書簡集14の2へブル人への手紙
はじめに
これからへブル人への手紙の後半に入ります。
その前にすでに述べた前半について述べてみます。前半ではキリストの教えに疑いを持ち、揺るぎの中にあった同族のへブル人に対して、その回帰を願って、この書の著者が手紙を書きます。彼らをキリストの教えに回帰させるために必要なことは、神の子キリストが、いかに優れた方であり、あらゆる神に対して至高の存在であるかを証明することでした。そのためには、ユダヤ教徒が大切にしている、み使い=天使、モーセの律法、レビ的祭司の3つのものよりも、キリストの教えは卓越したものであると証明することでした。御子はみ使いよりも優れた存在であり、優れた救いの道を備えられ、またアロン(モーセの兄)の祭司職よりも偉大なメルキゼデク(キリストの型=象徴)が祭司となられたことが述べられています。もともと祭司職には二つの流れがあり、一つはアロンに代表されるレビ族の流れであり、もう一つはキリストに繋がるメルキゼデクの流れの二つです。これまで、キリストに繋がる流れは、レビ族の流れの背後に隠されていました。しかし、レビ族の流れは破綻し、キリストに繋がる流れが表に出てきたのです。こうしてモーセを通して与えられた「古い契約」は、キリストと神との「新しい契約」に取って代わられたのです。キリストは祭司職として霊的に再生したのです。キリストは神の真理のすべてを宣べ伝え、人と神の仲介役になられました。このように、古い契約に立つユダヤ教に対して、新しいキリストの教えの優位性を証しすることによって、揺るぎの民(へブル人)の悔い改めと、キリストへの回帰を、著者は促したのです。
これまでが前半のあらすじです。
へブル人への手紙の内容構成
神が思い、キリストから民に伝えられた真理=救いの国=神の国(神のご計画の完成)はいまだ実現していません。未来完了の世界です。その実現を保証する根拠はどこにもありません。災厄の中にあります。しかし、ここに希望と信頼と愛の道が備えられています。「信仰」が生まれる余地があるのです。信仰とは、まず、神の存在を認めること。神が言われること、願っていることを素直に受け止め、何の疑問も提示せず「しかり」と、納得し、確信し、行動に移すことです。行動なき信仰は無です。揺るぎの民=へブル人はこのことを知って悔い改め、神に立ち返らねばならないのです。
信仰とは
神の言われることを「そのとおりである(信頼)」と受け入れることが信仰であり、信仰の結果、その目に見えないことが自分の中に体験されることになります。パウロは言います「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです」と、この言葉が自分の中で現実となるとき、私たちはどんな境遇においても、力強く歩み、また神の栄光を、自分の身を通して豊かに表していくことが出来るのです。
1.信仰がなければ神に喜ばれることはありません。神に近づくものは、神がおられることと、神を求める者には報いてくださることを信じなければならないのです。
2.信仰は、私たちが今まで聞いてきたキリストについての教えを自分のものとする媒体であり、清められた良心とともに、神を知り、神に近づくことのできる唯一の方法です。
3.「私の兄弟たち。様々な試練に会うときは、これをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生ずるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全なものとなります(ヤコブ1:2~4)」。
キリスト教の信仰は神と人との信頼関係によって成立しています。それは赤ん坊と親との関係に似ています。赤ん坊はすべてを親に依存しなければ生きていけません。そこには自分はありません。他者にゆだねきっています。これは神と人との関係においても同じです。人は自分を捨て、神を信頼してすべてをゆだねたとき、救われるのです。イエスは、唯一絶対者である神を遠いものとしてではなく、父親のように最も近い存在として、「アッバ」と呼びました。「アッバ」とは、ごく幼い子供が親しみを込めて父親を呼ぶときの表現です。「パパ」とか「お父ちゃん」とか言う感じでしょう。ここが旧約聖書の神と異なる点です。旧約聖書では「罪は死」を意味していました。恐れの存在であっても親しい関係など抱くことは出来ませんでした。キリスト教の信仰においては「アッバ」と呼ぶ幼い子供のように神への信頼が何よりも先にあります。どんな絶望的状況にあっても、希望を持つことが出来ます。それはやがてキリストが再び来られ、その救いを完成してくださるという望みです。「キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身を捧げられましたが、2度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです(9:28)」。神への信頼により包み込まれ、乗り越え行動に移すことが出来るのです。
11章では、信仰によって神の恵みを受けたものの具体的な名前が挙げられています。これらすべてについて説明することは時間と紙面の関係上できません。アベルとカインの捧げもの、とノアの信仰の二つを述べたいと思います。
カインは野の作物を神にささげ、アベルは子羊の肉を神に捧げました。共に最上のものを捧げたはずです。神はアベルを用い、カインを退けられました。何故か。アベルは、信仰によって神の望まれるものを捧げたのです。しかしカインの捧げたものは神によって「呪われた土地」の作物だったのです。アダムはその罪によってその土地は「呪われたもの」になっていたのです。この事情をアダムの子であるカインは知っていたはずです。カインにあったものは「我」であって神に逆らうものだったのです。
次にノアについて述べたいと思います。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続するものになりました。(11:7)」。ノアは神から「これから地上に生きている者を消し去ろう。あなたは箱船を造りなさい」とノアに命じられました。ノアは、洪水が起こることを知らされていなかったにもかかわらず、それが起こることを前提にして箱舟を造ったのです。この時、人々は悪いことばかりに傾き、良いものがない状態でした。神がお怒りになっておられることをノアは知っていたのです。ノアは家族とともに箱舟に入りました。洪水が起こり、罪にまみれた人々はおぼれ死んだのです。ノアは、箱舟の中で家族とともに救われました。ノアは信仰に生きた人だったのです。神はそれを知って彼をお救いになったのです。
この書の著者は、この二人のほかに信仰に生きた人々について語っていますが「この人々は、みなその信仰によって証しされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのためにさらにすぐれたものをあらかじめ用意されておられたので、彼らが私たちと別に全うされることはなかったのです(11:39~40)。間もなくこの世に終わりの日が訪れます。神の怒りが下る日です。その日に備えて我々は信仰に生きなければならないのです。この書の著者は、信仰に揺るぎのあるヘブル人に信仰に生きることの意義を教えています。
契約とは:
新しい契約を結ぶにあたって、この書の著者は次のように言う「もし、あの初めの契約(古い契約)が欠けのないものであったなら、後のもの(新しい契約)が必要になる余地はなかったでしょう(8:7参照)。はじめのものとは「あなたがたが主の教えに聞き従うなら、あなたがたは宝の民となる」。と言うものである。この契約は双務契約であって、一方が破れば、他方はこれを守る必要はない。しかし、人は主の教えに聞き従うものではなかった。神が言われたように、そこには欠けるものがあった。神はイスラエルの民が契約を守り通せないのを見て、新しい契約を結ばれたのである。神は人には期待しなかった。人が変わることが出来ないなら、自らが変わろうと考えたのである。神はノアにこう言っている。「わたしは、決して、人のゆえに、この地を呪うことはすまい。人の心を思い計ることは、初めから悪だからだ(創世記8:21)」と。神は人の罪に対する対処を罰ではなく、赦しとあわれみを提供することによって解決することにしたのです。神の側で罪の問題を決着されたのです。「主が言われる。見よ、日が来る。わたしがイスラエルの家や、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が(8:8)」「私は私の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」「彼らは、みな私を知るようになる」「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い出さないからである(8:10~12参照)」。しかしこの言葉はあくまでも神の意志であって人とは関係はない。人には、神は遠い存在であった。そこで神と人との仲介役を務めたのが神の子=イエス・キリストであった。
それではイエス・キリストとはどんなお方なのでしょうか。
「私たちの大祭司(キリスト)は、天におられる大能者(神)の、み座の右の座に着座された方であり人間が設けたのではなくて、主が設けた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です(8:1-2)」そこから地上をご覧になり、執り成しをしておられます。
一方、律法に従って捧げものをする祭司たちがいます。その人たちは、天にある幕屋の写しと影である幕屋に仕えています。その幕屋は神がモーセに命じて作らせたもので、天にある「真の幕屋」の写しであり影なのです。それは、完全な似姿です。
ここでは神は「真の幕屋の姿」を示していません。写しと影から想像するのみです。9章の初めにその似姿が具体的に示されています。神は決して自分のみ姿を直接にはお示しになりません。その似姿を示し、その姿から、我々は、真の姿を知るのです。
律法に従って捧げものをする祭司たちは写しであり影である幕屋に捧げものをしていました。幕屋は垂れ幕によって前後に分けられ、前の幕屋は、聖所と呼ばれ、後ろの幕屋は至聖所と呼ばれていました。聖所には祭司が入り礼拝をおこない、至聖所には大祭司のみが年に一度だけ入ります。その時、動物の血を携えて入ります。「律法によれば、すべてのものは血によって清められる。また血をそそぎだすことがなければ、罪の赦しはない(9:22)」のです。大祭司の捧げる血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のために捧げるものです。血と同時に、いろいろな捧げものと、いけにえ、とが捧げられます。しかし、それらのものは礼拝する者の良心を完全にすることは出来ませんでした。なぜなら、彼らは霊的には実体のないもの(写しと影)を礼拝したからです。無なるものを礼拝しても救いはありません。ここから人は、実体のあるもの天にある真の幕屋へと導かれていくのです。「キリストは、この世界にきてこう言われるのです。『あなたは、いけにえや捧げものを望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと、罪のためのいけにえとで、満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、私は来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみ心を行うために』(9:5~7)」。イエスはこの段階で、十字架上での死をはっきりと理解していたのです。自分の死と復活がなければ、イスラエルを、いや全世界を救うことは出来ないのだと。イエスは十字架上で「完成した」と叫んでいます。「しかし、キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造ったものでない、言い換えれば、この造られたものとは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子羊との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです(9:11~12)」。このようにしてキリストは天に上り、神の右の座にお座りになったのです。
この著作の著者は言う「私たちの前の置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようでありませんか」と迫害の中にあり、揺るぎのへブル人に対して、忍耐をもって、信仰の創始者であり、完成者でもあるイエスから目を離すなと警告する。そして言う「「主の懲らしめを軽んじるな」と。それは、信じることの苦しさに背信の心を起こそうとするへブル人に対して、懲らしめは父親の愛であり、主へ導くための訓練だと励ます。
「へブル書」を読むとき、必ず、古い教えと新しい教えが対比されて語られていることに気づきます。それは新しい教えが、古い教えに卓越していることを証しするためです。古い教えは「戒めと畏れ」の教えであり、罪を生むものであるとするなら、新しい教えは愛と恵の教えであり、罪からの解放を目的としているからです。このことによって、揺るぎの中にあるへブル人に勇気を与え、迫害に耐え、キリストの教えに戻ることを、この書の著者は、心の底から望んだのです。
これから本書の最後の13章を読みます。ここでのテーマは「宿営の外に」です。私たちはこれまで、この書簡の背景になっていた、信仰に揺るぎを感じていたへブル人のことを念頭に入れて読んできました。これからはこの書簡のハイライトです。彼らは、迫害や圧迫の中にあって、神に疑いを持ちその神への信仰に躊躇し迷いの中にありました。この書簡の著書は、これらの人々に対して、どのように生きていかねばならないかを教え、諭し(13:1~9)、その結論として「宿営の外に出て、御許に行こうではありませんか」と語っています。宿営の中には幕屋があります。大祭司は至聖所の中に、動物の贖いの血をもって入り、それを自分と、民の救いのために捧げました。しかし動物の体は幕屋の外で焼かれました。同様にイエスもご自分の血で、民を聖なるものとするために、そのからだは門の外で十字架の苦しみを受けられたのです。
「私は、あなたに命じたではないか。強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神=主があなたの行くところ、どこにでも、あなたと共にあるからである(ヨシヤ1;9)」。これはへブル人に対する励ましの言葉である
はじめに
これからへブル人への手紙の後半に入ります。
その前にすでに述べた前半について述べてみます。前半ではキリストの教えに疑いを持ち、揺るぎの中にあった同族のへブル人に対して、その回帰を願って、この書の著者が手紙を書きます。彼らをキリストの教えに回帰させるために必要なことは、神の子キリストが、いかに優れた方であり、あらゆる神に対して至高の存在であるかを証明することでした。そのためには、ユダヤ教徒が大切にしている、み使い=天使、モーセの律法、レビ的祭司の3つのものよりも、キリストの教えは卓越したものであると証明することでした。御子はみ使いよりも優れた存在であり、優れた救いの道を備えられ、またアロン(モーセの兄)の祭司職よりも偉大なメルキゼデク(キリストの型=象徴)が祭司となられたことが述べられています。もともと祭司職には二つの流れがあり、一つはアロンに代表されるレビ族の流れであり、もう一つはキリストに繋がるメルキゼデクの流れの二つです。これまで、キリストに繋がる流れは、レビ族の流れの背後に隠されていました。しかし、レビ族の流れは破綻し、キリストに繋がる流れが表に出てきたのです。こうしてモーセを通して与えられた「古い契約」は、キリストと神との「新しい契約」に取って代わられたのです。キリストは祭司職として霊的に再生したのです。キリストは神の真理のすべてを宣べ伝え、人と神の仲介役になられました。このように、古い契約に立つユダヤ教に対して、新しいキリストの教えの優位性を証しすることによって、揺るぎの民(へブル人)の悔い改めと、キリストへの回帰を、著者は促したのです。
これまでが前半のあらすじです。
へブル人への手紙の内容構成
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/df/c995510857a548642248a205acc0a98b.jpg)
神が思い、キリストから民に伝えられた真理=救いの国=神の国(神のご計画の完成)はいまだ実現していません。未来完了の世界です。その実現を保証する根拠はどこにもありません。災厄の中にあります。しかし、ここに希望と信頼と愛の道が備えられています。「信仰」が生まれる余地があるのです。信仰とは、まず、神の存在を認めること。神が言われること、願っていることを素直に受け止め、何の疑問も提示せず「しかり」と、納得し、確信し、行動に移すことです。行動なき信仰は無です。揺るぎの民=へブル人はこのことを知って悔い改め、神に立ち返らねばならないのです。
信仰とは
神の言われることを「そのとおりである(信頼)」と受け入れることが信仰であり、信仰の結果、その目に見えないことが自分の中に体験されることになります。パウロは言います「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです」と、この言葉が自分の中で現実となるとき、私たちはどんな境遇においても、力強く歩み、また神の栄光を、自分の身を通して豊かに表していくことが出来るのです。
1.信仰がなければ神に喜ばれることはありません。神に近づくものは、神がおられることと、神を求める者には報いてくださることを信じなければならないのです。
2.信仰は、私たちが今まで聞いてきたキリストについての教えを自分のものとする媒体であり、清められた良心とともに、神を知り、神に近づくことのできる唯一の方法です。
3.「私の兄弟たち。様々な試練に会うときは、これをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生ずるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全なものとなります(ヤコブ1:2~4)」。
キリスト教の信仰は神と人との信頼関係によって成立しています。それは赤ん坊と親との関係に似ています。赤ん坊はすべてを親に依存しなければ生きていけません。そこには自分はありません。他者にゆだねきっています。これは神と人との関係においても同じです。人は自分を捨て、神を信頼してすべてをゆだねたとき、救われるのです。イエスは、唯一絶対者である神を遠いものとしてではなく、父親のように最も近い存在として、「アッバ」と呼びました。「アッバ」とは、ごく幼い子供が親しみを込めて父親を呼ぶときの表現です。「パパ」とか「お父ちゃん」とか言う感じでしょう。ここが旧約聖書の神と異なる点です。旧約聖書では「罪は死」を意味していました。恐れの存在であっても親しい関係など抱くことは出来ませんでした。キリスト教の信仰においては「アッバ」と呼ぶ幼い子供のように神への信頼が何よりも先にあります。どんな絶望的状況にあっても、希望を持つことが出来ます。それはやがてキリストが再び来られ、その救いを完成してくださるという望みです。「キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身を捧げられましたが、2度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです(9:28)」。神への信頼により包み込まれ、乗り越え行動に移すことが出来るのです。
11章では、信仰によって神の恵みを受けたものの具体的な名前が挙げられています。これらすべてについて説明することは時間と紙面の関係上できません。アベルとカインの捧げもの、とノアの信仰の二つを述べたいと思います。
カインは野の作物を神にささげ、アベルは子羊の肉を神に捧げました。共に最上のものを捧げたはずです。神はアベルを用い、カインを退けられました。何故か。アベルは、信仰によって神の望まれるものを捧げたのです。しかしカインの捧げたものは神によって「呪われた土地」の作物だったのです。アダムはその罪によってその土地は「呪われたもの」になっていたのです。この事情をアダムの子であるカインは知っていたはずです。カインにあったものは「我」であって神に逆らうものだったのです。
次にノアについて述べたいと思います。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続するものになりました。(11:7)」。ノアは神から「これから地上に生きている者を消し去ろう。あなたは箱船を造りなさい」とノアに命じられました。ノアは、洪水が起こることを知らされていなかったにもかかわらず、それが起こることを前提にして箱舟を造ったのです。この時、人々は悪いことばかりに傾き、良いものがない状態でした。神がお怒りになっておられることをノアは知っていたのです。ノアは家族とともに箱舟に入りました。洪水が起こり、罪にまみれた人々はおぼれ死んだのです。ノアは、箱舟の中で家族とともに救われました。ノアは信仰に生きた人だったのです。神はそれを知って彼をお救いになったのです。
この書の著者は、この二人のほかに信仰に生きた人々について語っていますが「この人々は、みなその信仰によって証しされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのためにさらにすぐれたものをあらかじめ用意されておられたので、彼らが私たちと別に全うされることはなかったのです(11:39~40)。間もなくこの世に終わりの日が訪れます。神の怒りが下る日です。その日に備えて我々は信仰に生きなければならないのです。この書の著者は、信仰に揺るぎのあるヘブル人に信仰に生きることの意義を教えています。
契約とは:
新しい契約を結ぶにあたって、この書の著者は次のように言う「もし、あの初めの契約(古い契約)が欠けのないものであったなら、後のもの(新しい契約)が必要になる余地はなかったでしょう(8:7参照)。はじめのものとは「あなたがたが主の教えに聞き従うなら、あなたがたは宝の民となる」。と言うものである。この契約は双務契約であって、一方が破れば、他方はこれを守る必要はない。しかし、人は主の教えに聞き従うものではなかった。神が言われたように、そこには欠けるものがあった。神はイスラエルの民が契約を守り通せないのを見て、新しい契約を結ばれたのである。神は人には期待しなかった。人が変わることが出来ないなら、自らが変わろうと考えたのである。神はノアにこう言っている。「わたしは、決して、人のゆえに、この地を呪うことはすまい。人の心を思い計ることは、初めから悪だからだ(創世記8:21)」と。神は人の罪に対する対処を罰ではなく、赦しとあわれみを提供することによって解決することにしたのです。神の側で罪の問題を決着されたのです。「主が言われる。見よ、日が来る。わたしがイスラエルの家や、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が(8:8)」「私は私の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」「彼らは、みな私を知るようになる」「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い出さないからである(8:10~12参照)」。しかしこの言葉はあくまでも神の意志であって人とは関係はない。人には、神は遠い存在であった。そこで神と人との仲介役を務めたのが神の子=イエス・キリストであった。
それではイエス・キリストとはどんなお方なのでしょうか。
「私たちの大祭司(キリスト)は、天におられる大能者(神)の、み座の右の座に着座された方であり人間が設けたのではなくて、主が設けた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です(8:1-2)」そこから地上をご覧になり、執り成しをしておられます。
一方、律法に従って捧げものをする祭司たちがいます。その人たちは、天にある幕屋の写しと影である幕屋に仕えています。その幕屋は神がモーセに命じて作らせたもので、天にある「真の幕屋」の写しであり影なのです。それは、完全な似姿です。
