外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

パレスチナぼんやり回想(5)~ナビー・サーレハのデモの続編~

2024-05-08 20:51:18 | パレスチナ

 

 

気が付いたら、更新が3か月以上も空いてしまったが(ネウロズの告知はカウントせず)、皆さんはいかがお過ごしだろうか。私はその間、ずっとガザ情勢を追っていたのだが、それ以外にも、ペルシア語のオンラインレッスンを受けて(週一)予習復習宿題にアホほど時間をかけたり、使うアテはないけどやり始めちゃったからしょうがなく続けているフランス語をじみじみ独習したり、新しい言語に上書きされてアラビア語トルコ語イタリア語を忘れてしまわないようにリフレッシュのためのトレーニングをしたり(シャドーイングとか翻訳とか)、ネットばかり見ていてはイカンとほんのちょっと読書をしてみたり、毎日家に座るか寝るかしてばかりで筋肉が衰えていずれ寝たきりになるんじゃないかという懸念があるため気休めにラジオ体操をしたり、日課となっている夜のベンチ飲みにせっせと出勤したりしていて、なかなか文章を書く態勢に入れずにいた。無職なので時間はあったのだが、なにしろ一日の稼働時間が少ないもんでね…それに、ちょっと間が空くと書き方を忘れちゃうので、再開するのが大変でね…(長年ブログやってるくせに)

 

言い訳はこれくらいにして、今回は当初の予告通り、2010年12月に書いた記事「ナビー・サーレハのデモ~毎週金曜日の小さなインティファーダ~(1)」(これ)の後編の再現を試みる。当時書いてアップした記事(これ)が、後で見直していた時に誤字を発見して訂正しようとしたらなぜか丸ごと消えてしまっていたので(魔法?)、かすかな記憶とピンボケの写真を頼りに再現してみるつもりだ。ちゃんと再現できてなくても、やろうとしたこと自体が尊いということで、勘弁してやってくださいね~(どんな時でも自分を褒める高度な能力を身に着けた私)

 

前編にも書いたが、2010年11月の良く晴れた金曜日の朝、私はパレスチナ西岸地区南部ヘブロンでの短期滞在を終えてエルサレムに帰る前、パレスチナ支援団体ISMのボランティアの外国人の若者たちと一緒に毎週金曜恒例のデモに参加すべく、西岸のラーマッラー近郊ナビー・サーレハ村に向かったのだった。

 

この日はナビー・サーレハに繋がる道路をイスラエル軍が閉鎖していたため、道なき道を約30分歩いてようやくたどり着いた。到着してからしばらくして、「アラファト死去6周年記念会」という、しょぼめ(演説予定の政治家の大半が道路封鎖で来られなかったため)のイベントが開始し、それが終わった後、いよいよデモ行進が始まった。

 

イベント会場で出会った女の子。今はもう大人の女性になっていることだろう。

 

 

ウィキペディアによると、ナビー・サーレハ村で毎週金曜日、お昼の集団礼拝の後に占領に対する抗議デモをするようになったのは、2009年のことだった。村に近接するイスラエルの入植地が拡大され、村人が利用していた水源が入植者らによって占領されたことがきっかけだったようだ。水資源は死活問題だからね。

 

私が訪れたのはその翌年で、まだデモを始めてからさほど経っていなかったせいか、長年毎週デモをやって幾分マンネリ化したビリン村のそれとは違い、村人が気合を入れて総出で参加している感じだった。ビリン村のデモは1時間かそこらで終了していたが、ナビー・サーレハではお昼から日没まで数時間、ずっと続いていた。

 

なお、村の名前はイスラムの預言者サーレハに由来する(النبي صالح ナビ―・サーレハ、ナビーالنبي は「預言者」の意)。預言者サーレハは、岩を割ってラクダを出現させるという奇跡を起こしたとコーランに記載されているらしい。なお、この預言者はサウジの世界遺産「マダーイン・サーレハ」(مدائن صالح)の名前の起源にもなっている(参考)。マダーイン・サーレハは、ヨルダンのペトラ遺跡と同様、ナバテア人の考古遺跡だ。

 

マダーイン・サーレハ

 

閑話休題…

 

村人たちがデモ行進を開始したので、私はその最後尾に付いて行った。一緒に来たISMのボランティアの外国人たちは、写真を撮るため前の方に行ったのだが、私はびびりなので、デモでは後ろの方を歩くことにしていた。その方が、催涙ガス弾があまり飛んでこないと思ったのだ。わざわざデモに参加するために来たけど、こわいものはこわいんだもん…

 

しかし、デモ隊が丘のふもとの道を行進している時、丘の上に待機していたイスラエル兵たちが下に向けて催涙ガス弾を発射したため、列の前方も後方も区別なくガスを浴びることになった。辺り一帯がガスのため白い靄に包まれたようになった。行進の列が乱れ、参加者の動きがバラバラになる。

 

ビリン村で経験済みだったが、催涙ガス弾を吸うと、一瞬目の前が暗くなり、目が痛んで涙が止まらなくなる。それだけではなく、ガス弾が直接当たると怪我をするし、運が悪ければ失明し、もっと運が悪ければ死ぬ。

 

ちょうどすぐそばに、コンクリで出来た障壁のようなものがあったので、私は他の数人と共に、その陰に隠れたが、近くでイスラエル兵をめがけて投石をする若者がいたので、辺りにガス弾がガスガス降ってきた。いや~ん…

 

私が涙を流しながら途方に暮れていると、それを見た近所のおじいさんが気の毒に思ったのか、よかったらうちの家で休んで行きなさいと言ってくれたので、付いて行くことにした。彼は足を引きずって杖を突いていたが、ひきしまった表情で背筋を伸ばした、ロマンスグレーの紳士だった。そんなに高齢ではないのかもしれない。

 

彼の家はすぐ近くにあった。2階か3階建ての1戸建ての大きな家で、表通りから階段を上ったところに玄関があり、1階に広い居間(客間兼用?)と台所などがあった。おじいさんに連れられて突然やってきた謎の東洋人の私を、かわいいおばあちゃんが出迎えてくれた。おじいさんの奥さんだ。2,3歳くらいのかわいらしい女の子と、小学校低学年くらいの男の子もいる。老夫婦の孫らしい。

 

おばあちゃんと孫息子

 

老夫婦の娘さんは、イスラエルの刑務所にいるそうで、写真を見せてくれた。

 

全員家族?

 

私がビリン村のデモに参加したことがあると言うと、おじいさんは真顔になって、「ナビー・サーレハのデモは、ガザの次に死者が多いことで有名なんだよ」と、どことなく「ビリン村と一緒にしてもらっちゃ困るぜ」と言いたげな気配を漂わせながら宣言した。こういう殉教者自慢って、パレスチナあるある…?

 

おばあちゃんは家族の事や村の苦境(ユダヤ過激派の入植者に水源を取られて苦労していることなど)を色々説明してくれたが、私のアラビア語能力が足りないため、よく分からない部分が多かった。おばあちゃんは私の反応をあまり気にせず、がんがん喋っていたが。

 

彼らには英語が話せる若い娘さんもいて、私のために呼びだしてくれたが、彼女は他に用事があったため、すぐまた出て行った。孫息子君も、外に行ってデモに参加したいと言い出したが、おばあちゃんが「あんたはまだ小さいからダメ!」と首根っこをつかんで止め、私も「そうそう、デモは危ないからここにいなよ~」と加勢した。

 

おばあちゃんが紅茶をいれてくれ、みんなで居間に座ってお茶を飲むことになった。私はデモに参加しに来たのに、ひとんちに上がり込んでお茶を飲んでいて、いいんだろうか・・・

 

見回すと、テラスには若い女の子が2人いて、周辺地域で繰り広げられているデモ隊とイスラエル兵らの攻防の様子を撮影していた。イスラエル兵がパレスチナ人に暴力を働いた際に証拠を残すためだ。おじいさんによると、彼女たちはデモに参加しに来たイスラエル人だそうだ。パレスチナ人に連帯して、テルアビブ辺りからデモに参加しに来るイスラエル人はけっこういるのだ。

 

おばあちゃんは彼女たちにも、中に入ってお茶をどうぞと声をかけたが、彼女たちは微笑みながら辞退して、いつ催涙ガス弾が飛んでくるかわからないテラスでクールに撮影を続けていた。2人とも美人で勇敢で、カッコいいなあ~

 

窓の外の丘の上には、イスラエル軍の戦車と兵士数人が見える。おじいさんが孫娘に「丘の上に誰がいる?」と尋ねると、たどたどしく「ジェーシュ!」(軍)と答えたので、みんなで大笑いした。パレスチナ人の子供は、小さい時からそういう単語を覚えていくのね…

 

外でなにか大きな音がしたと思ったら、玄関前の階段に催涙ガス弾が飛んできていた。

くわばら、くわばら…

 

近所の家から騒ぐ声が聞こえたので、おばあちゃんが窓から様子を見たら、通りでイスラエル兵が発射したガス弾がその家に飛び込んで、カーテンが燃えたという。こわ…

 

おばあちゃんは全ての窓を閉じてから、私を半地下に連れて行き、そこに置いてある壊れた窓ガラスを見せて、「イスラエル兵が壊したのよ!」と説明してくれた。以前のデモの時に、イスラエル兵が通り沿いの家の窓ガラスを叩いて、割って回ったらしい。やつら何のためにそんなことするねん…

 

 

この家は斜面に立っているので、半地下階は、通りに面している側は地下だが、裏庭に面している方は地上に出ている。私がアンマンで住んでいたアパートと同じ造りだ。

 

おばあちゃんはついでに裏口から出て、敷地内をチェックする。ここにも催涙ガス弾が飛んできていた。

 

けんのん、けんのん…

 

1階に戻ってみたら、おじいさんの姿が消えていた。出かけたのかと思ったら、テラスの片隅にいて、イスラエル兵のいる辺りに向けて、必死の面持ちで石を投げていた。彼の中で、そしておそらくパレスチナ人全体の中で長年蓄積された怒りが、投石というささやかな抵抗の形で発散されているのを感じた。

 

私はパレスチナでデモに参加するようになってから、平和的デモにおける投石という暴力行為に疑問を感じていたのだが、彼の姿を見ているうちに、その疑問が払拭された。長い年月の中でイスラエルの軍や入植者に受けた度重なる暴力や収監(おじいさんも刑務所に入れられたことがある)、父祖代々の土地の略奪を思うと、そして相手は完全武装した軍人であることを思うと、投石なんて暴力のうちに入らないと思ったのだ。だって軍服を着てヘルメットをかぶって銃を向けてくる相手に遠くから石を投げるくらい、なんでもないことじゃないだろうか。せめてもの抵抗の印、象徴的な行為といえるだろう。

 

当時はそんな風に思っただけだったが、今は投石だけではなく、イスラエルの長年の占領と暴力に対するパレスチナの武装抵抗も、正当化できると思っている。平和主義でなんとかなる相手と、そうでない相手が存在すると思うのだ。イスラエルがそのどちらであるかは明らかだ。

 

 

テラスの向こうの風景は白くけぶっている…催涙ガスで

 

 

おばあちゃんは孫たちに遅い昼ご飯を食べさせ、「金曜日はいつもこんなだから、大したものはないけど、良かったらどうぞ」と私にも勧めてくれた。骨付きの鶏肉入りのよく煮込んだ野菜スープとパンと、オリーブ。それに、目玉焼きを作って1品増やしていた。ビリン村でお世話になった家でも、品数を増やすために目玉焼きを作っていた気がする。パレスチナの主婦の知恵か。

 

写真は撮り損ねたが(撮れよ)、この野菜スープが滋味たっぷりのしみじみした味わいで絶品だった。オリーブの漬物も手作りで、フレッシュな味わい。パンも当然美味しかった。やはりパレスチナの家庭料理は美味しいよなあと思いつつ、遠慮なく食べる。

 

そうこうしているうちに日が暮れてきて、イスラエル兵らを乗せた戦車が村から去って行った。デモが終わったのだ。テラスにいたイスラエル人の女の子たちも引き上げて行った。私は結局、最初から最後までひとんちにいたことになる。まあいいか、そういう参加の仕方もありだろう(ということにしておいて下さい)。

