午前中、雷鳴など聞こえるも、午後になって、雨も止み・・・されども、宵の内、本降りの雨。
午前中は、読書。
宵の雨音を聴いていたら、無性に、母に会いたくなった。
幻のように、声を思い出すけれど・・・でも、二度と聞けないんだ・・・あの声。
・・・母の声は、私とよく似ていて、以前、電話などでは、よく母の友人から、間違えられたりもしたけれど。
聴力が、殆ど無くなり、電話のベルさえも、聞こえなくなり、母が、電話に出ることも、ここ数年は、なかった。
母の声が、聴きたくなったら、自分の声を聴けばいいのかもしれない・・・などと、バカなことを思った。
他人には、似てる声だけれど、やはり母の声は、母の声だし、私の声は、私の声だ。
時々、こんなふうに、母の不在を自覚するたびに、動悸がして、呼吸が苦しくなったりする。
気を紛らわすために、本を読んだり、録画したドラマを見たり、甘いものを食べたりしてみたけれど、全然、気持ちが落ち着かない。
仕方が無い。
ある程度、時間が経過しないと、回復しないこともあるだろう。
最近、思うことだけれども・・・。
私は、もう随分前に、失職してから、働いていない。
もし、失職しなかったら、たぶん、まだ働いていたかもしれないし、仕事をしていたら、こんなに長く、母の側にいることは、できなかっただろう。
仕事を失ったことで、随分、長いコト、落ち込んではいたけれど、これは、天?からのプレゼントだったのかもしれない・・・と思うようになった。
この何年かの私の生存意義は、母の世話をすること・・・まあ、殆ど、何もせず、夕食の支度だけは、義務感があって、私が母にしてあげられたのは、食事の提供だけだったような気もしているけれど。
それでも、お勤めなどしていれば、食事の支度だって、時間はかけられないし、柔らかく煮たり、裏ごししたり、すり下ろしたり・・・という手間のかかる食事は提供できなかったと思う(体力ないし・・・)。
世間では、認知症介護は、物凄く大変だし、施設に預けなければ、自分達の生活が、立ち行かなくなる・・・という話も聞いている。
母は、物忘れは、多かったし、この数か月は、込み入った話になると、わからなくなったりしたけれど、認知症ではなかったことは、有難いことだった。