ここでは神は「真の幕屋の姿」を示していません。写しと影から想像するのみです。9章の初めにその似姿が具体的に示されています。神は決して自分のみ姿を直接にはお示しになりません。その似姿を示し、その姿から、我々は、真の姿を知るのです。
律法に従って捧げものをする祭司たちは写しであり影である幕屋に捧げものをしていました。幕屋は垂れ幕によって前後に分けられ、前の幕屋は、聖所と呼ばれ、後ろの幕屋は至聖所と呼ばれていました。聖所には祭司が入り礼拝をおこない、至聖所には大祭司のみが年に一度だけ入ります。その時、動物の血を携えて入ります。「律法によれば、すべてのものは血によって清められる。また血をそそぎだすことがなければ、罪の赦しはない(9:22)」のです。大祭司の捧げる血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のために捧げるものです。血と同時に、いろいろな捧げものと、いけにえ、とが捧げられます。しかし、それらのものは礼拝する者の良心を完全にすることは出来ませんでした。なぜなら、彼らは霊的には実体のないもの(写しと影)を礼拝したからです。無なるものを礼拝しても救いはありません。ここから人は、実体のあるもの天にある真の幕屋へと導かれていくのです。「キリストは、この世界にきてこう言われるのです。『あなたは、いけにえや捧げものを望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと、罪のためのいけにえとで、満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、私は来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみ心を行うために』(9:5~7)」。イエスはこの段階で、十字架上での死をはっきりと理解していたのです。自分の死と復活がなければ、イスラエルを、いや全世界を救うことは出来ないのだと。イエスは十字架上で「完成した」と叫んでいます。「しかし、キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造ったものでない、言い換えれば、この造られたものとは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子羊との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです(9:11~12)」。このようにしてキリストは天に上り、神の右の座にお座りになったのです。
この著作の著者は言う「私たちの前の置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようでありませんか」と迫害の中にあり、揺るぎのへブル人に対して、忍耐をもって、信仰の創始者であり、完成者でもあるイエスから目を離すなと警告する。そして言う「「主の懲らしめを軽んじるな」と。それは、信じることの苦しさに背信の心を起こそうとするへブル人に対して、懲らしめは父親の愛であり、主へ導くための訓練だと励ます。
「へブル書」を読むとき、必ず、古い教えと新しい教えが対比されて語られていることに気づきます。それは新しい教えが、古い教えに卓越していることを証しするためです。古い教えは「戒めと畏れ」の教えであり、罪を生むものであるとするなら、新しい教えは愛と恵の教えであり、罪からの解放を目的としているからです。このことによって、揺るぎの中にあるへブル人に勇気を与え、迫害に耐え、キリストの教えに戻ることを、この書の著者は、心の底から望んだのです。
これから本書の最後の13章を読みます。ここでのテーマは「宿営の外に」です。私たちはこれまで、この書簡の背景になっていた、信仰に揺るぎを感じていたへブル人のことを念頭に入れて読んできました。これからはこの書簡のハイライトです。彼らは、迫害や圧迫の中にあって、神に疑いを持ちその神への信仰に躊躇し迷いの中にありました。この書簡の著書は、これらの人々に対して、どのように生きていかねばならないかを教え、諭し(13:1~9)、その結論として「宿営の外に出て、御許に行こうではありませんか」と語っています。宿営の中には幕屋があります。大祭司は至聖所の中に、動物の贖いの血をもって入り、それを自分と、民の救いのために捧げました。しかし動物の体は幕屋の外で焼かれました。同様にイエスもご自分の血で、民を聖なるものとするために、そのからだは門の外で十字架の苦しみを受けられたのです。
「私は、あなたに命じたではないか。強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神=主があなたの行くところ、どこにでも、あなたと共にあるからである(ヨシヤ1;9)」。これはへブル人に対する励ましの言葉である
令和2年4月14日(火) 報告者守武 戢 楽庵会
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます