日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

その他の愛「アンナカレーニナ」2トルストイ

2008年03月02日 | Weblog
 先のブログで、私はアンナとブロンスキーの不倫の愛、キティーとリョウビンの夫婦愛について述べてきたが、この作品にはその他さまざまな愛の形態が描かれている。
 アンナとその愛息セリョージャとの愛、リョービンの異父兄コズヌイシェフとワーレンカの愛、オブロンスキーとその妻ドーリーの愛とさまざまである。
 母アンナは死んだのだという周囲の教えを信じなかったアリョーシャは、密かに会いに来た母アンナとの再会を心から喜び、歓喜するが、アンナが去った後、自分と母は一緒に住めない運命だと悟り、彼を自分なりの方法で愛してくれる父=カリーニンと過ごすことを決める。心ならずも、父の考える所謂「良い子」を演じ、母への愛を凍結する。父に従っていれば、生活は保障されるし、教育も受けられる。それはわずか9歳の男の子の考えた生活の知恵であった。しかし、彼は自分に対する愛の鍵を持たない者は、たとえ父でも、自分の魂の中へ入れようとはしなかった。彼の心は孤独だった。
 そして、コズヌイシェフとワーレンカの愛である。回りのものから最高のカップルと思われ、コズヌイシェフ自身彼女を心憎からず思っていたにも拘らず、過去に愛した女性への想いを断ち切れず、この愛は実現することは無かった。そこには純愛がある。
 次にオブロンスキーとキティーの姉ドーリーとの愛である。度重なる夫の浮気に苦しめられ嫉妬に狂うドーリーは、自分の心に忠実に生きたアンナの勇気を賛美する。しかし離婚に踏み切る事は出来ない。彼女にとって夫は生活上の必要悪だからである。尊敬も無ければアンナのような激しい愛も無い。ただ辛抱があるだけである。そして鏡を見る。まだまだいけると考える。危険な愛である。
 男の放蕩は許されるのに、なぜ女の放蕩は許されないのか?ジェンダーフリーを主張する女性は言う。確かにそうかもしれない。しかし、そこには女の性と男の性に対する無理解がある。男にとってのセックスは、あくまでも欲望の充足に過ぎない。極端な言い方をすれば小便みたいなものである。それは一つの排泄作用であって、貯まった精子を外に出す作用に過ぎない。必ずしも愛情の発露としてのセックスではない。だから男はそのことによって家庭を壊そうとはしない。家庭は家庭、遊びは遊びである。両者を分けて考える事が出来る。それに反して女性はそうではない。女性は子孫を後の世に伝えていくという神聖な義務を負っている。おかしな種子を宿してはならないのである。メスのサラブレッドに駄馬を掛け合わせると二度とサラブレッドは生まれないという。サラブレッドは後世にサラブレッドを伝えていかなければならない。放蕩は許されないのである。女の性には愛がある。例え夫以外の男を愛したとしても、浮気ではなく、本気になるという。ここが男の性と決定的に違うところである。だから男の浮気を女は気違いのように騒がないことである。外で小便してると思えば気楽なものである。だからドーリーはオブロンスキーの浮気を苦々しく思いながらも、許しているのであろう。
 むかし「哀愁」という映画を見た。ロバートテイラーとヴィヴィアンリーの悲恋の物語である。黒澤明の「7人の侍」も見た。その筋に夜盗に拉致され、彼らによって慰め者にされた島崎雪子と、その夫の話が含まれている。
 結婚式まで決まっていたロバートテイラーとヴィヴィアンリーのもとに届いたのは出征の知らせであった。彼は戦死する。その知らせを受けたヴィヴィアンリーは心を狂わせ、立ち直ることが出来ない。夜な夜なロバートテイラーに似た男に声をかけ、夜の女に転落していく。しかし、戦死は誤報であり、彼は凱旋して来る。二人は再会したものの、彼女は汚れ、変化した自分の身の上を考えて、震えおののく。告白は出来ない。汚れてしまった己の身を恥じ、戻ることの出来ない過去を悲しみ、苦悩し、突進してくる軍用トラックに身を投げて自殺する。「7人の侍」の島崎雪子も助けに来た夫の目の前で業火に身を投げ死んでいく。
 共に汚れてしまった自分の身を恥じ、戻ることの出来ない過去に想いをはせ、苦しみ、悲しみ、心の純潔を明かす為に死んでいく。死は愛するものへの愛の証でもあった。
 もし死ななかったら、めでたしめでたしではあるが、男の心の中にわだかまりを残すのは確かであろう。男とはそういう動物である。
 神は罪を犯したヒトを「神の国」から追放した。しかし、死を与えることによって、全てを許すのである。そこには原罪からの解放がある。ヒトは「神の国」へ戻っていく。それ故、人の死は、神によって運命付けられているのである。
 トルストイは「アンナカレーニナ」の中でさまざまな愛の形態を描いているが、「純愛」こそ、神の意に適っていると言いたかったのであろう。神は「アンナ」に死を与えることによって、その罪を許したのである。
 
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