CubとSRと

ただの日記

アゝ云フヤリ方ノ為ニ戦争ハ絶エヌノデハナイカ

2020年05月17日 | 心の持ち様
2014.09/16 (Tue)

                                    2014.9.14
  【昭和天皇実録を読む】 幼・少年期
 
           「心に刻まれた乃木大将の教え」

                  (略)

 明治天皇の大喪儀が行われた大正元年9月13日、乃木は妻の静子とともに自刃した。それを知った当時11歳の昭和天皇は、「御落涙になる」と、書かれている。実録の記述で涙を流す場面は、この時のほかにほとんどない。

 ■敗者をいたわる

 軍人として自らを厳しく律した乃木は、勝者になってもおごらず、敗者をいたわる仁将であった。その教えは、昭和天皇の心に「帝王学」として深く染み込んだに違いない。

 昭和15年6月22日、第二次大戦でフランスを破ったナチス・ドイツは、第一次大戦でドイツがフランスに降伏した地、コンビエーニュの森にフランス代表を呼び、降伏文書に調印させた。それを知った昭和天皇は、こう言って嘆息した。

 《何ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ、勝ツトアヽ云フ気持ニナルノカ、ソレトモ国民カアヽセネハ承知セヌノカ、アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ》

 この時、昭和天皇は日露戦争の旅順攻防戦で勝利した第3軍司令官の乃木が、降伏調印式で敵将ステッセルの名誉を重んじた「水師営の会見」のことを思い起こしたのではないか。


                 (後略)

  http://sankei.jp.msn.com/life/news/140914/imp14091408410001-n1.htm
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 もう二日前になるので、大方の人はネット記事で見られたのではないかと思いますが、9月14日付の産経一面に出ていた記事です。

 この日記でも以前に関連して書いたことがありますが、私は司馬遼太郎の小説のままに、「乃木将軍は人望はあったけれども、203高地では無駄に多くの将兵の命を散らせてしまった凡庸な将であった」、と思い込んでいました。
 しかし、そうは思いながらも、なんだかおかしいな、という気もありました。

 昔読んだ山上たつひこ氏(「こまわりくん」というマンガの作者)の初期のマンガに、乃木が妻と共に自刃する話をネタにしたと思われるシーンがあります。
 乃木の自刃の話は、大変有名なものですが、山上氏は自分と共に死んでくれと言うひげの老人に対し、その妻が、「そんなのは絶対に嫌です」と心中を拒否し、揚句に老人に切り殺されてしまう、という形にしています。

 「体制の打破」を目指す人々は、色んな形で日本人の情緒、情趣を揶揄し、否定してきました。それは共産主義による思想教育とは限りません。
 上記のマンガが描かれた頃にはベトナム戦争がありました。厭戦気分は当事者のアメリカにも、また敗戦によって無気力になってしまった記憶を持つ日本人にもまざまざと思い出され、蔓延していました。

 仁将、とまで言われた乃木将軍。
 学習院の校長として昭和天皇の教育の責を受けた人格者。
 明治天皇に「死んではならぬ」と厳命され、明治天皇の崩御後、後を追って自刃。

 そんなことをバラバラに知っていたのだけれど、とても「名将」の一言でまとめられなかった。
 西南の役で隊旗を奪われた将。二百三高地で単調な総攻撃を繰り返し、多くの将兵を無駄死にさせた愚将。
 それが山上氏のマンガで「裏返してこれ、ということは?」と思い始めたようです。
 単調な総攻撃を何故繰り返したのか。何故、そんな「愚将」が、それだけの将兵を預かって戦うことができたのか。

 齢を取るにつれて、「志」ということについていろいろ思うようになりました。
 「人の優劣は頭の良し悪し、才能云々ではない、高い志を持とうとするか否かにあるのではないか。それがために不断の努力をするからこそ、武人は文人より尊ばれていたのではないか」
 そんなことを思うようになると、乃木の志の高さ、日頃の生き方が人望を集めたのだ、と感じるようになりました。
 それでやっと「水師営の会見」が世界の人々を驚嘆させたことが納得できるようになったのです。

