2014.09/16 (Tue)
2014.9.14
【昭和天皇実録を読む】 幼・少年期
「心に刻まれた乃木大将の教え」
(略)
明治天皇の大喪儀が行われた大正元年9月13日、乃木は妻の静子とともに自刃した。それを知った当時11歳の昭和天皇は、「御落涙になる」と、書かれている。実録の記述で涙を流す場面は、この時のほかにほとんどない。
■敗者をいたわる
軍人として自らを厳しく律した乃木は、勝者になってもおごらず、敗者をいたわる仁将であった。その教えは、昭和天皇の心に「帝王学」として深く染み込んだに違いない。
昭和15年6月22日、第二次大戦でフランスを破ったナチス・ドイツは、第一次大戦でドイツがフランスに降伏した地、コンビエーニュの森にフランス代表を呼び、降伏文書に調印させた。それを知った昭和天皇は、こう言って嘆息した。
《何ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ、勝ツトアヽ云フ気持ニナルノカ、ソレトモ国民カアヽセネハ承知セヌノカ、アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ》
この時、昭和天皇は日露戦争の旅順攻防戦で勝利した第3軍司令官の乃木が、降伏調印式で敵将ステッセルの名誉を重んじた「水師営の会見」のことを思い起こしたのではないか。
(後略)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140914/imp14091408410001-n1.htm
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もう二日前になるので、大方の人はネット記事で見られたのではないかと思いますが、9月14日付の産経一面に出ていた記事です。
この日記でも以前に関連して書いたことがありますが、私は司馬遼太郎の小説のままに、「乃木将軍は人望はあったけれども、203高地では無駄に多くの将兵の命を散らせてしまった凡庸な将であった」、と思い込んでいました。
しかし、そうは思いながらも、なんだかおかしいな、という気もありました。
昔読んだ山上たつひこ氏(「こまわりくん」というマンガの作者)の初期のマンガに、乃木が妻と共に自刃する話をネタにしたと思われるシーンがあります。
乃木の自刃の話は、大変有名なものですが、山上氏は自分と共に死んでくれと言うひげの老人に対し、その妻が、「そんなのは絶対に嫌です」と心中を拒否し、揚句に老人に切り殺されてしまう、という形にしています。
「体制の打破」を目指す人々は、色んな形で日本人の情緒、情趣を揶揄し、否定してきました。それは共産主義による思想教育とは限りません。
上記のマンガが描かれた頃にはベトナム戦争がありました。厭戦気分は当事者のアメリカにも、また敗戦によって無気力になってしまった記憶を持つ日本人にもまざまざと思い出され、蔓延していました。
仁将、とまで言われた乃木将軍。
学習院の校長として昭和天皇の教育の責を受けた人格者。
明治天皇に「死んではならぬ」と厳命され、明治天皇の崩御後、後を追って自刃。
そんなことをバラバラに知っていたのだけれど、とても「名将」の一言でまとめられなかった。
西南の役で隊旗を奪われた将。二百三高地で単調な総攻撃を繰り返し、多くの将兵を無駄死にさせた愚将。
それが山上氏のマンガで「裏返してこれ、ということは?」と思い始めたようです。
単調な総攻撃を何故繰り返したのか。何故、そんな「愚将」が、それだけの将兵を預かって戦うことができたのか。
齢を取るにつれて、「志」ということについていろいろ思うようになりました。
「人の優劣は頭の良し悪し、才能云々ではない、高い志を持とうとするか否かにあるのではないか。それがために不断の努力をするからこそ、武人は文人より尊ばれていたのではないか」
そんなことを思うようになると、乃木の志の高さ、日頃の生き方が人望を集めたのだ、と感じるようになりました。
それでやっと「水師営の会見」が世界の人々を驚嘆させたことが納得できるようになったのです。
昭和天皇のドイツの仕業に対する
「何ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ」
「アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ」
という御言葉は、乃木の心がそのまま伝わっているからではないか、と思います。
そして、五年後、ドイツがフランスにしたように、アメリカは日本に、「仇討メイタコト」をし始めます。
そして世界は・・・。
「アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ」
と仰せられた通りの現状です。
2014.9.14
【昭和天皇実録を読む】 幼・少年期
「心に刻まれた乃木大将の教え」
(略)
明治天皇の大喪儀が行われた大正元年9月13日、乃木は妻の静子とともに自刃した。それを知った当時11歳の昭和天皇は、「御落涙になる」と、書かれている。実録の記述で涙を流す場面は、この時のほかにほとんどない。
■敗者をいたわる
軍人として自らを厳しく律した乃木は、勝者になってもおごらず、敗者をいたわる仁将であった。その教えは、昭和天皇の心に「帝王学」として深く染み込んだに違いない。
昭和15年6月22日、第二次大戦でフランスを破ったナチス・ドイツは、第一次大戦でドイツがフランスに降伏した地、コンビエーニュの森にフランス代表を呼び、降伏文書に調印させた。それを知った昭和天皇は、こう言って嘆息した。
《何ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ、勝ツトアヽ云フ気持ニナルノカ、ソレトモ国民カアヽセネハ承知セヌノカ、アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ》
この時、昭和天皇は日露戦争の旅順攻防戦で勝利した第3軍司令官の乃木が、降伏調印式で敵将ステッセルの名誉を重んじた「水師営の会見」のことを思い起こしたのではないか。
(後略)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140914/imp14091408410001-n1.htm
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もう二日前になるので、大方の人はネット記事で見られたのではないかと思いますが、9月14日付の産経一面に出ていた記事です。
この日記でも以前に関連して書いたことがありますが、私は司馬遼太郎の小説のままに、「乃木将軍は人望はあったけれども、203高地では無駄に多くの将兵の命を散らせてしまった凡庸な将であった」、と思い込んでいました。
しかし、そうは思いながらも、なんだかおかしいな、という気もありました。
昔読んだ山上たつひこ氏(「こまわりくん」というマンガの作者)の初期のマンガに、乃木が妻と共に自刃する話をネタにしたと思われるシーンがあります。
乃木の自刃の話は、大変有名なものですが、山上氏は自分と共に死んでくれと言うひげの老人に対し、その妻が、「そんなのは絶対に嫌です」と心中を拒否し、揚句に老人に切り殺されてしまう、という形にしています。
「体制の打破」を目指す人々は、色んな形で日本人の情緒、情趣を揶揄し、否定してきました。それは共産主義による思想教育とは限りません。
上記のマンガが描かれた頃にはベトナム戦争がありました。厭戦気分は当事者のアメリカにも、また敗戦によって無気力になってしまった記憶を持つ日本人にもまざまざと思い出され、蔓延していました。
仁将、とまで言われた乃木将軍。
学習院の校長として昭和天皇の教育の責を受けた人格者。
明治天皇に「死んではならぬ」と厳命され、明治天皇の崩御後、後を追って自刃。
そんなことをバラバラに知っていたのだけれど、とても「名将」の一言でまとめられなかった。
西南の役で隊旗を奪われた将。二百三高地で単調な総攻撃を繰り返し、多くの将兵を無駄死にさせた愚将。
それが山上氏のマンガで「裏返してこれ、ということは?」と思い始めたようです。
単調な総攻撃を何故繰り返したのか。何故、そんな「愚将」が、それだけの将兵を預かって戦うことができたのか。
齢を取るにつれて、「志」ということについていろいろ思うようになりました。
「人の優劣は頭の良し悪し、才能云々ではない、高い志を持とうとするか否かにあるのではないか。それがために不断の努力をするからこそ、武人は文人より尊ばれていたのではないか」
そんなことを思うようになると、乃木の志の高さ、日頃の生き方が人望を集めたのだ、と感じるようになりました。
それでやっと「水師営の会見」が世界の人々を驚嘆させたことが納得できるようになったのです。
昭和天皇のドイツの仕業に対する
「何ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ」
「アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ」
という御言葉は、乃木の心がそのまま伝わっているからではないか、と思います。
そして、五年後、ドイツがフランスにしたように、アメリカは日本に、「仇討メイタコト」をし始めます。
そして世界は・・・。
「アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ」
と仰せられた通りの現状です。