 

おばあちゃんたちにお茶と食事のお礼を言って、外に出て帰りのバスを探していたら、一緒に来たISMの人達に遭遇した。わりと仲良くなったフランス人の男の子と、もう1人(彼も欧州の若者)だ。「君どこにいたの?心配して探したよ!」と言われ、「ごめん、村の人の家に上がり込んでご飯食べてお茶飲んでた」と正直に答えたら、すごくウケた。よかった、怒られなくて…彼らはずっと外にいて、ガスを吸いながらデモの写真を撮っていたらしい。若いのに、エライ人たちだ。

 

バスが出るまでの間、デモ参加者をねぎらう夕食会があるというので、彼らと一緒にそれに参加してから帰った。なんだか食べてばかりだ…

 

メインはパレスチナ料理のムサッハン(鶏肉と玉ねぎをパンにのせて焼いたスマック風味のオーブン料理)で、それ以外にもファラーフェルとかサラダとか色々あった。デモに参加するためよそから来たボランティアのために、村の女性たちが用意してくれたらしい。私はムサッハンを食べるのはこの時が初めてだったので、こればかり食べていたが(当然美味しかった)、外国人ボランティア(イスラエル人も)はベジタリアンが多くて、あまり減っていなかった。彼らはファラーフェルばかり食べていた。パレスチナでボランティアをするタイプの人は、ベジタリアンが多いのだ。彼らにとってパレスチナ支援と菜食は、倫理的に関連するのかもしれない。

 

食事が終わってからしばらくして、ようやくバスが出て、東エルサレムの下宿に帰った時には、かなり夜遅くなっていた。疲れたが、お腹はいっぱいだった。食べてばっかりだったからな…

 

そんなわけで、ナビー・サーレハのデモは非常に楽しかった。デモ自体にはほとんど参加してないけどね…

 

次回はグリーンライン内のイスラエルの街や西岸のヘブロン以外の街を旅した時のことを書こうと思う。エルサレムについても書けたら書いて、長すぎるようなら次に回す。もうろくに覚えていないし、写真もほとんど撮っていないので(痛恨)、ざっと流すだけの内容になると思うが、悪しからず…

 

パレスチナブログの追記を早く終えて、一昨年の旅行記に戻り、それが終わったら、去年の旅行記をなるべく早く書いてしまいたいが、いつ終わるかな…

 

 

「あわてない あわてない ひと休み ひと休み」

一休さんの似顔絵イラスト

 

いらすとやさんの一休さんのイラスト探したら、これしかなかった。輪投げ??

 

 

関係ないけど、「イラスト」って和製英語だよな…

 

 

(続く)

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パレスチナぼんやり回想(4)~西岸地区ヘブロン遠征~

2024-02-04 21:25:34 | パレスチナ

(エルサレム旧市街のやさぐれ猫さん)

 

 

今回は、エルサレムから西岸地区の南端の都市ヘブロンにちょいと旅した時の話。(2010年秋頃の話です)

 

ヘブロンはここ(アラビア語ではالخليل アルハリール)

 

 

エルサレムから西岸地区のラーマッラー以外の都市へはバスで直接行けず、検問所を越えてラーマッラーに入ってから、別のバス(乗り合いバス)に乗り換えて行くのが通常なのだが、ヘブロンはちょっと行きにくくて、一旦ベツレヘムまで出てから、ヘブロン行きのバスに乗り換えた。30分ほど乗ったと思う。乗り合いタクシーなら直接行けたようだが、当時私はそれを知らなかった。(参考

 

西岸地区はあまり広くないので、行こうと思えばどこでもエルサレムから日帰りで行けるのだが、ヘブロンは少し遠い上に行きにくいし、ISM(パレスチナ支援の国際ボランティア団体 参考)の宿舎に泊まれるという話を聞いたので、2~3泊することにした。

 

ISMの宿舎は市内中心部にあって、長期滞在して活動をする人は無料、一時利用者も安く泊まれた。ミーティングルームや寝室などがあって、シャワーはソーラーパネルによってお湯が出るようになっていた。東エルサレムの下宿のシャワーも太陽光を利用していて、冬でも少しの電気代でお湯が出るようになっていた。パレスチナではソーラーパネルの設置が進んでいるようだった。1年のうちの日照時間が長い地域では、電気の使用を抑えるため、太陽光を最大限に利用するのが理にかなっている。でも、ヨルダンやエジプトではあまり普及してないんだよな。エジプトは発電用燃料を買うお金がないため、2023年夏から「計画停電」の名の下に毎日1~2時間停電しているが、各家庭にソーラーパネルがあったらずいぶん違うのではなかろうか。

 

ISMの宿舎は、なんとアルコール禁止だった。地元のムスリム社会に合わせて、あえて禁酒の方針を取っているらしい。たしかに、外国人が集まって宴会していたら悪い評判が立って、ボランティアを断られるかもしれないから、賢明な決断かもしれない。街中で探せば酒屋は見つかったかもしれないが、飲む場所がないので、結局私はヘブロンでは酒を飲まずに過ごした。そう思うと、当時の私は今ほどアル中じゃなかったのかもしれない。今だったら、酒が飲めない場所にはよっぽどのことがない限り行かないし、なんならこっそり持ち込むだろうからな…

 

ISMの宿舎に滞在していた外国人ボランティアは(この時は10人程度)、欧米人の若者が中心で、短期滞在者が多かったが、中には1か月以上滞在している女の子もいた。共通語は英語で、アラビア語を勉強している人は私以外にはいなかった。支援活動に関わる人は、じっと机に座って複雑怪奇なアラビア語の文法を勉強をするより、外で人と関わって身体を動かすことを好むタイプが多いのだ(外大出身者除く)。

 

私が比較的よく行動を共にした感じのいいフランス人の20代前半の男の子は、非アラブ系の白人だったが、フランスで自主的に改宗してムスリムになったとのことで、コーランを持参してイスラエルに入国していた。空港では一切荷物チェックを受けなかったそうだ。なんと~私なんか無神論者だけど8時間も検問所で嫌がらせされたのに…やはりイスラエルには空路で入るのが正解らしい。

