一年生の始めの頃の授業で、サマルはよくなぞなぞを出した。
アラビア語の授業で最初に教わるのは、当然アルファベットである。
アリフで始まり、ヤーで終わる28文字を少しずつ教えながら、サマルはそれぞれの文字で始まる単語をいくつか黒板に書き、私たちのほうに向き直って、「さあ、この単語の意味はなんでしょう?」と質問するのだった。
アラビア語を習い始めたばかりのヒヨコの私たちに、そんなことがわかるはずがないと、サマルは百も承知であった。だから必ずヒントをくれた。
例えば、「これは外側が緑色で、中が赤い果物です。私は夏にこれを食べるのが大好き!」といった具合である。それを聞いて、生徒たちが口々に「わかった、スイカだー!」と言い当てる。こういう会話はもちろんイタリア語で行なわれるので、サマルのなぞなぞがアラビア語学習となんの関係もない、ただの遊びであることは明白だった。
スイカなどは簡単だが、文化的な観点の違いが出る単語だと、少しむつかしかった。
ある日のなぞなぞはこうだった。
サマル「これは人間にとって、とても大事な存在です。いつもそばにいる友達のようなものです。さて、なんでしょう?」
イタリア人生徒たち「人間の友といえば・・・犬? 」 当然、私も犬だと思った。
しかしサマルは首を振り、勝ち誇ったように言ったのだ。
「違います、答えは“本”です!」
アラブ文化における犬の地位は低く、人々から蔑まれているという事実を、当時の私たちはまだ知らなかった。
サマルのなぞなぞはむつかしい・・・、と私たちはため息をついたものだ。
意味を言い当てるべき単語が抽象名詞ともなると、難易度はぐいっと跳ね上がる。
ある日サマルはいつものように、黒板にアラビア語の単語をひとつ書き、おもむろに質問した。
「これは、私たちみんなにとって、とってもとっても大事なものです。世界で一番大事といってもいいくらい。人間が必要とするものです。さて、これはなんでしょう?」
イタリア人生徒たちは口々に、「お金?」とか、「家?」とか答えたが、サマルは首を振るばかり。
少し沈黙が続いた後、クラウディオというやせっぽっちの男の子がふいに大声をあげた。
「DONNA?!」
DONNA(ドンナ)とは、イタリア語で女性という意味である。
サマルは少し戸惑ったように、「え?」と聞き返したが、クラウディオは自信たっぷりに、「女性でしょう、世界で一番大事なものといえば。それ以外考えられない!」と言い募るのだった。周りの男子生徒たちも、納得したようにうなずき、「そうだ、そうだ、その通り!!」とエールを飛ばす。
サマルはというと、顔をしかめて、たしなめるようにこう言った。
「違うわよ、クラウディオ!何を言ってるの?答えはSCIENZA(科学)です!!」
科学ときたか・・・!
この答えには、イタリア人の生徒たちはみんな、完全に意表をつかれて黙り込んでしまった。
一方私は、このやりとりの間中、必死に笑いをこらえて下をむいていた。
このなぞなぞに私は、アラブ・イスラーム文化とラテンなイタリア文化の間にある、深~い溝を見たのである。
こういった異文化バトルこそが、サマルの授業の醍醐味のひとつなのだった。