 昭和天皇のドイツの仕業に対する
 「何ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ」
 「アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ」
 という御言葉は、乃木の心がそのまま伝わっているからではないか、と思います。

 そして、五年後、ドイツがフランスにしたように、アメリカは日本に、「仇討メイタコト」をし始めます。
 そして世界は・・・。
 「アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ」
 と仰せられた通りの現状です。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新聞は社会の木鐸」

2020年05月17日 | 心の持ち様
2014.09/15 (Mon)
 
 「新聞は事実を伝えるためのもの」
 「新聞は社会の木鐸」

 「鐸(たく)」というのは中に舌のある鐘のことだそうです。舌が木であれば「木鐸」、金属であれば「金鐸」。
 日本で銅鐸が随分発掘されましたが、あれは「銅の舌」ではなくて、青銅で本体がつくられているから。(そんなこと、言われんでもわかっとる?失礼しました)

 昔、シナでは、政令が発せられる時、この「鐸」を鳴らしたのだそうで、文事の場合は木の舌の「木鐸」、武事の場合は金属の舌の「金鐸」を鳴らした、と書かれてありました。
 これなんか、知識として覚えるよりも「どんな音がしたんだろうなぁ~」と想像してみる方が楽しいですよね。
 私なんぞは、ふと、柱に吊るしたこぶしくらいの大きさのいくつかの鈴を鳴らして、研究に疲れた神経を癒したと言われる鈴屋大人(すずのや(の)うし、本居宣長)を思い出しましたなぁ。あっはっはっは。教養人みたいでちょっと気障でした?

 小さな鈴はチリンチリンと鳴り、大きな鈴はガランガランと鳴る。ほどほどの鈴はコロンコロン、又はカランカランと鳴る。木鐸と金鐸、文事はいかにも木鐸じゃありませんか。
 金鐸を聞けば緊張する。木鐸を聞けば、ハッとする。・・・・と思いませんか。

 いきなり要らんことを書きましたが、「新聞の目指すところ」は、最初に書いた二つのどちらか、或いはどちらも、のようです。大まかに言って欧米の考える新聞は前者を重視しているみたいです。
 対して、「和魂洋才」と唱えて痩せ我慢を張るしかなかった明治日本は、まずは文明開化、啓蒙の嵐、です。
 事実を書いたとされる「かわら版」、「讀賣(一部を読んで聞かせて売る)」だけでは、そんな時世にはそぐわない。だから啓蒙的な文章を書く。
 啓蒙家の大御所、福沢諭吉が、その創刊に大きく係わったとされる時事新報の流れを継ぐ産経は、今でもその傾向が強い。だから、生硬ながら強い主張をする。「社会の木鐸」らしい風情がある。
 けど、主張はするが生硬だから読者にうまく説明できない。・・・・それじゃダメじゃん。

 産経は木鐸の意識はあるけど無駄に鳴らしたり、間違って鳴らしたりする。
 でも、以前に書いたように、その分お詫びも訂正も多い。
 だから「そんな間違いだらけの新聞、信用できないじゃないか」、とアサヒの読者は思う(だろう、きっと)。
 何しろアサヒは出発が御用新聞と雖も、敗戦時、廃刊の危機を乗り越えて、現在、「クオリティー・ペーパー」と言われるまでになったのだ、・・・・?
 間違いだらけで、お詫びも訂正も多い産経と比べ、アサヒはお詫びも訂正もないから安心して読める、信用できる。
 「ならば、新聞としてやっぱり、ハイレベルということじゃないか。」
 普通はそうなる。・・・・が。

