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徳川幕府と天皇家との確執(円地文子著「女人風土記」)

2022年07月17日 | O60→70(オーバー70歳)
円地文子著「女人風土記」の抜き書き帳、その2は徳川幕府と天皇家との確執のお話です。玉室宗珀が現在の福島県東白川郡棚倉町、赤館に幽閉されたとの記述がありました。私は、小学校の遠足で赤館山公園に行きました。棚倉高校にも3年間通ったのに、「紫衣事件」のことはまったく知りませんでした。

P107 天皇家と幕府との間には、天皇の勅許をした紫衣を僧侶から幕府の命令によって奪い去るという不穏な確執があり、この幕令に抗議した僧侶が多く流謫(りゅうたく)されたりして、天皇の鬱憤は積もるばかりであった。しかし武備、兵力を持たない天皇の抗議は自分から要捨てるより道はない。徳川氏和子を母とする諱与子(いみなよし)内親王(明正天皇) に位を譲ることがそれであった。奈良朝の孝謙女帝以来、数百年絶えていた女帝が日本に復活したのはこの時である。

🔵 しえじけん【紫衣事件】
1627年(寛永4)7月,以心崇伝や老中土井利勝らは,大徳寺・妙心寺の入院・出世が勅許紫衣之法度(1613年6月)や禁中並公家諸法度(1615年7月)に反してみだりになっているととがめた。しかるに翌春、大徳寺の沢庵宗彭、玉室宗珀、江月宗玩や妙心寺単伝士印らは抗議書を所司代板倉重宗に提出したため、江戸幕府は態度を硬化させ、1629年7月、あくまで抵抗した沢庵を出羽国上山に、玉室を陸奥国棚倉に、単伝を出羽国由利に配流し、さらに1615年(元和1)以来幕府の許可なく着した紫衣を剝奪した。

🔵玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)
(1572―1641)
桃山から江戸初期の臨済宗の僧侶(そうりょ)。京都の人。字(あざな)は玉室、諱(いみな)を宗珀と称し、睡眠子(すいみんし)と号した。春屋宗園(しゅんおくそうえん)(1529―1611)の法を嗣(つ)ぎ、沢庵宗彭(たくあんそうほう)や江月宗玩(こうげつそうかん)と兄弟弟子になる。36歳で大徳寺147世の住持となり、後陽成(ごようぜい)天皇の帰依(きえ)が厚く、「直指心源禅師」の号を賜った。その後、大源庵、高林庵、芳春院(ほうしゅんいん)などを創建したが、紫衣(しえ)事件で3年間奥州赤館(あかだて=現在の福島県東白川郡棚倉町赤館山公園)に配流されたこともあった。その書画は、気韻清高をもって人々から尊重される。とくに書は、師春屋に通じ、洗練された洒脱(しゃだつ)さを示している。[久保木彰一/2017年6月20日]
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