになるような手の込んだパーティー料理では何の参考にもならない。そんな本であった。

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「母なる自然があなたを殺そうとしている」読了

2021年10月06日 | 2021読書
ダン リスキン/著 小山 重郎/訳 「母なる自然があなたを殺そうとしている」読了

なかなかセンセーショナルなタイトルで、プロローグはヒトヒフバエのウジムシに寄生された著者の体験談から始まる。
ヒトヒフバエは蚊やハエの体に卵を産み、そいつらが人間にくっ付いたときに卵が皮膚に乗り移ってそこで孵化して人間の皮膚の中に潜り込んで成長するそうだ。ネットでその姿を調べてみると、もう、思い出すだけでもおぞましい姿をしている。
著者はそれをベリーズでのフィールド調査の際にもらってきたらしく、手術をして取り除く必要があったという。
そういう体験からかどうかはわからないが、自然志向を是とする世の中に対して警鐘というか、皮肉たっぷりにそういう志向を揶揄している。
それはこんな言葉からうかがえる。
『私達が現代的問題から逃れるためには、我々のルーツに戻って人間が数千年前に行っていたできるだけ単純な行動/食事/生活に戻ることだと言われてきたが、数千年前の人々が30歳台までしか生きられなかったという基本的なことを無視している。』
確かに自然というものは優しいだけではなく危険や恐怖を感じさせる一面を持つというのは誰でも知っているし、だからと言ってすべての人が自然に背を向けているわけでもない。現代の文明は自然の恐怖の部分からは逃れて、そのいいところだけを享受するすべをすでに手に入れている。だから寿命も数千年前から倍以上に伸びたのだ。だからそうやって自然の素晴らしい部分だけを喫すればそれでいいと思うのだが、著者は相当な皮肉屋かそれとも、こういった編集方法とタイトルを使えばちょっと変わった動物の習性や逃れられないDNAがもたらす性(本当にそんなものがあるのなら・・)を書くにしても本が売れるかもしれないという打算があったのかどちらかだろうと思うのだ。著者は生物学者なので自然現象の恐怖みたいなものにはまったく触れられていない。
内容については、人間が直接、何かの油断の末に被ってしまうような危険な生物の紹介はごくわずかで、ほとんどが奇妙な生態をもつ生物の紹介となっている。そこのところはタイトルの趣旨とはかなりかけ離れているのであるが、そういった生物の紹介や行動の部分も面白いといえば面白い。

その編集方法も凝っていて、人類に破壊をもたらすとされるキリスト教の「七つの大罪」になぞらえてまとめている。
こういう罪になぞらえているというということは、少し油断をすればあなたも危険な自然の一面の犠牲になりますよ。ということなのかもしれないが、この本に書かれているような生物に遭遇するためにはかなりディープな場所にまで行かないと無理なような気がする。
それよりもアニサキスやマダニのほうが僕にとっては身近な存在なのである。

その七つの大罪に沿って内容を書いていきたいと思う。
① 貪欲
この罪では生物の生き残りのための行動について書かれている。
動物が時に見せる、共同作業的な行動は感動的なものなのではなく、個別のエゴイスティックな行動の積み重ねがそのように見えるだけなのである。
有名な皇帝ペンギンの越冬行動は、映画では寒さに耐えるため、みんながひと固まりになって、一致団結、順番に外にいる仲間を塊の内側に引き込む代わりに中心にいる仲間が外に出て仲間を寒さから守っているというのだが、その本当の行動原理は外側にいる、寒くて仕方がない個体が暖を取ろうと強引に中に入ろうとして中の個体たちが外にはじき出されるという動きの繰り返しが交代々々に寒さに耐えているというけなげな姿に見えるだけであるというのだ。
羊の群れもそうで、敵がやって来るとひと固まりになって逃げ惑うが、これも、自分よりも1匹だけ遅い羊が喰われてくれると残りはみんな助かるから一匹だけには勝とうという走り方が自然とひとつの塊をつくっているだけで、しょせんは個々が生き残りたいというだけなのである。
しかし、人間だけはちょっと違う。全員がエゴイスティックな行動をすると、大体は体力に勝る雄が生き残る可能性が高くなる。しかし、人間には女子供は守ってやるべきだという考えがあったりする。タイタニック号の事故では、女性の生還率が70%だったのに対して男性の生還率はわずか20%だったそうだ。
そこはある意味、男にとっては自然が守ってくれない危険な部分であると言えなくもない。

② 情欲
この罪以降では、生物はDNAに操られた「生体ロボット」であるという考えを基にして話が進められる。この考えはリチャード・ドーキンスの、「利己的な遺伝子」という本で有名になったけれども、DNAが自身の遺伝情報を未来に伝えていくために人間を危険な目に遭わせているというのだ。
例えば、自然分娩の危険性、これは近代的な社会で医療が発達して母子ともに命の危険はほとんどないが、そういう手助けがない世界そこでは出産というのは非常に危険が伴うものである。また、ある種のクモたちは交尾のあとオスはメスに喰われるという危険を冒してまで交尾に臨む。そういう危険を承知で繁殖行動をするというのはDNAのなせるわざだというのが著者の見解だ。
子孫を残すということと情欲の関連性については微妙だが、人間には子供を長期間育てるというおこないがあるが、それについて、面白い見解があった。
『究極的に、偉大なDNAを見つけようとする行動は全デートゲーム(交尾相手を見つけること)の基礎をなしている。人間にとって、ロマンティックな愛はその不可欠な部分である。しかし、ロマンスには真に「自然な」ものではない。それは大部分の動物の性生活にはないものである。』
子供を成長させるには時間がかかるが、『人間の子供時代が長いことが私達がロマンティックな愛を持っている唯一の理由である。』
なるほど、と思える見解である。

③ 怠惰
この罪では寄生虫について書かれている。寄生虫というのは、宿主には何の利益も供与せずに自分だけ恩恵を被っている存在のことをいう。お互いに利益供与し合うもの同士は共生という。寄生虫が怠惰な存在かどうかというのは疑問だが、プロローグのヒトヒフバエといい、この章に登場するトキソプラズマといい、なかなか容姿もやっていることもグロテスクな存在である。
寄生者のいない動物種を見つけることは決してないというほど動物には寄生虫がくっ付いているらしく、僕の体のどこかにも何かがくっ付いてるのかと思うとゾッとする。しかし、よく考えたら、僕も会社の寄生虫なので会社をゾッとさせているのかと思うと申し訳ないと思ったりする。
生きた宿主の体内に卵を産む動物を「捕食寄生者」と呼ぶ。こういう生物も恐ろしいが、昆虫を例にとると、すべての昆虫種のうち、10%を占めるらしい。普通の生活をしていると、出会うことはないけれどもそんな恐ろしい生き物もかなりポピュラーな存在だそうだ。こういうところにも、DNAの利己的な部分が現れているのかもしれない。

④ 暴食
この罪では、食べること、もしくは体の中に別の生物を取り込むことによって新たな能力を得るということについて書かれているのだが、やっぱりこれもなぜ”罪”としなければならないにかというのは疑問である。
人間はカロリーの90%以上を25万種の植物のうちにたった14種類から得ているそうだ。ほとんどの植物は毒を持っているか、人間が消化することができない成分を持っている。そんな中、細心の注意をはらって食べてきたというのが人間が植物を食べてきた歴史である。それは人間が生き延びるためにやってきたというだけであり、例えば生きた動物を殺して食べるということも同じで、他の生物の命を奪うということが罪というのならそれも認めるしかない。人間には他の動物が持っていない罪という意識を持ってしまったというのは確かなことだ。
著者はそういった罪についてこんな書き方をしている。
『菜食主義はより自然主義だが、我々はカエルを食べるコウモリを非難しない。ならばどうして肉を食べる人間が非難されなければならないのか・・。』
だから、この罪は人間が自分自身に与えた罪ということになる。

⑤ 嫉妬
この罪については、動物がおこなう横取りや盗みについて書かれている。人間がほかのひとから食べ物を盗むと罪になるが、動物がテレビでそういう行為をしているところを見ても特に何も思わない。釣りの世界では魚のそういう習性を利用して魚を釣っているのは間違いがない。これには異論があるかもしれないが、魚が1匹だけしかいないところで目の前にルアーを通してやってもまず食いつかない。これが2匹いるところだと、どちらか1匹が興味を示すと別の1匹が盗られるものかとルアーに食いつくという場面はよくあることなのである。これが嫉妬という感情なのかどうかはわからないし、この章ではサルの嫉妬の実験というのが取り上げられているが、これも、読んでいるだけではこじつけすぎていて、やっぱり嫉妬などという罪は人間だけが持っているとしか思えないのである。

⑥ 怒り
この罪では、相手に苦痛を与えるという行為を取り上げている。
例えば、シャチは狩りをした相手を食べやすくするため、動かなくなるまで相手を痛めつけるそうだ。そこには容赦のない怒りが存在するようにも見えるというが、一方、著者は、『餌の痛みや苦痛を最小にすることには何の利益もない。なぜなら進化は利己主義を好むからだ。』とも書いていて、『自然は、動物から想像できない痛みと苦痛を互いに浴びせかける場所となってきた。』とも書いている。毒液を持った動物は、防御のため、もしくは狩りをした相手を動かなくさせるために苦痛を与えるが、それも自然の世界の普通の姿なのである。

⑦自惚れ
この罪のところまできて、やっと著者がどうして自然界での生物の行動を「罪」に例えてきたかということがわかってきた。
これらの罪というのは、すべて、知性をもった人間だけが罪として感じるものであって、どの生物もそれが罪なことだとはまったく感じていない。
残酷と思えることでもそれは自然界で生物が生きていくためには当たり前のことであるが、そういう知性をもった人間が、「自然主義」とか「ナチュラルに生きる」というのは実は非常に不自然なことであると言いたいようだ。
利己的という言葉も人間世界ではエゴイスティックで非人間的な考えだと思われるが、『その動物がDNAの利益を上回るコストで自らを犠牲にする実例は1つもない。動物は利己的である。従って、「ひもつき」でない純粋な愛は存在することができない。しかし、人はそうではない。それについては少しの自惚れを持ってもいいのではないだろうか。私達は動物であるが、彼らのように行動する必要はない。』と著者は言い、科学技術を含め、人間しか持っていない能力をそれは不自然だからという理由で否定するのは間違っているというのである。例えば、遺伝子組み換え食品を否定する人は、今後も増え続ける人口を養っていくには人間が手を加えた食材を使わない限り限りなく自然を圧迫し続けるということを認識しなければならないというのである。

この手の著作というのは、自然であることが最良で人工的なものは悪であるという論調が多いけれども、そもそも人類だけが自然界の中で不自然な存在なのだからその能力をいかんなく発揮して自然のなかで折り合いをつけて存在していくべきなのだという考えは新鮮であったのだ。
最初は本の編集のやりかたが奇をてらいすぎているのじゃないかと思ったけれども、そこに深い意味を隠していたというのは編集の妙であるといえるんじゃないかとさすがにプロは違うと感心してしまったのである。

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水軒沖釣行

2021年10月04日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 4:30満潮
釣果:タチウオ1匹 ツバス1匹

今日も母親の付き添いで病院に行かなければならない。朝一だけは釣りができるので今日もタチウオ釣りに向かう。

前回の休日は台風接近でどこにも行けず、小船のビットの取り付けをしていた。前々から取り替えをしなければと思いながら、億劫なのと材料が手に入らないという理由をつけて何もしてこなかった。50センチの角材を取るのに2メートルの材を買うのはなんとも無駄だと思っていたのだ。そんなときに、おだんごクラブの土さんから角材を譲っていただけたのでその作業を進めているのは9月23日のブログに書いたとおりだ。
作業のキモは取付け穴を垂直に開けること。これには中古の工具屋で買ったドリルガイドを使った。まずはこれで細い穴を開けてそれを頼りに直径12ミリの穴を開ける。
細い穴を開けるまではよかったが、持って行ったインパクト用のチャックが小さくて12ミリのドリルが入らない。う~ん、困った。
という時には幸運なことに救世主が現れてくれる。渡船屋も台風の影響で休業しており、船頭も船の補修をしていた。「ドリル持ってない?」と聞くと、「あるよ!」とのこと。これで事なきを得て12ミリの穴を開けることができた。
しかし、今度はボルトの長さが足らなくなった。前まで取り付けられていたビットは、デッキの壁の勾配に合わせて削られていたが、そんな芸当ができないのと強度を保ちたいので角材はそのままの太さで使い、代わりに家屋の床板を張るときに使うスペーサーを加工して勾配を解消するための自家製スペーサーを作ったのでその分全体の厚みが増してしまった。今度は港の近くのコ〇ナンへ直行し、ボルトを購入。ホームセンターが近くにあると便利でありがたい。
そんなことをやっているとこの日の作業がお昼前までかかってしまった。
元のビットの腐敗具合を見て驚いた。もう、カブトムシの幼虫が出てきてもおかしくないほどボロボロになっている。よくぞ今まで折れずにいてくれたことかと思うほどだ。今回の台風も近畿からは遠ざかってくれてよかったと改めて思った。



出来上がりはこんな感じ。穴の防水作業が残っているが、ほぼ垂直に仕上がり、これで5年は十分持つだろう。



そして今日の釣りだ。
例年なら10月半ばまでは十分タチウオが期待できのだが、今日はまったくダメであった。いつものとおり海保の巡視艇の係留場所から仕掛けを流し始め、仕掛けが下りきらないうちにアタリがあったので今日は相当いけるぞと思ったのだがその後はどこを流してもまったくアタリがなかった。同じ港のタチウオ名人も出撃していたので期待はしていたがまったくダメだった。
早々と午前5時半過ぎに終了して禁断の仕掛けに切り替えた。



ぼ~っと船を流していると南海フェリーが急接近してきてびっくりする一幕もあった。



この時点で完全に戦意喪失していたのがありありだ。
新々波止に沿って流しながら2往復目にやっとアタリ。ツバス1匹で時間切れとなってしまった。




免税軽油の申請をしてからお昼前に病院へ。



今日も待たされる。最初の診断というか、説明を聞くのを終えたのが午後2時。



前回の診断の時に採取した細胞の検査の結果は完全にクロだったそうだ。5段階の5番目というのだから真っクロだ・・・。
最悪は顎の骨を削って悪いところの周りをごっそり取ってしまわなければならないそうだ。とりあえずはもっと詳しく検査をするために組織を取るからから午後にもう一度来るようにとこと。

家に帰ってSNSやニュースを見てみると、紀ノ川の水道橋の崩落事故がえらいことになっていた。事故のことは知っていたが、これはほんの一部の人が影響を受けるだけなのだろうと思ったら、川向うへはこの水道橋1本で飲料水が供給されていたらしい。



人口にして13万人、和歌山市の人口の40%が影響を受けているらしい。その被害者には隣の船のNさんも含まれていた。
これは一大事と思い、近くのスーパーを巡ったがすでにことごく水は売り切れていた。1軒だけ売っていたが一家族一箱かぎりというので2回並んで二箱を調達。
彼には何度も僕の危機を助けてもらった。家族に見捨てられた僕を嵐の中、日根野駅まで拾いに来てくれたのは彼だ。ついこの前も大雨できのくに線が不通になったときにも助けてもらったから、こんな時には何とか役に立ちたいと思ったけれども午後からの診察も長引いてしまった。
途中で館内の照明が消灯してもまだ待っていたので帰宅が遅くなり今日のうちに届けることはできなくなってしまった。





時間をもてあましているとよからぬことを考えてしまう。
山本文緒の「恋愛中毒」という本には、振られた腹いせにもっと美人になって見返してやろうと整形手術を繰り返して挙句の果てに顎の骨を削りすぎ、骨が粉々になって顔が崩れていくという女性が出てくる短編があったが、これってそんなことになってしまうのではないかと恐ろしくなってきた。つまずいてこけたら顎の骨が粉々になっていたなんてシャレにもならないだろう。
これからどんな選択があるのか、それは神のみぞ知るというところだろうか。
「ソ連のブルドーザー」と言われて、これまで丈夫一辺倒で生きてきたけれども、やはり寄る年波には勝てないのだ。
口の中にできるガンというのはほぼ舌ガンか骨にできるものらしく、歯肉にできるものなんてかなり珍しいということだが、よりによってメジャーなところじゃなくてそんなところというのは「ソ連」のなせる業だったりするのかもしれない。

今日も釣行記というよりも雑記記録のようになってしまった・・。
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