 なに、実は「お詫びがない」のではなく、「しない」のであり、「訂正がない」のではなく、「訂正しようとしない」、だけのことなのだ。
 つまり、この二紙、出自が違うのだ。そして姿勢が違うのだ。
 一方は事実を用いて社会主義思想での啓蒙を図り、一方は生硬な国家意識で以て自社の主張を説こうとする。
 出自は違うけれども、それぞれが、実は自社の主義主張を前面に押し出している。
 アサヒは「今」存在しない「理想社会実現」を目指す。
 「理想社会実現」のために行う主張は、社会主義革命の立場から、現実社会を否定し、現実の政治体制を転覆させ、すっかり破壊してしまうことだ。それをやらなければ社会主義思想による「理想社会実現」はあり得ない。
 だから彼らは社会主義思想による「理想社会実現」のために、社会主義思想で以て現実社会の事実(記事)を説こうとする。
 勿論、そんなに社会主義思想を何十年も研究してから新聞記者になった、なんて人は、いないわけだから、そういう記事を書くのは、社内でも一握りの人間だ、ということであり、あとの有象無象は「尊敬する上司がそう言っているんだから、そうなんだろう、そうに違いない」と思っているだけの心情左翼だ、ということになる。

 さて、そんな一握りの学者(?)が「いかにもこれは典例」と読者が思いそうな事項を見つけると、喜び勇んで記事にしようとする。慰安婦問題然り、吉田調書の、虚偽報道と言っても良い、悪意さえ感じる大見出し然り、だ。

 産経は「理想社会の実現」を目指してはいない。こちらは飽く迄も日本の隆盛を願っている。だから国益になるか否かを主眼にしている。福澤諭吉張りに「蒙を啓こう」、「国あってこその国民」、ということが論調に能く見える。
 問題は「国」の形がはっきりしてない。「靖國参拝」を言う割に靖國神社の在るべき姿に言及しない。その辺は学者、研究者に任せっきりである。先日来より断続的に神話について記事を載せ続けている。しかし、これを社説とすることはない。

 以前に「夕刻の備忘録」氏に、ブログで厳しく批判されていたのが「支持率を上げたければ、靖國参拝をしろ」と民主党政権を揶揄した記事だった。靖國参拝を軽口の種にする、その姿勢に「大志」は、「赤心」は、あるのか、ということだ。

 しかし、要は、「己がために」ではなく「公のために」という意志の有無なのだ。
 民主主義の国家だ、何を言っても許される。しかし、嘘、捏造は許されない。
 何故ならそれは「何を言っても許す国家」の転覆につながるウィルスのようなものだからだ。
 「許してくれる国家」がなくなっては、恐ろしくて何も言えない。
 増殖したウィルスは人体を滅ぼし、嘘、捏造を許していれば誰も信じられなくなり、国家は滅びる。

 アサヒ新聞が言い逃れを続けているのは、自社のためか?それとも・・・・・・。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「朝鮮總督府官吏 最後の証言」内のコラムから

2020年05月17日 | 心の持ち様
2014.09/06 (Sat)

 次回は 《コラム3 「従軍慰安婦」の虚構》 を全文転載の予定です。

 と書いた通り、編集部のまとめたコラムから、「従軍慰安婦」の虚構と題された文を全文転載します。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  《コラム3 「従軍慰安婦」の虚構》 

 韓国が主張する日本のいわゆる「従軍慰安婦」とは何かを調べていくと、意図的な誤報と世論の誘導とで成り立っていることが分かる。
 世界の研究者らが必死になって探しても、一つとして信用できる資料や証言者が出てこない。しかし「従軍慰安婦問題」はメディアで大きく取り上げられ、まるで歴史的事実であるかのように議論されてきた。その経緯を整理しておきたい。
 1965年、日韓基本条約が締結される際には、韓国側から慰安婦問題は議題とされていない。
 1973年、千田夏光が『従軍慰安婦』を出版し、「従軍」と「慰安婦」という言葉を関連付けた。これ以降戦前・戦中には無かったこの造語が広まった。この本では、韓国の報道の誤訳や、数字の根拠も示されないまま紹介された。
 1985年に吉田清治が『私の戦争犯罪』を出版し、済州島で朝鮮人女性を連れ出し、慰安婦として強制連行したと告白した。しかし済州島の住民はこれを否定し、吉田自身も最終的に証言を嘘と認めた。
 そして、1991年に朝日新聞が決定的な誤報を報道する。
 「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口を開く」として、生存する女子挺身隊として慰安婦の存在を報道。しかし、慰安婦と報道された金学順は女子挺身隊として連行されたわけではなく、母親に40円でキーセン(妓生)として売られていたことが後で分かった。この記事を書いた朝日新聞の植村隆記者の妻は韓国人で、その母親は慰安婦支援団体の専務理事をしていた。
 日本政府は1991年1月12日から過去の公文書を調べたが、女子挺身隊と慰安婦は全く別物であり、慰安婦を権力によって連行した事実は一つも見つからなかった。
 しかし、次にまたも朝日新聞が世論を誘導して、事態を深刻化させた。
 1992年1月11日、「慰安所軍関与を示す資料」、「政府見解揺らぐ」という見出しで一面報道する。
 これは中央大学の吉見義明教授が防衛研究所で発見した資料だとしているが、記事に、「朝鮮人女性を8万人から20万人、挺身隊の名で強制連行した」という韓国側の主張を根拠もなく載せ、それがまるで資料と関連があるかのように読者に印象付けた。
 しかし、その資料である「軍慰安所従業婦等募集に関する件」の内容は、日本内地での悪徳な売春業者の取り締まりと人物の選定に関することで、軍の名を使うことがないように努めよというものだった。
 朝日新聞の記事は、宮沢喜一首相の韓国訪問5日前という絶妙なタイミングで出され、宮沢首相は韓国で8回も謝罪と反省を繰り返し述べたという。
 何より決定的だったのが、1993年の「河野談話」であった。
 以下引用する。
 「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、弾圧による等、本人達の意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。
 また、慰安所における生活は強制的な状況の下での痛ましいものであった。(中略)いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」
 と、根拠が示されないまま曖昧な表現で謝罪の言葉を述べた。
 この「河野談話」で日本政府は従軍慰安婦を認めたことになり、以後繰り返し引用されるようになった。
 この「河野談話」時の慰安婦調査について、2014年、当時内閣官房副長官を務めていた石原信雄の証言が産経新聞で報道された。
 韓国での元慰安婦と主張する16人の女性への聞き取り調査は極めてずさんだっただけでなく、談話の文案作成まで韓国側が直接関与した事実が明らかになった。また、石原氏は衆院予算委員会で、「アメリカの図書館にまで行って調べたが、女性達を強制的に集めると言ったようなことを裏付ける客観的なデータは見つからなかった」と証言した。
 「河野談話」は、日本が発表した政府談話として今も決定的な根拠とされている。一刻も早く「河野談話」が発表された経緯や真相究明、撤回が求められている。
 その後も戸塚悦朗弁護士が1992年に慰安婦=性奴隷(sexslave)と規定し国連に日本政府の責任追及を要請する活動を行なった。
 2007年には米国下院で「慰安婦非難決議」が採択され、2009年頃から主に韓国系住民により「慰安婦像」の設置が進められている。
 「従軍慰安婦」は何ら証拠も示されない虚構であるにも拘わらず、80年代から一気に大きくなった。その発端から問題化まで、日本人の反日左翼が焚き付けたものだった。
 徐々に世論を誘導し、どこの国にもあった民間の風俗業を日本人は謝罪、「アジア女性基金」から保障金を払ったことで、強制連行への国の関与を認めることにつながった。
 これを先導したのは日本のマスコミ、特に朝日新聞であった。
 いわゆる「従軍慰安婦問題」は、当時の実情を知っている人が、日韓両国で相当数いる時には出てこなかった。当時を知る証言者が少なくなった後で問題化された。
 1952年、李承晩韓国大統領は国際法に反して、いわゆる「李承晩ライン」を一方的に設定し竹島を不法占拠した。
 その李承晩ですら、戦後一度もこの問題は語らなかったのである。

