久しぶりにチェーホフの『かわいい女』を読み返してみた。この作品はトルストイも絶賛したと言われる小品ではあるが、その評価は2分する。ジェンダーフリーを主張する女性たちはこの作品の主人公=オーレンカを「自分を持たない常に夫や恋人の意見を受け売りするだけの、男性に隷属したバカな女」と酷評しトルストイの評価に対しては「彼は恐妻家だったからよ」と反論する。他方肯定派は「与えるだけの愛、何の打算も無く、見返りを求めず、夫や恋人の意見を自らのものにし愛情なしには一日も暮らせない神にも似た『かわいい女』」と絶賛する。
不特定多数を視野に置くブログで筋を紹介しないのは不親切だと思うので筋を紹介するが、文庫本で20数ページの小品なので、ぜひ読んで欲しい。原作にあたらずして他人の評価に組することだけは止めて欲しい。
下級官吏(8等官)の娘=オーレンカは誰からも愛される『かわいい女』である。夫運が悪く2度の結婚は夫の死によって消滅する。最初の夫クーキンは芝居の演出家であり、遊園地の経営者である。夫と共に芝居について語り、雨が降り続けば夫と共に怒り『私たちを殺す気か!』と嘆く。2度目の夫プストワーロフは材木商である。会う人ごとに材木のことばかり語り、芝居のことなどすっかり忘れている。材木商の死後その友人であった獣医師(妻帯者)のスミルニンを恋人にする。獣医師たちの会話に加わり、『素人は黙っていろ』と怒られれば、抱きついて許しを乞う。その恋人との別れと共に彼女は自分の意見をなくしてしまう。愛なしには生きれない「かわいい女」なのである。そして一人ぽっちになった彼女が見つけた最後の愛が獣医師夫婦から見捨てられた息子のサーシャである。彼を自分の手元に引き取り、こよなく愛する。少々疎まれようとも、うるさいおばさんとしりぞけられようとも、ただひたすら愛する。与えるだけの愛である。これまで経験することの無かった母性愛に目覚めるのである。しかし、与えれば与えられる。至福のひと時を得るのである。その後獣医師夫妻が帰ってきて息子を取り返すかもしれない。しかし、与えられた運命をそのまま神の贈りものとして積極的に肯定し、受け入れる。その姿勢こそ『かわいい女』の条件ではなかろうか?
女性の愛らしさがデホルメされ、シンボライズされた形で見事にオーレンカに収れんされている。
この筋は、客観的なものである。しかしどちらに組しているのかと問われれば、肯定派といわれても仕方が無いであろう。感情移入がされているからである。
さて、性差は次の2つに分類される。一つは、生物学的、先天的、身体的性差=Sexであり、もう一つは歴史的、社会的に形成された性差=Genderである。Genderfreeとは従来の固定的な性差による役割分担を廃して、男女が平等に自らの能力を生かし自由に行動し生活できることを意味している。Gennderfreeの運動とは、それを実現するための運動である。
僕はGenderfreeの運動を否定するものではない。しかしこの運動を続けるために失ったものがあるのではなかろうか?平等を叫び、男に負けないように努力するのは良い。その為に女を捨ててはいないだろうか?もう一つの性=Sexを忘れてはいないだろうか?男はどんなにがんばっても子供を生むことは出来ない。母にはなれないのである。女には母性がある。母性愛がある。やさしさがある、可愛さがある。失ったものは、その『愛』ではなかろうか?夫に対する愛、子供に対する愛、家族に対する愛、同胞に対する愛、郷土に対する愛、国に対する愛、世界に対する愛、地球に対する愛、宇宙(神)に対する愛、それらに対する愛を失い自分ひとりの愛に生きるとき、今横行する親殺し、子殺し、夫殺し、が発生する。愛が無いから、いじめが生まれ、いじめられっこは自殺する。"愛の喪失"それが現代ではなかろうか?チェーホフの「かわいい女」はそれに警鐘を打ち鳴らす。『愛』を復活せよと!
不特定多数を視野に置くブログで筋を紹介しないのは不親切だと思うので筋を紹介するが、文庫本で20数ページの小品なので、ぜひ読んで欲しい。原作にあたらずして他人の評価に組することだけは止めて欲しい。
下級官吏(8等官)の娘=オーレンカは誰からも愛される『かわいい女』である。夫運が悪く2度の結婚は夫の死によって消滅する。最初の夫クーキンは芝居の演出家であり、遊園地の経営者である。夫と共に芝居について語り、雨が降り続けば夫と共に怒り『私たちを殺す気か!』と嘆く。2度目の夫プストワーロフは材木商である。会う人ごとに材木のことばかり語り、芝居のことなどすっかり忘れている。材木商の死後その友人であった獣医師(妻帯者)のスミルニンを恋人にする。獣医師たちの会話に加わり、『素人は黙っていろ』と怒られれば、抱きついて許しを乞う。その恋人との別れと共に彼女は自分の意見をなくしてしまう。愛なしには生きれない「かわいい女」なのである。そして一人ぽっちになった彼女が見つけた最後の愛が獣医師夫婦から見捨てられた息子のサーシャである。彼を自分の手元に引き取り、こよなく愛する。少々疎まれようとも、うるさいおばさんとしりぞけられようとも、ただひたすら愛する。与えるだけの愛である。これまで経験することの無かった母性愛に目覚めるのである。しかし、与えれば与えられる。至福のひと時を得るのである。その後獣医師夫妻が帰ってきて息子を取り返すかもしれない。しかし、与えられた運命をそのまま神の贈りものとして積極的に肯定し、受け入れる。その姿勢こそ『かわいい女』の条件ではなかろうか?
女性の愛らしさがデホルメされ、シンボライズされた形で見事にオーレンカに収れんされている。
この筋は、客観的なものである。しかしどちらに組しているのかと問われれば、肯定派といわれても仕方が無いであろう。感情移入がされているからである。
さて、性差は次の2つに分類される。一つは、生物学的、先天的、身体的性差=Sexであり、もう一つは歴史的、社会的に形成された性差=Genderである。Genderfreeとは従来の固定的な性差による役割分担を廃して、男女が平等に自らの能力を生かし自由に行動し生活できることを意味している。Gennderfreeの運動とは、それを実現するための運動である。
僕はGenderfreeの運動を否定するものではない。しかしこの運動を続けるために失ったものがあるのではなかろうか?平等を叫び、男に負けないように努力するのは良い。その為に女を捨ててはいないだろうか?もう一つの性=Sexを忘れてはいないだろうか?男はどんなにがんばっても子供を生むことは出来ない。母にはなれないのである。女には母性がある。母性愛がある。やさしさがある、可愛さがある。失ったものは、その『愛』ではなかろうか?夫に対する愛、子供に対する愛、家族に対する愛、同胞に対する愛、郷土に対する愛、国に対する愛、世界に対する愛、地球に対する愛、宇宙(神)に対する愛、それらに対する愛を失い自分ひとりの愛に生きるとき、今横行する親殺し、子殺し、夫殺し、が発生する。愛が無いから、いじめが生まれ、いじめられっこは自殺する。"愛の喪失"それが現代ではなかろうか?チェーホフの「かわいい女」はそれに警鐘を打ち鳴らす。『愛』を復活せよと!