 

インドから来たムスリムの女の子2人連れもいた。彼女たちはヒジャーブで髪を隠していたので、イスラエルの空港に着いた時、問題はなかったかと聞いたら、「空港ではさすがにヒジャーブを外した」とのことだった。やっぱりそうよね。いくら空路で入る方が陸路よりチェックがゆるいと言っても、空港で外国人がヒジャーブをしていたら、即座に別室行きになって尋問されそうだ。

 

私がヘブロン参加したISMのボランティア活動は、通学するパレスチナ人の子供の見守りだった。

 

事前にISMで受けたレクチャーによると、西岸地区の都市は行政・治安の両面でパレスチナ自治政府の管轄下にあり、入植地は街中にはないが(郊外・非都市部にある)、ヘブロンは例外で、市内中心部の旧市街を含む「H2」と呼ばれる地域がイスラエルの支配下にあり、入植地が街中に入り込んでいるのだ。H2地区に住むパレスチナ人は、家からパレスチナ自治政府の支配下の「H1」地区にある職場や学校などに行き来する際、毎日何度もイスラエル軍の検問所を通らなければいけないし、検問を無事に通過したとしても、武器を携帯したユダヤ過激派の入植者に威嚇されたり、彼らの車に轢かれそうになったり、ゴミを投げ込まれたりと、様々な嫌がらせを日々受けているとのことだった。それでISMの外国人ボランティアは、通学する小学生たちが危険な目に遭わないように、登下校の際に見守り活動をしているのだ。

 

 

 

 

私は他の人達に付いて行っただけで、あまりよく覚えていないのだが、登校時間に通学路のどこかの地点で集団登校する子供たちと合流し、学校まで付き添って歩いて、学校の前で待機していた先生に挨拶して終わりだったと思う。この時は入植者の車は通らず、何事もなく終わった。よかった…制服姿のパレスチナ人の小学生たちは大変かわいらしかったが、写真を撮り忘れた。

 

 

私がヘブロンで撮った写真は1枚だけ。通りがかりに見学させてもらった靴工房の写真だ。

なぜこれだけ撮ったのか、我ながらナゾである。

 

ヘブロンはイスラエル軍の検問所や入植地が街中にあるという大きなハンデを負いつつも、西岸地区の産業の中心地となっており、靴やサンダル、クーフィーヤ(كُوفِيَّة パレスチナの象徴のひとつの格子っぽい模様の被り物用の布)からスナック菓子に至るまで、様々なヘブロン製品がエルサレムなどでも売られている。ヘブロンの市場も活気があって良かった。物価はエルサレムよりだいぶ安い。何か土産を買って帰ればよかったな…

 

話は逸れるが、白黒のクーフィーヤはかつてパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト元議長が身に着けていたことで、パレスチナのシンボルのひとつとして注目されるようになった。

 

 

しかし、最近はガザで最新兵器を備えた大規模なイスラエル軍を相手に戦っているハマスの軍事部門カッサーム部隊のアブー・オベイダ報道官が被っている赤白バージョンの方が人気かもしれない。彼はSNSのアラブ人ユーザーの間で「覆面男」と呼ばれ、絶対的な信頼を寄せられているのだ。

 

 

ちなみに、イスラム聖戦の軍事部門エルサレム部隊のアブー・ハムザ報道官は黒い布を被っている。

アブー・ハムザは、アブー・オベイダより影が薄いのよね…

 

 

話を元に戻そう…

 

ISMの宿舎と街中を行き来する時、必ずイスラエル軍の検問所を通る必要があった。私は外国人女性であるせいか、ほぼ素通りだったが、武器を持った兵士がそばにいるだけでコワくて(ビビりだから)、毎回びくびくしながら通っていたのだが、ある時、若い兵士に話しかけられた。

 

「君、2日くらい前からこの辺にいるよね。そんなに怖がらなくていいよ。僕たちは悪者じゃないから」

 

温和そうな顔をした、大学出立てくらいの若者だった。徴収兵だったのかもしれない。彼は私の顔を見て少し微笑みながら、さらにこう言った。

 

「僕たちは大丈夫だけど、その後にやって来るグループは危険だから、そいつらには気を付けた方がいいけどね」

 

いや、君は私を安心させようとしてるんかい、不安にさせようとしてるんかい、どっちなんや…突然の事なので、うまく返事が出来ず、私はただうなずいて検問所を出た。確かに、その検問所にいた兵士たちは温和そうな普通の若者だったが、西岸地区やエルサレムにも展開しているイスラエルの国境警察(少数派のアラブ系イスラエル人、特にドルーズ派の構成員が多数いることで知られる)は、デモ隊などに狂暴に振舞うから気を付けた方がいいと聞いたことがある。くわばら、くわばら…

 

 

なお、ヘブロンにも観光スポットはある。市場(スーク)もその一つだし、イスラエルに閉鎖されてしまった旧市街の商店街「シュハダー通り」もある意味で観光名所だが、目玉は何と言っても歴史的に重要な「アブラハム・モスク」(المسجد الإبراهيمي)だろう。ユダヤ教徒には「マクペラの洞穴」と呼ばれているらしい。アカペラじゃないですよ。

 

アブラハム・モスク(ネットから拝借した写真)

 

 

ここは、預言者アブラハムやその妻、息子などが埋葬された地に建てられたといわれ、イスラム教徒にとってもユダヤ教徒にとっても重要な聖地である。長い間ずっとモスクとして使われていたが、1967年の第三次中東戦争以降にイスラエルによって建物内部が分割され、モスク部分とシナゴーグ部分に分けられてしまっている。イスラム教徒は、このような一方的な分割がエルサレムの聖地アルアクサーモスクにも行われるのではないかと危惧している。

 

私もヘブロンに来たからにはアブラハム・モスクを見るべきだと思って、着いた当日に行ってみたのだが、夕方だったからもう閉まっていて、その後も行きそびれた。

 

そういうわけで、ヘブロンでは観光らしいことはあまりしなかったが、暇な時に街をウロウロ散策したりはした。街中であっても、建物の立っていない空き地などには、ゴツゴツした白っぽい岩(石灰岩?)がそこら中に転がっていた。パレスチナらしい風景だ。そんな空き地で、石を投げ合っている子供たちを見かけた。パレスチナ人というと、武器を持ったイスラエル兵に石を投げて立ち向かうことで有名だが、こうやって小さな頃から練習しているのだな…(単なる喧嘩や)

 

その空き地からしばらく行ったところにある坂道をなんとなく登っていったら、上の方にイスラエル警察のパトカーが止まっていて、警官が何人かその周りにいたが、間もなく走り去った。

 

外国人の私が歩いているのを見て、小学生くらいの男の子が2,3人近寄ってきたので、さっきの警察は何をしていたのかと聞いてみたら、「この近くに住む男の人が逮捕されたんだよ」と教えてくれた。そして、坂の下の方を通る人々を指さして、「あの人は3年牢屋に入ってたよ」「あの人は5年」などと教えてくれた。おいおい、ほぼ全員かい…さすがヘブロン、刑務所に入れられたことがある人の割合が半端じゃなさそうだ。

 

まあそんな感じで、充実したヘブロン滞在だったのだが(大雑把なまとめ方)、帰る日にISMの何人かがバスで連れ立ってナビー・サーレハの金曜デモに参加しに行くというので、そちらに寄って夜エルサレムに戻ることにした。デモの様子については、すでに記事にしているが(これ)、後半部分を誤って消してしまったので(これ)、次回はその後半部分の再現を試みることにする。もうあんまり覚えてないけど、まあなんとかなるだろう、たぶん…

 

 

「まあがんばってにゃ」

(東エルサレムの下宿先の庭の常連ネコさん達)

 

 

(ヘブロン関連の参考記事)

「ガザの次は私たちの番なのか」 パレスチナ・ヨルダン川西岸で暴力が急増──恐怖と隣り合わせの日常で(2024年01月18日付)

https://www.msf.or.jp/news/detail/headline/pse20240118mi.html

 


イスラエルはパレスチナ人の日常生活の監視・統制を最先端の「ウルフ・パック」で自動化しているとの指摘(2023年11月24日 付)

https://gigazine.net/news/20231124-how-israel-automated-occupation-hebron/

 

【ルポ】 ヨルダン川西岸でも厳しい日常 イスラエル軍がロックダウンを強化(2023年11月22日付)

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-67471335

 

 

(続く)

 

 

 

 

 

 

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パレスチナぼんやり回想(3)~西エルサレムのヘブライ語教室で出会った人々~

2024-01-09 20:42:04 | パレスチナ

 

 

東エルサレムのオリーブ山に住居を見つけて少し落ち着いた頃、ISMのトレーニングに参加してみたりしつつ(前回の記事)、アラビア語の学校を探し始めた。3か月だけではあるが、せっかくパレスチナに滞在するのだから、できればアラビア語パレスチナ方言を少しでも勉強してみたかった。

 

アラビア語コースがありそうな西岸地区ラーマッラー近郊のビルゼイト大学や、東エルサレムのアルコッズ(エルサレム)大学に出向いて聞いてみたが、一般人が参加できるコースは見つからなかった。プライベートレッスンをやってくれる人を見つけるのも面倒だし、お金の余裕もなかった。

 

そこで発想を転換して、イスラエルで話されているヘブライ語(現代ヘブライ語)をやってみることにした。ヘブライ語を習得したいとは思っていなかったが、教室に通って、他の生徒たちと共に多少なりとも勉強したら、今まで見えてこなかったことが見えてくるかもしれない。アラビア語パレスチナ方言の方は、本屋でテキストを買って自習することにした。(このシリーズのテキストで勉強したが、なかなか良かった)

 

 

西エルサレムの猫さん

 

 

私が通ったのは、西エルサレムの街中にあるウルパンの初心者向けコースだった。「ウルパン」とは、外国からイスラエルに移住したユダヤ人を主な対象としたヘブライ語学校だ。エルサレムにいくつかあるウルパンの中には、非ユダヤ系の一般の外国人を受け入れていないところも多かったが、そこは受け入れていて、しかも通いやすい場所にあった。週2回、1か月くらい通ったように思う(うろ覚え)。一般の外国人の学費はユダヤ移民よりも高く設定してあったが、大した金額ではなかった。オリーブ山から旧市街の入り口まで乗り合いバスで降り、そこから徒歩で通っていた。市電に乗ることもあった。

 

先生は気さくで明るい若い女性で、片言の英語やイラスト、身振り手振りを駆使して、ヘブライ語の文字や簡単な会話文、数字などを教えてくれた。私はなぜか「イスラエル人は英語が話せるはず」と思い込んでいたので、彼女は生徒がヘブライ語に慣れるよう、わざと英語を使わないようにしているのかと最初思ったが、レッスン以外の場でもブロークンイングリッシュだったので、本当に話せないようだった。私が西エルサレムなどで道を聞いたイスラエル人にも、英語が話せない人がちょくちょくいた。彼らは非英語圏からの移民だった可能性もあるが、先生は生まれも育ちもイスラエルだったはずだ。

 

この先生は、最初の方の授業で例文として「イスラエルの首都はエルサレムです」と黒板に書いて私をドン引きさせたが、政治的意図に基づくプロパガンダなどではなく、ごくナチュラルにそう信じているようだった。生徒たちもそれに疑問を持っている様子はなかった。

 

イスラエルは占領下のエルサレムを自国の「首都」だと主張しているが、国連はこれを認めておらず、東エルサレムを「パレスチナ被占領地」とする立場を取っているし、大半の国がテルアビブに大使館を置いているので、テルアビブが実質的な首都となっている。しかし、イスラエル人や世界のユダヤ人たちは、「イスラエルの首都はエルサレム」だと教えられているのだろう。

 

生徒の人数は十数人~二十人くらいで、そのほとんどはユダヤ移民だったが、私以外にも非ユダヤ系外国人が一人いた。それは、ISMのトレーニングで見かけたカナダ人の若者だった。その後、彼がどこかのデモに参加しているのを見たこともある。彼のようなパレスチナ支援の外国人ボランティアが、ウルパンに潜入するのは珍しくないのかもしれない(私も似たようなものだし)。彼はカナダでヴィーガンの料理人をやっているとのことで、「俺に作れないヴィーガン料理はない!目玉焼きだって作ったからね!」と豪語していた。ヴィーガンの目玉焼きって、どんなんや…

 

クラスメートの多くは、欧米からイスラエルに移住したばかりの中高年の白人女性だった。休み時間や開始前の待ち時間などにおしゃべりする機会が時折あったが、彼女たちはイスラエル(の中でも特に保守的なエルサレム)での生活にまだ馴染んでいなくて、ヘブライ語もまだほとんど分からず、なんとなく疎外感を覚えているようだった。お店などに入っても対応が冷たいと言っている人もいた。同じユダヤ人でも、イスラエルで生まれ育った現地の住民と外国から来た移民の間には、見えない溝があるようだった。

 

私たちのクラスには、インドから移住したユダヤ人の若い女性も1人いた。私は彼女に会うまで、インドにユダヤ人がいることを知らなかった。欧米系の白人ばかりの中で、肌の浅黒い彼女は目立っていて、私たちはアジア人同士仲良くなり、時々途中まで一緒に帰ったりした。彼女は家族で移住したそうで、スマホで写した小さな娘さんの写真を大事そうに見せてくれたりした。彼女は家政婦として働きつつ、空き時間にウルパンに通っていると言っていたと思う(旦那さんの仕事についても聞いたような気がするが、もう覚えていない)。インドでは少数民族として居心地が悪い思いをしていたのだろうが、イスラエルでも、白人の欧米系移民ですら冷たくあしらわれるくらいだから、アジア系移民は差別されていそうだと思った。実際、彼女には苦労人特有の薄暗いオーラが漂っているように感じられた。

 

 

東エルサレム・オリーブ山の猫さんたち

 

 

ある日の授業で、「私は~に住んでいます」というフレーズを習い、先生に当てられた時、深く考えずに「私はオリーブ山に住んでいます」と言ってしまったことがあった。その時は何も言われなかったが、授業の後で、そばに座っていた年配のアメリカ人女性に、「あなたオリーブ山に住んでるの??怖くない??あそこ、よく爆発音とかが聞こえてくるらしいけど、大丈夫なの??」と不安げな顔で質問された。他の生徒たちも同感という感じで私を見ていた。オリーブ山の界隈は、エルサレム旧市街に隣接する東エルサレムの地域で、主にパレスチナ人のムスリムが住んでいるのだが、ユダヤ系住民にとっては恐ろしいところらしい。私からしたら、武器を携帯しているユダヤ過激派の入植者や、パレスチナ人のデモを時には実弾を使って弾圧するイスラエル警察などの方がよっぽど怖いと思うのだが。

 

と思っていたら、ある日オリーブ山の中腹辺りの地区で、パレスチナ人の二つの集団が小競り合いを起こして、怪我人が出て警察が呼ばれる騒ぎがあった。トルコの田舎の方やヨルダンでも、一族総出の喧嘩などは時々あるが、その類らしかった。そういうことするから、ユダヤ系住民に「怖い」とか言われるんだぞ、君たち…

 

クラスに1人、車椅子を使用して、行き帰りは息子さんに送り迎えしてもらっている年配の女性がいた。彼女もアメリカからの移民だった。両足に麻痺と変形があったようで、歩くのは不自由だったが、いつも笑顔の明るい人で、外国人の私にも積極的に話しかけ、ハヌカの時は自宅での夕食に招いてくれた。おそらく外国人の私にユダヤ教の行事を見せたかったんだと思う。

 

ハヌカというのは、紀元前2世紀頃にユダヤ人がエルサレム神殿を奪還したことを祝う、かなり不穏な行事だということを最近知ったが、当時私はそういうことを全然知らず、「なんか知らんけど8日間、毎日ロウソクを1本ずつ増やして灯し、イチゴジャムやカスタードクリームなどが入った揚げパン(スフガニヤ)を食べるユダヤ教のイベント」程度の認識しかなかった。ウルパンでもスフガニヤが振舞われたし、旧市街のユダヤ人地区を散策したら、街角のあちこちにロウソクが灯っていた。ハヌカ用のロウソク立てを「ハヌキヤ」というらしい。(8本+点灯用1本の計9本を立てる部分があって、最終日に全て灯る)

 

 

旧市街のユダヤ人地区で見たハヌキヤ

 

 

ハヌカの何日か目に、西エルサレムのその車椅子の女性のマンションにお邪魔した。そこに住んでいるのは彼女と、30~40代くらいの息子さん夫婦と、小学生くらい女の子2人、つまり彼女の孫娘たちだ。息子さんの奥さんは医者として忙しく働き、息子さんは現在主夫として家事や娘や母親の送り迎えなどをしつつ、家で何か勉強しているとのことだった。孫娘たちは活発に動き回り、親である息子さん夫婦は彼女たちに手を焼きつつも、簡素な食事を用意し、私をもてなしてくれた。小さな子供がいる親はどこの国でも大変そうである。彼らは食器やコップは紙製のものを使って、使い捨てにしていた。手間を省くため、色々工夫しているようだった

 

息子さんは宗教熱心な人らしく、食事の前に長いお祈りを捧げていた。お祈りが長かったのは、その日の食卓にパンがあったからで、米が主食の日はもう少し短いとのことだった。パンはユダヤ教にとって重要な食べ物だからだ。

 

食事中、息子さん夫婦が私のこれまでの旅の話を聞きたがった時、隣国シリアに滞在していたことをうっかり話してしまったら、2人とも目を輝かせて、「シリア?いいなあ、綺麗なところらしいですね!私たちも行ってみたいんですよ」などと言い出したので、仰天した。シリアといえばイランやレバノン(のヒズボラ)と並んでイスラエルの天敵で、イスラエル国家の存在を認めておらず、当然国交もない。だから、シリアと口にしたらきっと空気が凍り付くと思ったのだが、この夫婦にはあまりそういう先入観はないようだった。これで私は彼らに一気に好感を持ち、その夜は楽しいひと時を過ごすことが出来た。

 