                       (転載了)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 転載だけで終わろうと思っていたのですが、私が気付かされた部分を改めて部分転載だけして置きます。

 ・韓国が主張する日本のいわゆる「従軍慰安婦」とは何かを調べていくと、意図的な誤報と世論の誘導とで成り立っていることが分かる。
 ・千田夏光が『従軍慰安婦』を出版し、「従軍」と「慰安婦」という言葉を関連付けた。これ以降戦前・戦中には無かったこの造語が広まった。この本では、韓国の報道の誤訳や、数字の根拠も示されないまま紹介された。
 ・韓国側の主張を根拠もなく載せ、それがまるで資料と関連があるかのように読者に印象付けた。
 ・記事は、宮沢喜一首相の韓国訪問5日前という絶妙なタイミングで出されたこと。
 ・官憲等が直接これに加担したこともあったこと(当時、官憲のほぼ全員が朝鮮人であったことが書かれていない)
 ・虚構であるにも拘わらず、80年代から一気に大きくなった。その発端から問題化まで、日本人の反日左翼が焚き付けたものだった。
 ・民間の風俗業を日本人は謝罪、「アジア女性基金」から保障金を払ったことで、強制連行への国の関与を認めることにつながった。
 ・当時の実情を知っている人が、日韓両国で相当数いる時には出てこなかった。証言者が少なくなった後で問題化された。
 ・李承晩ですら、戦後一度もこの問題は語らなかった。


 「島国根性」、「天皇制」、そして「従軍慰安婦」。
 新たな造語にはいつも作者の薄汚い狡猾さが透けて見えるようです。

 「意図的な誤報と世論の誘導」、って自身に誇りがあればできません。現実の社会に感謝の心があればできる筈のないことです。それを平然として反日左翼は、やります。社会に感謝の念なんか持ってない。そりゃそうでしょう、彼らの目的は国の破壊、現実社会の否定なんですから。社会に感謝の念なんて持ってたら、革命なんてできませんからね。
 ということは隣の主席は似非社会主義者ですね。「中華民族の夢を実現させよう」なんて言ってるんですから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「朝鮮總督府官吏 最後の証言」内のコラムから

2020年05月17日 | 心の持ち様
2014.09/04 (Thu)

 「朝鮮總督府官吏 最後の証言」を読んで、「当時の風を感じたような気がした」
 と書いたんですが、具体的な内容については、全くと言って良いほど触れませんでした。

 我々は後生の常として、過去のことは、「歴史」として学び、それなりに「俯瞰して理解する」ことを専らとします。
 ですから、概要は捉えられる、構造は理解できるものの、その中で生身の人間が考え、苦心惨憺してより良いものを作ろうと悪戦苦闘している様(さま)を実感することはできません。
 逆にその辺りの活き活きとした様子は、却ってテレビドラマなどの虚構の世界の方が能くあらわしていることは御存じの通りです。悲惨な実写フィルムより、役者の真剣な演技に涙することが多いのは私だけではないでしょう。
 しかし、虚構の世界で、人間の崇高さ、或いはどうしようもない愚かさを実感しただけでは、それこそ「木を見て森を見ず」になってしまいます。

 歴史を学ぶことで、事実と事実の関わりから物事の筋道(考え方)を読み取る。
 生身の人間の苦闘するさまから人の心に共鳴することを実感する。
 歴史に理を学び、文学に表される人の努力に情を学ぶ。

 だから我々は概説だけで事足れりとせず、できる限り「実録」物や、生き証人と言われる人々の言を得ようとします。大方の日本人が無意識のうちにそうやっているのではないでしょうか。それが「民俗学」の始まりでしょう。そして日本ではこれで何の問題もなかった。

 でも以前に聞いたことがあります、「旅に出てもロバはロバ」、って。
 正確には「旅に出てもロバはロバ。馬になって帰って来るわけじゃねえ」、なんだそうです。
 「それなりの下準備、それなりの理解能力を持たずに何かに取り組んだって、得るものは高が知れてる。大進化して戻ってくる、と思うのは能天気が過ぎる」という意味だとか。
 ならば、「実録」物だって「生き証人」だって、その人(情報提供者)が当時、いくつだったか、どんな教養があったのか、賢かったのか、愚鈍だったのか、なんてことを考えもしないで採録する、というのはどうなんでしょう。
 早い話が、この西川氏のような人物の話と、「売られたなんて言うな、日本軍に強制連行されたと言え」と入れ知恵されて、必死になって涙ながらの話をする人物の言と、どっちを採るかということです。

 西川清という優秀な官僚が、朝鮮總督府で懸命に仕事に取り組む中で見聞したことは、通り一遍の話ではないだけではなく、その西川氏の把握力も相当なものと思われます。その能力で以て見聞きしたことを書かれているということは、間違いなく一級資料たり得るのではないかと思いますがいかがでしょう。

 その貴重な言をまとめたこの本には、編集部が注釈のために載せたと思われる「コラム」が何篇かあります。
 今回はその中の一つ「教育」と題されたものを転載します。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 コラム2 「教育」

 朝鮮の教育を知るには、まず日本の教育を知っておく必要がある。日本の就学率は1878年の時点で41%に達しており、1902年には90%を超している。
 黒船のペリー提督を始め日本を訪れた外国人は皆、日本人の識字率の高さに驚嘆している。
 一方、朝鮮では古来より、中国の科挙制度(官僚登用試験)を行なっていたが、教育はというと一般民衆に対し、ごく僅かに「書堂(ソダン)」と呼ばれる簡素な施設で儒学や書道を教えていたに過ぎなかった。それが朝鮮の一般的な教育の全てという状況であった。
 1911年の併合翌年の統計では、「書堂」への就学率は7%弱である。日本の33年前(1878年)の41%と比べても低い数字で、加えて日本の教育内容と比較すると朝鮮は統計以上の遅れがあった。日本が朝鮮から「ハングル文字を奪った」という主張があるが、それ以前に民衆には文字が普及していなかった。
 表音文字のハングル文字は、朝鮮四代世宗(セジョン)王が制定したとされているが、科挙は漢文で行われた為にハングルは「諺文(オンモン)」と蔑まれ、「書堂」では教えられなかった。しかしハングルは文字数が少なく、発音通りであった為に覚えやすく、徐々に民衆に普及していったといわれる。
 1886年に朝鮮初の近代新聞である『漢城週報』(官報)は、福澤諭吉の支援を受けた金充植(キムユンシク)・井上角五郎などによって漢字とハングルの混合文で発刊した。ハングル活字版は福澤が自費で築地の活版所で造らせたものだった。
 この新聞は、朝鮮政府の機関である「博文局」が発行した。それまで公的な文書においてハングルが正式に用いられることはなかった。政府の公的な新聞にハングルが採用された意義は極めて大きく、日本の果たした役割は大きかった。
 1894年に日清戦争が始まると甲午改革(こうごかいかく)が始まり、日本は朝鮮を中国の属国ではなく、独立国と認めた。
 この時から法律勅令はすべて、ハングル、漢文付訳、漢文混用となった。
 日本は1905年に統監府を置き、急速に学校を増やし朝鮮の教育に力を入れた。1906年の生徒数は2千人、1910年には1万7千人、その二年後には4万5千人に増加している。1936年には「一面(村)に一校」を実現した。
 終戦間際になり朝鮮語の授業がなくなった時期はあるが、30年間以上に亘って朝鮮の就学率を上げ、日本人がハングルを教えていたことは紛れもない事実である。
 民間でも、政府の行政機関でも朝鮮語が使われ、禁止されることはなかった。旧植民地国の多くが公用語を宗主国と同じくされ、伝統的な母国語が失われたことを考えると韓国はむしろ特例といえる。

                         転載了

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 転載したことは大方御存知かと思います。
 朝鮮文字の普及に日本が大きく係わっていたこと。
 学校・生徒数の急増と朝鮮語の教育が完全に重なっていること。
 そして、1446年に世宗王の造らせた「訓民正音」は、440年後、遂に公文書に用いられるようになったということ、
 等を併せ見ると、併合だからこそ日本語の強制はしなかった、ということが直ぐに分かります。
 それどころか文法の違う「漢文」でなく、ハングル漢字混交文という表記法を採る。
 日本が何を考えて朝鮮の改革に取り組んで行こうとしたのか朧げながら見えてくるように思います。



 次回は 《コラム3 「従軍慰安婦」の虚構》 を全文転載の予定です。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「当時の風を感じたような気がした」 (「朝鮮總督府官吏 最後の証言」を読んで)

2020年05月17日 | 心の持ち様
2014.09/02 (Tue)

 桜の花出版編集部 
  シリーズ日本の誇り10

        「朝鮮總督府官吏 最後の証言」

 という本を手に入れました。
 8月15日初版発行となっていますから、既に読まれた方もあるかもしれませんね。
 
 この本、何と御年99歳になられる西川清という方が口述、資料提供などされて、成った本なんだそうです。
 驚くべきはその記憶力。そして、明晰な頭脳です。
 西川氏御自身が仰っているように、朝鮮總督府官吏として、当時のことを文字通りの生証人として語ることができるのは、現在は氏唯一人でしょう。

 和歌山に生まれ、林業学校を卒業後、朝鮮總督府に奉職、地方官吏養成所の第一期生となって29歳では早くも江原道属原州郡内務課長になるという、大変優秀な人物のようです。つい「だった」、と書いてしまいそうですが、先に書いた通り、元気に過ごしておられるということです。

 この日記の標題なんですが、私はどうも不勉強の故でしょうか、それとも創造力が欠けているのか、どうしても日韓併合以後、日本の敗戦に至るまでの朝鮮について、イメージすることができなかったんです。それで、こんな風にしました。

 日本が明治以降に朝鮮に様々な形で係わっていく、その過程で、朝鮮の生活は劇的に変わったと言われています。
 あの、多くの写真に見られる、葺いただけで軒の切り揃えて形を整えることもされてない藁屋根の家々。そんな家が身勝手に建てられている、貧窮に喘いでいるような何とも悲惨な朝鮮の景色。白黒の写真でもはっきりとわかる薄汚れた白かった筈の服。そして人々の絶望的な相貌。
 それが併合時期を中心に激変していく理由が分からなかった。

 勿論、日本の様々な働きかけでそうなっていったんだ、ということは理解はできるんですよ。学校のこととか、耕地整備、産業の振興、とか。
 手を着けなかったことはないんじゃないかと思うくらい、何でもかんでも、それこそ日本以上に呆れるくらいな速さで変えていったのは、数枚の写真を見ただけでも分かります。
 でも、司馬遼太郎が言うように、損得、後先考えずに、西欧の列強諸国に認められたい、賞讃されたいという子供じみた思いから全力投球したというような、そんな単純なものだったんだろうか、日本はそこまでの計算もできない愚かな国だったんだろうか、とずっと思っていました。

 それが以前に自分が書いた日記を偶然に読み、
 「民俗学は一般庶民の日常の中に、その国の文化、国民の本質がある、とする学問」
 と書いていたのを思い出し、
 「そうか!この人の口述通り、その日常を見れば、朝鮮人日本人双方の変化の様子が分かるんじゃないか」
 と思い始めました。

 そうすると、朝鮮の生活だけでなく、私の父が戦争に行っていた時に撮ってもらった写真、手に入れた写真等からも、これまでに感じられなかった「空気」、「風」のようなものを不意に感じるような気がしました。
 何だか写真の枠の陰になっている部分も、覗きこんだら見えるような錯覚です。立体写真に慣れて一枚の写真から立体を感じるようになった時の感覚です。
 「司馬遼太郎のいう『子供じみた思い』というのは違う。これこそが当時の日本人の『雄飛』の気持ちだ」

 今回の日記は書評でも、本の紹介でもありませんから、詳しいことは書きません。
 ただ、私がこんなことを思うようになるに至った部分を少し転載してみようと思います。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    「朝鮮人との付き合い」より
 P72~             (略)
 道庁内で、天皇陛下の御真影が飾ってあるということはありませんでした。もし天皇陛下の御写真を飾るとしたら、奉安殿があるはずですが、道庁にはありませんでした。
 皇民化政策と言われますが、国旗掲揚や国歌斉唱もありませんでした。皇民化政策について勘違いしている方が多いのです。日本人も朝鮮人も皇民だったということです。皇民化とは日本と朝鮮の格差や差別を無くす為のものだったと思います。
 
 道庁に就職するような朝鮮人はいわゆるインテリで、今更一から何かを教えたり、個々に強制することはありません。役所は学校ではなく職場ですから、まずそんな当たり前のことを毎日はやりません。朝鮮の十三しかない道庁の江原道庁ですらそうでしたので、戦前といってもそんな息苦しいことではないのです。
 こういう話は今の人は意外に思うかもしれません。私は戦前・戦中の朝鮮で国旗掲揚とか君が代など歌ったとか、殆ど覚えていません。これが道庁での体験であったことは重要です。
 国というか、總督府の公的機関である道庁なら、それがあっても当然だと思うかもしれません。しかし、軍国主義とかイメージで語ることは簡単ですが、実態はそんなことを私は体験していないし、印象にすら残っていないのです。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「内鮮一体」と差別
 P74~             (略)
 過去のことは水に流せとは言わないけれど、日本人も朝鮮人も一体だからということで、總督府が新しい方針を打ち出して、朝鮮人も次々と日本人と同じ権利を持つことができました。
 内鮮一体ということは過去には差別があったということでもあります。それを否定するつもりはありません。しかし、これを日本人は無くそう、朝鮮人も同じ権利にしようと努力していたのです。この努力を日本人は懸命にしていた事実を知ってほしいと思います。
 しかし、私は内心思いました。内鮮一体ならば、朝鮮人も徴兵の義務があってもいいじゃないか。なぜ、徴兵がないのか不思議だなと思いました。

                                    「第二章 朝鮮人の仲間達」より
                       転載了
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「日本人も朝鮮人も皇民だったということです」
 これは「皇学=国学」、「皇典=古典籍」、「皇国=我が国」のように、「皇民=国民」と考えるべきと思います。
 「皇民化政策」と言えば、「天皇の民にする政策」と思いがちですが、「一国民化政策」と考えるのが妥当な線でしょう。


 「内鮮一体ならば、朝鮮人も徴兵の義務があってもいいじゃないか。」
 差別を無くそう、同じ権利を持とう、と色々な権利を手に入れるようにしていった。ならば何故、徴兵の義務がないのだ?
 素朴な疑問です。簡単に言えば「ズルいなぁ」の一言でしょう。こんな素朴な疑問が出てくるくらい、この頃になると日本人の持つ権利に肉薄するほどになっていた、ということですよね。
 だからこそ、「この努力を日本人は懸命にしていた事実を知ってほしいと思います」という言葉が出てくるのだと思います。
 徴兵はなかった、というこの文章を見れば、慰安婦を強制連行した、などと言うのがとんでもない大法螺だ、ということが納得できます。

 慰安婦に関しては別の項でこんな風に書かれています。
 ~こうした總督府の組織、命令系統を理解した上で、いわゆる慰安婦連行について説明します。創氏改名や徴用など總督府が行った政策と慰安婦連行など次元の違う話を一緒にしてはいけません。慰安婦連行を行政機関が命令させたということは、絶対にありません、不可能なことです。~


 一旦、ここで切ります。
 次回は同書の中にある「コラム」を転載します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする