日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

第38回芥川賞受賞作品「乳と卵」川上未映子作おっぱいは誰のもの

2008年03月10日 | Weblog
 東京の住む私(語り手)のところに、大阪から豊胸手術のため、姉の巻子と、その姉に対して言葉を失ったその娘の緑子が二泊三日の予定で訪ねてくる。在京中の中年を迎え、身体に衰えを感じ、豊胸手術に胸いっぱいの女と、初潮を間直に控えたその娘の、心と身体の秘密がこの作品のテーマである。
 この作品を読んでまず感じる事は、その文章の息の長さである。いつ句点が来るのかと戸惑ってしまう。だらだらと読点と接続詞でつないでいく。しかも大阪弁である。極めて読みにくい。常識的に言えば、典型的な悪文である。勿論作者は意図的である。しかし読み進んでいくうちに、こんな文章にも慣れてくる。それほど気にならなくなる。しかしあえてこんな文章を書く作者の意図は何であろうか?大阪弁と長い文章とは相性が良いのであろうか?
 文章は言葉を失った緑子の独白と、私の語りという二つの文章から成り立っている。お互いに関連をもちながら、話は進展していく。
 初潮前で同級生には既に経験しているものもいるという表現から推察すると、緑子は中学生であろう。人生において一番感受性の強い時期である。初潮とは初めての月経であり太陽の引力の関係で満ちたり引いたりする潮のように、定期的(月一回程度)女性に訪れるものらしい。ぼくは男なのでよく分からないが、女性の神秘の一つである。小学生の頃おしべとめしべが結びついて実を実らせるというのは性教育で学んだものだが、それが人間の精子と卵子が結びついて子を生むという、人間の性の問題と結びついたのは、ずーと後のことであった。
 卵子と精子が結びついて妊娠するのであるが、そこにはドラマがある。一匹の女王蜂をめぐって数百匹の雄蜂が競争して、その中の一匹だけが女王蜂と結合して幼虫が生まれるように、一つの卵子をめぐって数百億と言う精子が競い合い一つの精子だけが卵子と結びついて妊娠するのである。それは強い子を生むための自然の摂理なんだと聞かされた事がある。だからお前はエリートなんだと母から言われて得意になったものである。人は生まれながらにしてエリートなんだ。そこには階級もなければ貧富の差も無い。誇りを持って生きていかねばならない。そして卵子と結びつかなかった精子が無精卵として血になって子宮の外に定期的に出てくるのが月経である。そんなことを高校時代、エロ雑誌を傍らにおいて、学校の勉強をほったらかして一生懸命勉強したものである。実物の写真は当時インターネットは無かったので、平凡社の分厚い百科辞典を紐解き「子宮」と言う言葉で検索して、そこに出てきた解剖図を穴のあく程見つめたものである。高校時代、悪がきの中には商売女と関係を持ったものがいて「キスもさせなければ、おっぱいにも触らせなかった」と怒っていた。軽くあしらわれて、おまけに「こんなところに来ていないで、真面目に勉強しなさい」と諭されて、追い帰されたと言う。そんなのに較べればぼくは初な学生だったと思う。この作品にはナプキンという言葉も出てくる。定期的に出てくる出血を洩れないように防御するものらしい。テレビに出てくるコマーシャルでは血は青色になっている。明らかに表示違反である。血は決して青くはない。赤い筈である。
 初潮は女の子が大人になった証拠だと言う。赤飯を炊いて祝う家庭もあるらしい。今は教育が行き届いているので、どうか分からないが、初潮を迎えた女の子はすごいショックを受けると言う。突然何の前触れも無く出血するのだから、その驚きは男のぼくにも良く分かる。親にも相談出来ず悩む子もいると言う。男にとっての初潮にあたるものは、夢精だと思うが、それよりも最初のマスターベーションであろう。初潮と違って夢精は気づかないことが多いからである。大きく太くなったペニスを触っているうちに、突然射精する。それと同時に感じる快感。病み付きになる。男と女の結合、そして射精、この過程を手でやるのである。手淫とも言う。最初は罪の意識に苛まれた。しかし夫婦の営みを手でやっているに過ぎないと考え付くと、もう罪の意識は無くなった。現実には相手がいないからイメージ力を必要とする。セクシュアルな女優、好きな女性をイメージする。レイプあり、サゾあり、マゾあり、縛りあり、とやりたい放題である。現実にはこうはいかない。写真が無ければ出来ないと言う男がいたが、イメージ力が無いと仲間から笑われていた。舞台芸術、造形美術、スポーツなどもイメージ力が必要である。マスターベーションは男にとっての最初の性体験であろう。これは、ぼくにとって、ショックだった。女性は、初潮が始まり、それから何十年もの間、閉経に至るまで、股から出る血のお世話をしなければならない。とても面倒らしい。ナプキンの世話にならねばならない。これが子どもを生まねばならない女の生理なのだと緑子は理解する。命を生むことの尊さがあると同時に、この命を継承していく力が無くてはならない。これが生活力である。命を生み、育て、次世代へと継承して、人生を全うする。自分の母は、自分を生み、自分を育てる為に、毎日働き続け、苦労して、老いて、何の楽しみも無く死んでいくであろう。それが何の意味があるのか?と緑子は疑問を提出する。だから自分のためにも、生まれてくる子供の為にも、自分は決して子供を生むまいと思う。しかし自分が何を考えようと、女の身体は生まれる前から生むを持っている。女は子供を生む事は出来る。しかし、その構造まで自由にする事は出来ない。大人になることを拒否しようとも、自分の意志に関係無しに成長していく。乳房は膨らんでくる。このように誕生、生長、死は人間の意図、作為とは関係なく、なにか別の力、もっと大きな力(例えば神)によって動かされているのではないのか?緑子は自問する。そして母の豊胸手術を批判する。神の作り賜うた身体を、いかに衰えたとはいえ、人間がいじくりまわすのは、神の意に沿うているのか?と。
 母巻子との間での会話を失い、筆談によってしか意志の疎通が出来なくなった原因とは何か?そういう時期=反抗期なんだから、あまり気にしていないといいながらも、母巻子は、「なぜ私と口を聞かへんの?」と怒りを露にする。そんな母に対して緑子は「ほんまの理由は何なの!?」、「ほんまの理由は何なの!?」と繰り返し、卵を自分にぶつけ、床にたたきつけて母に迫る。それは母巻子がいい年をして豊胸手術に頭が一杯で、自分をかまってくれないことへの怒りなのか、父親と別れて何年もの間、会えないことの寂しさなのか?いずれにしても、自分の怒りをあらわにして母に迫る。母巻子も「ほんまの事など何も無い!」「ほんまの事など何も無い!」と繰り返しながら自分自身も、卵を自分にたたきつけ、床にたたきつけながら、緑子をしっかりと抱きしめる。二人の間のわだかまりは無くなったようである。巻子は緑子の父親=夫に再会した後、あんなに望んでいた豊胸手術をすることなく、2泊3日の滞在を終えて、私のもとから大阪へ帰っていった。おそらく自分の衰えを素直に認め、美しく老いることを考えたのであろう。
 初潮を目前にして、感受性が極度に高まっている娘と中年を向かえ、衰えた身体を修復したいと望む母との、心と身体の関係性を描いた佳作である。
 胸を大きくしたいと言う女の執念を通じて男女の関係性が語られる。果たして胸を大きくしたいと言う女の願望は、自分自身のためなのか、男の為なのか?作者は性的文化の目を通じて、、性別の関係しない文化はないと断ずる。女は男を前提にしてはじめて女になる。逆も真なりである。男(女)が存在しなければ、女(男)も存在しない。女(男)と言う言葉も無いであろう。男と女の関係性の総体が社会である。
 女の乳房は本源的には、子供を生み育てる為の道具であるが、同時に男の性欲をそそり、性交へと導き、子供を生み、育てる為に、神がお作りになり、男性に賜ったものである。女の乳房は男を前提にして初めて意味を持つのである。
 人の訪れることのない奥深い森林の中に咲く美しい一輪のバラ、それはどんなに美しく咲いても、それ自身何の存在価値も無い。見られてこそはじめて意味を持つ。女の美への憧れは、男性の存在を前提にしている。美はそれ自身として存在しているのではない。
 芸術作品に見られる女の胸、ミロのビーナスに見られる美しい乳房、それは見られることへの喜びをあらわしている。性は芸術にまでも高められたのである。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする