2013.08/11 (Sun)
最近、心なしか、またぞろ「天皇制」という言葉が口にされるようになった、耳につくようになった、ことについて、です。それも愛国、護国を叫ぶ人々までもが、その言葉を遣う。
「天皇制」という言葉は、西欧の「君主制」に倣って、コミンテルンがつくった訳語です。「君主制」は国王と国民が対峙、対立する形で存在する国の「仕組み」です。
それに倣って「天皇と国民が対峙している」と恣意的に捉えた結果、「天皇制」という訳語がつくられました。
しかし我が国は、天皇と国民が対峙するのではなく、同じ方向を向いて共に国の弥栄を願い、日々を懸命に生きる、というのが本来の形です。
ですから「天皇制」と言うのは「国を仕組みと捉えない、我が国の在り方」に全くそぐわない訳語なのです。日本は国民が天皇を戴く国です。
「天皇家」という言葉も同じです。日本には「皇室」はあるけれど、「天皇家」、等というものはない。
天皇は国体(國體)であって、どれだけ高貴であろうと日本の中の一部である「家」等ではない、からです。
だから、「皇室」、なのであって、「皇室」は皇統が途切れないように皇族が守る。
唯一無二の存在である皇室を、わざわざ「御」皇室と言い、「王家と言うのはおかしい」と言いながら「天皇家」と言い、「国体護持」と言いながら「天皇制は我が国独自のもの」などと言う。
こういう言葉こそ大事に考えなければ、「言霊の国」も何もないでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
違和感のある言葉②「天皇制」 (2012年3月5日の日記)
「天皇制」って言葉、よく聞きますけど、違和感、ありませんか?
昔、美濃部達吉博士(昔の都知事、美濃部亮吉の父)の「天皇機関説」というのがありました。
「畏れ多くも天皇陛下を『機関』、とは何事だ!物みたいに。不敬ではないか!」ということで、博士は尋問を受けたのだそうですが、
「私の論文のどこに陛下を愚弄するようなことが書いてあるというのか!」
と、博士は一歩も退かずやり合ったのだそうです。
主義の違いはともかく、学者たるもの、学説を主張するに命を懸ける事は誉められこそすれ貶されることではない。言を左右にして絶対に謝ろうとしないどこかの政治家に比べたら、数等良い。
それはともかくとして。
天皇陛下を、学説としてそうであっても、現実に「機関」と表現するのは、相当な覚悟の上だったのでしょう。
「天皇機関説」。
国家という大きな仕組みは、有機的な生命体と言っても良いもので、その複雑な構造体には、頭脳(中枢)や心臓となって国を動かす(国政)存在が必要不可欠であり、我が国では天皇がその必要不可欠な存在であって、何事に於いても天皇の聖断を仰がなければならない。正に天皇という存在は国を成り立たせる最重要な「機関(仕組み)」なのである。
大まかに言えばこんなところでしょうか。
「我が国にとって何より大切な仕組み(機関)」と唱える美濃部達吉博士に対し、「天皇陛下を物と同じような見方をしている」と怒ったのが、軍部と野党の立場。唯物思想と皇国美化視の対決です。
しかし、根本的に価値観が違うのだから、双方共に天皇陛下を尊崇してはいても、平行線です。
軍、野党は陛下を神聖視(確かに、帝国憲法には『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』とありますが)しているのに対し、美濃部博士は「国体」の最重要な存在であると、存在意義の面から尊崇していた。
尊崇はしていても、一方は「神として」、であり、一方は唯物思想で、しかし国家を定義する「法」に於いて、特別な存在、としていた。
だから、軍、野党から見れば不敬にしか見えないし、美濃部博士からすれば、「頭脳のような存在」ということのどこが不敬なんだ!ということになる。
自信を持って反駁する博士に対し、遂に罪を問うことはできませんでした。
「どうも不敬ということではなさそうだな」となった、と見ます。
ところで、この「天皇機関説」の「機関」というのは、意訳なんだそうです。
本当は「機関」でなく「器官」。
だから、「天皇機関説」でなくって、本来なら「天皇器官説」です。
こう書いたらどんな感じになりますか?
「天皇機関説ならまだしも、天皇器官説とは何だ!不敬だ!」
となりませんか。
美濃部博士も「器官説」という、臓器を思わせる(臓器ですけど)生々しい表現でなく、その存在の意義ということで敢えて「機関」としたのでしょう。
でも、これ、よくよく見ると「機関(仕組み)」という命のないものに対して、「器官」は血の通った最重要な存在という感じは強くなります。
美濃部博士でさえ「器官」と訳するのをためらって「機関」とした。
しかし、そのために却って血の通わない冷たい仕組みとしか捉えられなくなった。(勿論、「天皇器官説」とやったら、全く問答無用、だったでしょう)
唯物思想と天皇陛下、さらには皇室、は相容れないもの、と結論付けるのは簡単なことです。けれど、それでは「ああそうですか」、で終わりです。
繰り返しますが、美濃部博士が「器官」とせず、「機関」としたこと、また自分は陛下に不敬の気持ちなど、毛頭ないと主張したことから、陛下を尊崇する気持ちはあったと思います。
ここを見なければ唯物思想を持つ日本人は、日本人ではない、と切り捨てられるばかりになる。
さて、では本当に、天皇陛下は「器官」乃至は「機関」なのか。
現実の現代社会ではそう解釈されてもしょうがないでしょう。
「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」
とあります。
「象徴という立場であり、日本国民がそれを決めているのだ」となっています。これこそ不敬な条文です。
「国民の総意が天皇の地位を認める(総意に基く)」ということは、「国民の支持」どころか「国民の指示(指図)」といっているのと同じでしょう?
「だから占領下で主権のない状態でのみ存在した、『日本国憲法』という名の占領国統治法なんだから、昭和27年の独立によって無効になったんだ。大日本帝国憲法には、ちゃんと書いてある」
と現憲法無効論を唱える人は居ます。確かに筋の通った考え方です。
けど、それが欧米式民主主義の中では、民主主義だから多数の意見を採るが故に、「そんなこと知らない」という国民が大多数の中では、いくら言ったって通らない。
百歩譲って、大日本帝国憲法ならどうでしょうか。
確かに、こちらは「国民の支持、指図」は関係ない。けれど、こう書いてある。
国民の支持、或いは指示について書かれてはいないけれど、帝国憲法の「神聖にして侵すべからず」という文章は、一体誰が定めたのでしょう。天皇自ら?
「欽定憲法なんだから、天皇自らが定めた」ということになりますが、やはり、自分のことを自分で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と書いたにしても、設定は、「憲法によって天皇の地位が定められている」ということになります。
つまり帝国憲法でも、いや、帝国憲法でこそ、天皇の地位は「神聖ニシテ侵スヘカラ」ざるものと「規定」されています。
国、国体を「仕組み」として捉えたら、唯物思想からであろうと皇国美化視からであろうと、こんな風に「規定」されざるを得ない。
そうではなくって「国体の本義」は?と、つまり、「仕組み」でなく、目的は?と捉えたら命の流れが見えて来ます。血の通ったものになる。
そして、「国体の本義」なら、早くから明らかにされている。あの「天壌無窮の神勅」に書かれている。
「この日本の国は、天照大神の子孫である天皇が治める国」の一言です。
「天皇が治める国」。それだけ、です。
この一言が何故「国体の本義」を明らかにしていると言えるのか。それはそこに続く言葉で具体的に説明されています。
「天皇が(民草と共に)栄えよ、天壌((と同じく)に窮まることが無いように(栄えよ)。」
天皇も赤子である国民も共に、ということです。
こう見て来ると「天皇制」という言葉は、「国体」に「天皇」という存在を配置する(制度化する)国家体制を意味する言葉になります。
それは「天皇器官説」、或いは「天皇機関説」そのものです。
「皇統の護持を。皇室の弥栄を」という人々が、そのために「天皇制云々」と口にすること。妙に違和感があるわけです。
まあ、単純に「天皇制」という言葉は、歴史を「階級闘争史」として見る戦前の共産党が造った言葉ですから、違和感があるのは当然のこと、と言われたらそれまでなんですが。