ウルパンのコースが終わってからも、その車椅子の女性とはフェイスブックで繋がっていたのだが、彼女の投稿内容から、息子夫婦と違って彼女はかなりアグレッシブなシオニストであることが判明したので、自然と疎遠になった。今のガザでのイスラエル軍のパレスチナ人虐殺・民族粛清も積極的に支持しているに違いない。ウルパンのクラスメートだった他のユダヤ移民たちも、多かれ少なかれ支持しているのではないかと思う。あのインド人の女の子や、車椅子の女性の息子さん夫婦は停戦を支持していてほしいと思うが、実際のところはどうなのかわからないし、知る由もない。

 

 

これも旧市街ユダヤ人地区のハヌキヤ

 

 

結局私は、1か月ウルパンに通ってもヘブライ文字を全部覚えられず、習った簡単な挨拶のフレーズなども、ほぼ忘れてしまった。だって覚える気あんまりなかったんだもん…あ、でも、「YES」が「ケーン」だということだけは覚えている。初めて聞いた時は「ケーンて、キツネか??」と思ったものだった。キツネの鳴き声って、「ケーン」ですよね?

 

 

キツネと言えば、星の王子様~(私の一番好きな一節)

 

 

 

 

 

 

関係ないが、株式会社ナガセが運営する「東進ハイスクール」「東進衛星予備校」のロゴを見るたびに、ハヌキヤを連想するのは私だけだろうか。

 

無関係なのかもしれないが、気になる…

 

 

 

(続く)

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パレスチナぼんやり回想(2)~ISMのトレーニング~

2023-12-22 20:34:45 | パレスチナ

 

 

エジプトのターバ国境から、国境検問所のイスラエル側での執拗な尋問をなんとかクリアして入国した後は(過去記事)、リゾート地エイラートのなんとなくうさん臭い宿で1泊してから、バスで北上してエルサレムに出て(到着したのが金曜夕方のシャバット開始後だったので色々苦労した)、旧市街のムスリム地区にあるこ汚い安宿に泊まった。確か、ネットで見つけた「アル・アラブ」とかいうホステルだったと思う(たぶんここ)。そこを拠点に家探しをしていて、たまたま東エルサレムのオリーブ山の自宅の1階を間貸ししているパレスチナ人のタクシードライバーに出会い、彼の家に住むことになって、新しい生活が軌道に乗り始めた。(過去記事

 

少し現地の生活に慣れてきたタイミングで、ISMのトレーニングに参加することにした。

 

ISMというのは、「 International Solidarity Movement」(国際連帯運動)の略称で、イスラエルの占領による抑圧に抵抗するパレスチナ人を支援する非暴力の国際ボランティア団体だ。パレスチナ人も運営に関わり、世界各国から来た外国人ボランティアが現地の人々と協力しながら、デモに参加したり、オリーブ摘みを手伝ったり、パレスチナ人の子供たちがユダヤ過激派の入植者の嫌がらせを受けないよう、通学に付き添ったりしするなど、様々な活動を行っている。

 

ISMといえば、その活動に参加していたアメリカ人ボランティアのレイチェル・コリーさんが2003年、ガザでイスラエル軍のブルドーザーの前に立ちはだかり、押しつぶされて死亡したことで知られている(参考)。その話を聞いて、アメリカ人でも殺されるんだ…とビビった記憶がある。私にはそんなこと、とても出来そうにない。

 

レイチェル・コリーさん(23歳で死亡)

 

 

私は当時ISMのことをよく知らなかったのだが(今も「あれ、ISMだっけ、IMSだっけ?」となる)、私より先にパレスチナに滞在したシリア留学仲間が、ここのトレーニングに参加して良かったと言っていたので、私も行ってみることにしたのだ。そもそも私がパレスチナに住んでみたいと思ったのは、イスラエルの占領下でパレスチナの人々がどのような暮らしをしているのか、自分の目で確かめてみたかったからなのだが、なにしろ引きこもり体質で人との深い付き合いを避ける傾向があるため、どこに行ってもなかなか現地の人たちと仲良くなれない。だから、こういう団体に参加したら、多少なりとも人と接する機会が増えるのではないかと思ったのだ(実際増えた)。

 

トレーニングは1泊2日の合宿形式で、ISMの拠点がある西岸地区ラーマッラーで行われた。ネットか電話(パレスチナのSIMを携帯に入れた)で予約して、参加費は当日払ったような気がする(うろ覚え)。ラーマッラーはパレスチナ自治政府の中心的な都市で、エルサレムの北10㎞の地点にある。エルサレムからバスで30分もかからないのだが、イスラエルの検問所で足止めを食ったら1時間以上かかったりする。占領地ですから。

 

トレーニングはISMの理念や活動についての理論的な講義から始まって、イスラエル軍がデモ隊に対して使う爆弾についての解説(音響爆弾、催涙ガス、ゴム弾等を実弾を見せて説明)や、デモに参加していて誰かが軍に拘束されそうになった時に阻止するための対処の仕方(皆で手をつないで地面に寝転がる)などの具体的な講習に進んだ。小型とはいえ、爆弾を見たのはこれが初めてで、もう爆発しないと分かっていてもビビってしまったが、周りの人たちは全然平気そうだった。みんな、なんでコワくないの…?

 

ISMの理念の「非暴力主義」について、講師の男性が「非暴力主義に基づく活動は、イデオロギーによるものではなくて、戦略的な選択だ」と言っていたのが印象的だった。つまり、イスラエル軍や入植者の暴力に対して、非暴力の平和的な抗議活動をするのは、そうすることが効果的だからであって、平和主義を理想としているからではないということだと私は解釈した。つまり、状況が変わって、非暴力主義が効果的ではなくなったら、違う戦略を取る可能性があるのではなかろうか。私は常々、平和主義ではどうにもならない時もあると考えている。特に、最近のイスラエルのパレスチナ人に対する凄まじい悪意、圧倒的な暴力を見ていると。

 

トレーニングの参加者は、欧米人の若者が多かったが、中には韓国人の女の子2人組もいて、泊りがけで2日間一緒にいるうちにアジア人同士仲良くなって、後日一緒に街を歩いたり、うちに泊まりに来たりした(過去記事)。彼女たちは韓国でパレスチナ支援団体を運営していて、毎年のようにパレスチナに来て活動していると言っていた。その後もソウルに旅行した時に会ったり、日本に旅行に来た時にうちに泊まってもらったりして、今も時々連絡を取り合っている。アメリカのミシガンから来た年配の女性2人組とも連絡先を交換し、後に彼女たちの借りているアパートに泊まらせてもらって、一緒にオリーブ摘みのボランティアをやったことがある(過去記事)。その後、この2人組のうちの1人、いつもおっとり微笑んでいた気のいいサンディーが、デモに参加していた時にイスラエル兵に腕を折られ、病院送りになったと聞いた。あんな見るからに人畜無害で、見るからにアメリカ人な、孫のいる年齢(60代くらい)の女性の腕を折るとか、どういうことやねん…

 

 

ISMのトレーニング会場の外にいた子猫たち

 

 

ISMのトレーニングでは、出国の時にイスラエルのチェックに引っかからない方法も教えてくれた。出国で引っかかると、将来的に再入国できなくなる可能性が高いからだ。空路で出国する場合は、余裕をもって空港に行って、監視カメラを意識せずに何気なく振舞うこと、パレスチナ人の連絡先や彼らと交わしたメッセージなどは携帯から消去しておくこと、デモで撮影した写真のデータはコピーを取って、パレスチナグッズなどと共に出国前にあらかじめ自国に郵送しておくこと、カメラのメモリカードの方には普通の観光客が撮るような写真を数枚を残して、後は消去しておくこと、云々。非常に具体的なアドバイスだった。

 

出国の時、私は陸路でヨルダンに出た。陸路の場合、空路での出国よりもチェックが緩いと聞いていたが、念のためカメラのデータのコピー(大して撮らなかったけど)やアラビア語の本などは日本に郵送しておいた。国境検問所(アレンビー橋、ヨルダン側はキングフセイン橋)では、荷物チェックが全然なく、ほぼ素通りだったから、ちょっとがっかりした。

 

国境検問所で出国審査の列に並んでいる時、後ろから横入りしそうな動きをするマナーの悪い欧米人の若い女性がいたので、ムッとしてそちらを見たら、イタリアのパスポートが目に入った。う~む、こんなところでイタリア人に会うとは。しかも横入りされそうになるとは。

 

私が険しい顔で「私の方があなたより先ですからね!」とイタリア語で言ったら、彼女は特に慌てるふうでもなく、「あら、そうなの?じゃあいいわ、お先にどうぞ」と悪びれずに言って愛想笑いした。やれやれ、何がお先にどうぞだよ…

 

 

エルサレム旧市街の猫さん「マナーは大事にゃ~」

 

 

 

と言うわけで、今回は「ISMのトレーニングは役に立つ」という話でした~(大雑把なまとめ方)

 

 

(続く)

 

 

 

 

 

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パレスチナぼんやり回想(1)~前書き~

2023-12-18 20:05:42 | パレスチナ

 

 

最近は私は、時間があれば(誰よりもいっぱいある)アルジャジーラやぺけ(旧ツイッター)を見て、ガザの最新情勢をチェックして過ごしているのだが、先日ふと、かつてパレスチナに滞在した時に書いたブログを見直していて、書いてないことがいっぱいあることに気づいてしまった…当時すでにくたびれた無気力なおばちゃんだったので、大して活動していないのだが、やはりパレスチナという特別な場所で3か月生活していたのだから、向こうで経験したことや考えたことをもう少し記録に残すべきだったのではなかろうか。もうあんまり覚えてないけど、今からでもなんとか思い出して、ちょっとぐらい書けるかも…?

 

というわけで、去年の旅行記は後回しにして(いつ終わるねん)、今から何回かに分けてパレスチナブログを追記しようと思う。しかし、当時は日記もつけず、写真もろくに撮っておらず、わずかな写真も「…なんでこれ撮ったん?」と自問したくなるようなものが多い(しかも大体ボケている)ので、現在の私のアルコールにまみれた弱々しい脳では、正確な再現は困難だろう。それゆえ、おぼろげな記憶を繋ぎ合わせて、ぼんやりした回想録を書くことしかできないが、あしからず…

 

 

エルサレムの黒猫さん「言い訳はいいから早く書けにゃ~」

はい、すんません…

 

 

私がパレスチナに滞在したのは2010年9月末から12月下旬。約1年半過ごしたシリアのダマスカスを2010年1月末に出て、トルコのブルサで2か月、エジプトのカイロで6か月過ごし、エジプトから陸路でイスラエル(パレスチナ占領地)に入った。パレスチナの後はヨルダンに抜けてアンマンで1か月過ごし、さらにトルコに戻ってイスタンブールに3か月滞在した後、2011年5月に帰国した。シリアから帰国する前に、住んでみたかった国を全部回って、最低1か月滞在してみようと思ったら、けっこうな大移動をすることになったのだ。本当は一筆書きのルートで移動したかったのだが、トルコに未練が残って2回行くことにしたため、一筆書きではなくなってしまった。まあ、別にいいんだが…

 

パレスチナでは東エルサレムに下宿し、ビザなしで滞在できる約3か月の間に、西エルサレムのヘブライ語コースに通ったり、西岸地区で反入植地デモに参加したり、グリーンライン内のアラブ系住民の割合が多いハイファやナザレなどに短い旅をしたりした。ガザにも行きたかったのだが、当時はすでにイスラエル(とエジプト)に封鎖されていて一般の旅行者は入れなかった。「ハマスが掘ったトンネルでエジプト側からこっそり入れるかもしれない」という話もあったが(都市伝説的に)、さすがにそういうわけにもいかず、あきらめた。その後エジプトがガザとの境界に無数に掘られたトンネルを破壊して海水で満たし、使えなくしてしまった。

 

なお、パレスチナ滞在に関して書いた過去の記事は、このブログのパレスチナのカテゴリーの所に入っているので、興味がおありになればご覧下さい。次回からは、それ以外で覚えていることを書くことにする。なるべくサクサクっと書き進めようと思うが、サクサク詐欺になる気しかしない…まあ気長に見守ってやって下さいませ~

 

 

(続く)

 

 

 

 

 

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