最近、心なしか、またぞろ「天皇制」という言葉が口にされるようになった、耳につくようになった、ことについて、です。それも愛国、護国を叫ぶ人々までもが、その言葉を遣う。
「天皇制」という言葉は、西欧の「君主制」に倣って、コミンテルンがつくった訳語です。「君主制」は国王と国民が対峙、対立する形で存在する国の「仕組み」です。
それに倣って「天皇と国民が対峙している」と恣意的に捉えた結果、「天皇制」という訳語がつくられました。
しかし我が国は、天皇と国民が対峙するのではなく、同じ方向を向いて共に国の弥栄を願い、日々を懸命に生きる、というのが本来の形です。
ですから「天皇制」と言うのは「国を仕組みと捉えない、我が国の在り方」に全くそぐわない訳語なのです。日本は国民が天皇を戴く国です。
「天皇家」という言葉も同じです。日本には「皇室」はあるけれど、「天皇家」、等というものはない。
天皇は国体(國體)であって、どれだけ高貴であろうと日本の中の一部である「家」等ではない、からです。
だから、「皇室」、なのであって、「皇室」は皇統が途切れないように皇族が守る。
唯一無二の存在である皇室を、わざわざ「御」皇室と言い、「王家と言うのはおかしい」と言いながら「天皇家」と言い、「国体護持」と言いながら「天皇制は我が国独自のもの」などと言う。
こういう言葉こそ大事に考えなければ、「言霊の国」も何もないでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
違和感のある言葉②「天皇制」 (2012年3月5日の日記)
「天皇制」って言葉、よく聞きますけど、違和感、ありませんか?
昔、美濃部達吉博士(昔の都知事、美濃部亮吉の父)の「天皇機関説」というのがありました。
「畏れ多くも天皇陛下を『機関』、とは何事だ!物みたいに。不敬ではないか!」ということで、博士は尋問を受けたのだそうですが、
「私の論文のどこに陛下を愚弄するようなことが書いてあるというのか!」
と、博士は一歩も退かずやり合ったのだそうです。
主義の違いはともかく、学者たるもの、学説を主張するに命を懸ける事は誉められこそすれ貶されることではない。言を左右にして絶対に謝ろうとしないどこかの政治家に比べたら、数等良い。
それはともかくとして。
天皇陛下を、学説としてそうであっても、現実に「機関」と表現するのは、相当な覚悟の上だったのでしょう。
「天皇機関説」。
国家という大きな仕組みは、有機的な生命体と言っても良いもので、その複雑な構造体には、頭脳(中枢)や心臓となって国を動かす(国政)存在が必要不可欠であり、我が国では天皇がその必要不可欠な存在であって、何事に於いても天皇の聖断を仰がなければならない。正に天皇という存在は国を成り立たせる最重要な「機関(仕組み)」なのである。
大まかに言えばこんなところでしょうか。
「我が国にとって何より大切な仕組み(機関)」と唱える美濃部達吉博士に対し、「天皇陛下を物と同じような見方をしている」と怒ったのが、軍部と野党の立場。唯物思想と皇国美化視の対決です。
しかし、根本的に価値観が違うのだから、双方共に天皇陛下を尊崇してはいても、平行線です。
軍、野党は陛下を神聖視(確かに、帝国憲法には『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』とありますが)しているのに対し、美濃部博士は「国体」の最重要な存在であると、存在意義の面から尊崇していた。
尊崇はしていても、一方は「神として」、であり、一方は唯物思想で、しかし国家を定義する「法」に於いて、特別な存在、としていた。
だから、軍、野党から見れば不敬にしか見えないし、美濃部博士からすれば、「頭脳のような存在」ということのどこが不敬なんだ!ということになる。
自信を持って反駁する博士に対し、遂に罪を問うことはできませんでした。
「どうも不敬ということではなさそうだな」となった、と見ます。
ところで、この「天皇機関説」の「機関」というのは、意訳なんだそうです。
本当は「機関」でなく「器官」。
だから、「天皇機関説」でなくって、本来なら「天皇器官説」です。
こう書いたらどんな感じになりますか?
「天皇機関説ならまだしも、天皇器官説とは何だ!不敬だ!」
となりませんか。
美濃部博士も「器官説」という、臓器を思わせる(臓器ですけど)生々しい表現でなく、その存在の意義ということで敢えて「機関」としたのでしょう。
でも、これ、よくよく見ると「機関(仕組み)」という命のないものに対して、「器官」は血の通った最重要な存在という感じは強くなります。
美濃部博士でさえ「器官」と訳するのをためらって「機関」とした。
しかし、そのために却って血の通わない冷たい仕組みとしか捉えられなくなった。(勿論、「天皇器官説」とやったら、全く問答無用、だったでしょう)
唯物思想と天皇陛下、さらには皇室、は相容れないもの、と結論付けるのは簡単なことです。けれど、それでは「ああそうですか」、で終わりです。
繰り返しますが、美濃部博士が「器官」とせず、「機関」としたこと、また自分は陛下に不敬の気持ちなど、毛頭ないと主張したことから、陛下を尊崇する気持ちはあったと思います。
ここを見なければ唯物思想を持つ日本人は、日本人ではない、と切り捨てられるばかりになる。
さて、では本当に、天皇陛下は「器官」乃至は「機関」なのか。
現実の現代社会ではそう解釈されてもしょうがないでしょう。
「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」
とあります。
「象徴という立場であり、日本国民がそれを決めているのだ」となっています。これこそ不敬な条文です。
「国民の総意が天皇の地位を認める(総意に基く)」ということは、「国民の支持」どころか「国民の指示(指図)」といっているのと同じでしょう?
「だから占領下で主権のない状態でのみ存在した、『日本国憲法』という名の占領国統治法なんだから、昭和27年の独立によって無効になったんだ。大日本帝国憲法には、ちゃんと書いてある」
と現憲法無効論を唱える人は居ます。確かに筋の通った考え方です。
けど、それが欧米式民主主義の中では、民主主義だから多数の意見を採るが故に、「そんなこと知らない」という国民が大多数の中では、いくら言ったって通らない。
百歩譲って、大日本帝国憲法ならどうでしょうか。
確かに、こちらは「国民の支持、指図」は関係ない。けれど、こう書いてある。
国民の支持、或いは指示について書かれてはいないけれど、帝国憲法の「神聖にして侵すべからず」という文章は、一体誰が定めたのでしょう。天皇自ら?
「欽定憲法なんだから、天皇自らが定めた」ということになりますが、やはり、自分のことを自分で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と書いたにしても、設定は、「憲法によって天皇の地位が定められている」ということになります。
つまり帝国憲法でも、いや、帝国憲法でこそ、天皇の地位は「神聖ニシテ侵スヘカラ」ざるものと「規定」されています。
国、国体を「仕組み」として捉えたら、唯物思想からであろうと皇国美化視からであろうと、こんな風に「規定」されざるを得ない。
そうではなくって「国体の本義」は?と、つまり、「仕組み」でなく、目的は?と捉えたら命の流れが見えて来ます。血の通ったものになる。
そして、「国体の本義」なら、早くから明らかにされている。あの「天壌無窮の神勅」に書かれている。
「この日本の国は、天照大神の子孫である天皇が治める国」の一言です。
「天皇が治める国」。それだけ、です。
この一言が何故「国体の本義」を明らかにしていると言えるのか。それはそこに続く言葉で具体的に説明されています。
「天皇が(民草と共に)栄えよ、天壌((と同じく)に窮まることが無いように(栄えよ)。」
天皇も赤子である国民も共に、ということです。
こう見て来ると「天皇制」という言葉は、「国体」に「天皇」という存在を配置する(制度化する)国家体制を意味する言葉になります。
それは「天皇器官説」、或いは「天皇機関説」そのものです。
「皇統の護持を。皇室の弥栄を」という人々が、そのために「天皇制云々」と口にすること。妙に違和感があるわけです。
まあ、単純に「天皇制」という言葉は、歴史を「階級闘争史」として見る戦前の共産党が造った言葉ですから、違和感があるのは当然のこと、と言われたらそれまでなんですが。